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塩原太助<30.9.5記>

<始めに>
 群馬県の郷土かるたに「上毛かるた」という群馬県民なら誰でも知っているかるたがある。名所旧跡・名産・偉人などを網羅している。

 その中の””の札に『沼田城下の塩原太助』という偉人を詠んだ札がある。江戸時代の豪商となった塩原太助を詠ったものである。しかし群馬県人といえども太助の人物像について語ることは難しい。


上毛かるた

そこで先ずは、群馬県みなかみ町新巻497を訪ねてみた。ここには、太助の郷-塩原太助記念公園がある。
 子爵澁澤榮一書による塩原太助翁之碑や、愛馬「あお」との別れのシーンの銅像などがある。


塩原太助翁之碑


愛馬「あお」との別れの銅像

塩原太助翁之碑の左手には報徳太助神社がある。右手には塩原太助記念館があり、見学をして予備知識を得ることにした。入口は和風建築の直売店で300円の入館料を支払い、渡り廊下を経由して蔵造りの記念館に入る仕組みになっている。


報徳太助神社


塩原太助記念館

記念館の見学によって分ったことは、江戸の落語家-三遊亭円朝の創作本である。円朝は明治9年(1876)9月、太助の甥にあたる塩原金右衛門に面会し、綿密に実地調査を行っている。そして明治11年(1878)、大衆受けに創作したのが、人情噺-塩原多助一代記である。

創作であるから、事実と異なる脚色部分が多い。たとえば前述の一代記で名前を太助ではなく、多助に変ているのもその例である。つまり噺を聞く人が感動するように歪曲しているのである。その最たるクライマックスが愛馬あおとの別れのシーンである。
 一代記は当たりにあたった。歌舞伎や講談でも数多く公演されて、観客は大いに涙し、太助に憧れ、自分もいつしかそうなりたいと思ったであろう。

太助の生家が記念館から、国道17号を三国峠方向に200m程上って行った右側にある。御子孫が住んでいるので、敷地に入るのは控えた。


塩原太助生家

記念館から国道を三国峠とは反対方向に300m程下っていくと、左側に塩原家の墓地がある。
 太助の墓碑側面に文化十三年閏八月十四日と刻まれている。文化十三年は1816年である。
 墓石の前には遺髪が埋められ、その上に石の供養碑が据えられている。この石を削って持ち帰る輩がいるそうだ。太助にあやかろうというのが理由らしい。そのために何度か石を取り換えたという。


太助の墓碑


遺髪埋葬の石

 太助の出生には諸説あるが、上州-新治村(にいはるむら)下新田(現-群馬県みなかみ町)において、寛保3年(1743)2月3日父・角右衛門と、庄右衛門なる人物の妹(詳細不明)との間に生まれたという説が有力である。幼名を彦七といった。

寛延2年(1749)太助7歳のときに母を失い、継母とめの手で育てられた。太助はとめから辛く当たられ、宝暦11年(1761)8月、19歳のときに家を追い出され、職を求めて江戸へ向かう。家出の理由には、当時どこにでもあった口減らしのためと考えられる。江戸と考えたのは下新田が当時三国街道筋で、旅人から江戸の情報を得られ安かったからだと思われる。

太助の在郷時代について、一介の農家であるだけに不明な点が実に多い。江戸へのルートも分らないままである。

そんなわけで愛馬を連れて家出をし、途中で松の木にあおを繋いで、単独の逃避行となったというのも、本当にそうなのかは不明である。

というのは、「あお繋ぎの松」と呼ばれる場所が三箇所もある。その場所は次のとおり。

沼田市白沢町上古語父(シラサマチカミココブ)にある正縁塚(ショウエンヅカ)
みなかみ町師田(モロダ旧新治村)の山中
高山村にある金毘羅峠(コンピラトウゲ)付近

先ず1番目の沼田市の繋ぎ松をご紹介する。塚の登り口に建てられている石碑には「塩原太助愛馬別れの松」と刻まれている。現在の松は4代目である。


塩原太助愛馬別れの松-碑


別れの松

次は2番目みなかみ町の繋ぎ松をご紹介する。

記念館で教えて貰った道は、塩原太助生家の前を通り過ぎ、最初の信号-下新田を左折。橋を渡り、曲がりくねった急坂を登って行く。すると路傍に小さな標識があり、「塩原太助1.7km」とあった。


塩原太助1.7kmの標識

躊躇無くその道に入り、しばらくすると畑地となり、どういうわけか逆さ文字で「愛馬別れの松」と標識が有ったのでそのとおり進んだが、行き詰まりの道ばっかりでちっとも分らない。その内に地元の軽トラに出会ったので聞いて見て漸く検討が付いた。分らなかった筈である。標識の打ち釘の1本が抜けて、板が180度逆さまになっていたのである。
 余計な手間がかかってしまったが、気が付くのが遅かったと素直に反省。一応、次の人が間違わないようにと修理して、いざ進路修正。そのうちに廃道のような悪路になり、また心配になった。


愛馬別れの松

やがて、ソーラー発電パネルが設置されている道になり、さっきの軽トラ小父さんの説明を思い出して、迷わず直進した。すると草茫々の道となり、轍から外れないように、そろりそろりと注意して進むと目の前が小広い場所になった。見廻すと解説板があり雑木林の中に一本松もある。


馬繋ぎの松(別れの松)


大きな一本松

解説板を要約すると、太助はあおを松の小枝に繋ぎ、一散に七曲りという坂を登って反峠に向かったとある。時に宝暦11年(1761)8月20日とある。
 この場所は香才ケ原(別名-外ケ原)というらしいが、現在その地名は地図には無く、師田と書かれている。同じように七曲り・反峠という地名もない。いずれにしても太助は山の上を目指して登って行ったのである。

3番目繋ぎ松は高山村の金毘羅峠付近にある。この場所までは車で簡単にいける。ここも初代の松は残っていない。木の大きさからも代替わりしていることが分る。


塩原太助馬つなぎの松


何代目だろうか

ここは2番目の松から、山を一つ南に越えた隣村である。言ってみれば、2番目の松から太助が「七曲り・反峠に向かった」とすれば、まさしくここに該当する。

これで取りあえずは調査終了した。しかし何とも印象が良くない。とても史実とは思えないのである。

しかし、太助が江戸へ向かったのは事実である。ではどのようなルートを選んだのだろうか。そのことを推理してみたい。

先ず2番目の松、ここが太助の生家から一番近い。馬を連れていた、いないは兎も角として、江戸への最短距離である。前述の七曲り・反峠という不明な地名を無視して、現存する地名を当てはめれば切ケ久保峠(853m)が浮上する。この峠は現在は廃道になっているが、国土地理院の地図には記載されている。この峠を越せば高山村の旧中山村に下りられる。そして三国街道の渋川宿に合流する。

この先、三国街道は高崎宿で中山道に合流し、倉賀野宿の追分で日光例幣使街道が左へ分岐し、右へは中山道の江戸道が続くのである。下の写真は常夜燈も道標も現在の姿である。太助が江戸へ南下する時には常夜燈はまだ建っていなかった。道標は建立年月日が刻まれていないが、もしかしたら太助はこれを見て感慨にふけり、右の江戸道へ歩をすすめたかもしれない。


常夜燈


道標

ところで、太助が路銀も持たずに江戸への旅が出来たのだろうか。これはちょっと無理だと思われる。『塩原多助一代記』によれば、多助は榛名神社の坊僧に助けを求め、数日間滞留したうえ路銀を借りて江戸へ向かったように書かれている。しかし榛名神社に立ち寄ると道中が迂回し、長逗留などできはしない。ましてや路銀借用とはいかないだろう。

確かに榛名神社には玉垣と石灯籠を寄進しているが、これは恩返しの為ではなく、後年の信心による寄進と捉えたほうが自然である。同じような寄進は他でもやっているのである。
 江戸で豪商となってから、数多の社会奉仕をしており、その遺跡が各所に現存している史実が証明している。この点については文末の<参考文献>を参照していただきたい。

太助は文化5年(1808)榛名神社に玉垣を寄進している。信刕高遠藤澤郷御堂垣外石工藤澤政吉との銘がある。因みに、石工は現在の長野県伊那市高遠町の名工であった。(桜で有名)


遺髪埋葬の石

文化12年(1815)5月、太助は榛名神社に石灯籠を寄進している。江戸で豪商となってから、数多の社会奉仕を行なっており、その遺跡が各所に現存している。同じようなことは他でもやっているのである。
 今でこそ榛名神社の門前町の入口から天神峠の下方150m程の所まで県道33号が出来ており、あっという間に榛名湖に達してしまう。しかし以前は榛名神社の本殿脇から石段を降り、榛名川の河床まで下りて番所を通過してから川沿いの登山道を天神峠に登ったのである。


天神峠の石灯籠

榛名町指定民族資料

天神峠の石灯籠

 文化12年(1815)5月 寿山塩原太助寄進

 東方旧天神峠より昭和57年現在の位置に移築された。高さ約5.5m町内最大で石造美術品としても優れている。
 高崎菅清成書、信州伊那郡高遠石工藤沢政吉造立等の銘がある。
 約100m東方にある道標とともに旧天神峠の交通・民族資料として貴重である。

榛名町教育委員会

石灯籠の石垣には移設に関する陰刻の石板が嵌めこまれている。


陰刻の石板

翻って三遊亭円朝は、なぜ塩原太助への思い入れが強かったのだろうか。太助が亡くなったのは文化13年(1816)で74歳だった。2代目太助(2代目角右衛門の子であり、継母の孫でもある子息を養子に迎える)が家業を継ぎ、死去したのは天保9年(1838)。

このとき円朝は23歳になっており、塩原太助の人物像について極めて興味を抱いていたものと想像される。円朝は37歳のとき、住居を塩原屋の近くに移し、創作意欲に燃えて明治9年(1876)上州へ実地調査を行った。3代目太助(2代目太助の子息)が家業を継いでいるが病弱のため家業は衰退。

円朝は明治33年(1900)8月11日に62歳で死去。死後も「塩原多助一代記」の人情噺は、歌舞伎・浪曲・講談等で公演されて人気を博した。

太助が江戸に着いて職を得た先は、南伝馬町(現在の中央区京橋)にある味噌屋太郎兵衛方である。ここで明和6年(1769)頃まで丁稚奉公した。

その後、神田佐久間町(現千代田区神田)の薪炭業を営む山口屋善兵衛に奉公。

安永9年(1780)年の12月18日、故郷下新田の自宅にて、父角右衛門(初代)死去。

天明2年(1782)太助は39歳のとき、山口屋善兵衛の温情により暖簾別け。隅田川左岸の本所相生町2丁目堅川畔に薪炭を扱う店舗を出し独立を果たした(独立したのは1780年との説もありはっきりしない)。

 天明4年(1784)太助は23歳で亀戸の大商家藤野屋の一人娘お花(華)と結婚。しかし2年後の天明6年(1786)お花死去。続いて天明7年(1787)長女死去という不遇に見舞われる。太助26歳になっていた。太助は創意工夫して顧客拡大に努めた。当時は炭の販売は俵売りが普通であったが、太助は貧しい町民が買いやすいように計り売りをしたのである。もう一つ、山口屋にいたときに、主人の許可を得て粉炭を貯めていた。その粉炭を布海苔(ふのり)で固めた炭団(たどん)の発明によって江戸町民の心を掴んだのである。結果、開業して10年余りで豪商と称されるようになった。しかし初心を忘れずに質素倹約を旨としていた。とは言え、信仰心も篤く社会奉仕には多額の寄進を惜しみなく継ぎ込んでいた。かつて苛めを受けた継母には恩返しもしている。

享和3年(1803)新治村下新田の継母とめの米寿を祝う。

文化5年(1808)榛名神社に玉垣寄進。江戸本所塩原屋太助と刻んである。石工は信州高遠藤澤郷御堂垣外藤澤政吉。因みに高遠は現-伊那市高遠町でコヒガンザクラで有名。江戸時代に沢山の石工が群馬県に出稼ぎに来ていた。

文化9年(1812)継母とめ死去。

文化12年(1815)榛名神社の天神峠に石燈籠を寄進。石工は信州高遠藤澤郷御堂垣外藤澤政吉。

文化13年(1816)8月14日太助74歳で死去。遺骸を菩提寺の足立区東伊興4-4-1萬年山東陽寺に葬り、遺髪は前述のとおり、故郷である上州下新田の塩原家の墓に埋葬された。

故郷から太助の甥である彦太郎(2代目角右衛門)が江戸に出て、2代目塩原太助を継いだ。
太助の長女は日本橋中橋の喜谷実母散に、次女は日本橋茅場町小西家にそれぞれ嫁いだ。

その後、3代目太助(2代目太助の子息)が家業を継いだが、病弱のため家業は衰退し没落した。

ところで円朝は23歳の頃から塩原太助の人物像について極めて興味を抱いており、37歳のとき、住居を塩原屋の近くに移し、創作意欲に燃えて明治9年(1876)上州へ実地調査を行ったことは既述のとおり。

円朝は明治33年(1900)8月11日に62歳で死去した。

<主な文献>
1.塩原太助ーその実像と真実 H30.3.15 大野富次
2.新治村誌
3.高山村誌
4. 榛名神社〜天神峠
5. 塩原太助炭屋跡
6. 丸亀太助灯籠
7. 三津五郎-塩原太助の墓所を訪問

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