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群馬県渋川市行幸田(みゆきだ)南原地区、榛名山の中腹にある。東方に赤城山、その裾野の右側には前橋市街地が広がっている。絶好のロケーションである。 ここで秋の青空の下、行幸田そばまつりが開催された。と言っても、一面ソバの花に覆われた畑のど真ん中である。周りを見ても農家は一軒も見当たらない。住宅街からかなり高度を上げた山中の台地である。今は農地の近くに家を持つ必要はない。農道が整備され、軽トラで難なく通えるからである。 昭和30年代中頃までは麦、ソバ、大豆等の雑穀を作付けしていた。ここで取れたソバは製粉加工し、地名を冠して豊秋そばとして関東近辺で販売していた。 その後、養蚕の普及とともに桑園への転換が進められ、ソバは姿を消した。しかし21世紀を目前にしてソバの作付けが復活したのである。18ヘクタールのソバ畑を、ミツバチが盛んに飛びかっている。 ソバ畑を復活させる裏には、それなりの戦略がなければならない。その戦略とはこうだ。先ず作付けの年間サイクルを効率化する。言い換えれば畑の遊休期間をなくすことである。そこで考えたのが麦を刈取った後、ただちにソバを蒔くのである。そうすれば11月に収穫できる。昔の人手作業の時代はそういう芸当ができなかった。今は農業の高齢化によって機械化農業の時代になった。それを逆手に取ったのである。 今の高齢者は頭がいい。機械をフルに使いこなすために、山畑とは言いながら区画整理をしたのである。機械が入れるだけの升目の畑を作ったのだ。ここまでが生産段階の戦略である。 次は販売段階の戦略である。昔のネーミング「豊秋そば」はそのまま使うことにした。耳に心地が良いからこれを積極的に印象付ける。次に農産物直売所では、特産品と位置付けて消費者に売り込む。「そば工房」を併設して、食文化に関心のある人たちを対象にそば打ち体験で消費を拡大する。という具合に、地域農業の活性化政策として、関係者が一体となって協力し成果を上げている。そばまつりは見学手法によって、今や県内随一のソバ畑として認知度を高める為の戦略というわけだ。 今日は僅か一日限りのイベントであるが、ソバの無料試食会につられて開始時間前には長蛇の列ができていた。
伊勢崎市-境島村には、全国でも珍しい県道の一部をなす「島村渡船」がある。群馬県と埼玉県の県境が利根川の中心にあれば問題ないのであるが、実際には随所に越県?的現象が見られる。その理由は、江戸時代に行われた築堤工事のためと言われる。 話は脱線するが、平成の大合併で県境が綺麗な形になることを期待したのであるが、そんな自治体は一つもなかった。合併協議が難しかったのか、あるいは歴史上の愉快なエピソードが無くなるのを惜しんだのかも知れないが、僕はどうも後者のような気がする。実際の話、歴史をひもとく作業ほど面白いものは他にないからである。
話を元に戻すが、利根川の左岸(北側)と右岸(南側)は一本の県道である。両河川敷とも堤防を越えて砂利道となり、川の部分は8人乗りの木舟で補完する。500m程の航路を約5分で運行する。県道であるから、運賃は無料というわけである。 毎年5月の第3日曜日には、「島村渡船フェスタ」が開催される。僕達夫婦も生まれて初めてライフジャケットを着けて、県道の渡船を体験した。昨日まで梅雨のような雨続きで、川は濁っていた。
しかし空はご覧のとおりである。右岸に渡って北を見れば、赤城山にも雲一つない青空だ。
事情を知らない人は、埼玉県に群馬県の小学校を発見して、さぞびっくり。
島村は、最盛期には蚕種(蚕の卵)をイタリアへ輸出するほど古くから養蚕が盛んだった。その記念碑が小学校の南側に建っている。 さらに南へ足を伸ばすと、蚕種製造に尽力した田島弥平の顕彰碑も建っている。そこから通用門をくぐると、蚕種製造の面影を残した大きな建物がある。
たまたま穏やかな顔をした現在の御当主がいた。すでに蚕種製造は歴史にとどまる遺産になってしまったが、当時は建物が幾つもあり、棟と棟を結ぶ空中の渡り廊下を指差して当時の繁栄を語ってくれた。
東北自動車道-館林ICの東に渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)がある。今日はそこへ行ってきた。冬の枯れ野もいいものである。あらかじめ、Yahooの天気予報を見ると、風速は静穏と出ていた。案の定、現地は無風状態で歩けば汗が出るくらいであった。 渡良瀬遊水地には渡良瀬川(わたらせがわ)・巴波川(うずまがわ)・思川(おもいがわ)の三つの川が合流する。今でこそ遊水地ができ、水系上流にもダムができて、その心配は過去のものとなったが、昔は大雨のたびに洪水が発生し、乱流に地形を変えられ続けた低地帯である。
近年では、昭和22年に関東地方一帯を襲ったカスリーン台風によって増水氾濫し、大被害をもたらしている。 昔からの度重なる洪水に、住民の生活の智恵として生まれたものの一つに水塚(みつか)なるものがある。洪水に襲われて母屋が水没しても、最低限生き延びる対策を立てていた。敷地の一角に3〜5m土を盛り上げて倉庫を建て、1階には、米・麦・味噌・醤油等を保存し、2階には衣類・炊事道具・家具類を保管していた。盛土の高さは、経験則に基づいて場所によって決めていたのであろう。
渡良瀬川下流のこの地域は、群馬県・栃木県・埼玉県の三つが接しており、少し下流には更に茨城県が加わっている。この四県のみならず、下流の利根川下流域も洪水の被害に悩まされていた。時の明治政府は、洪水を防ぐために栃木県谷中村を廃村し、遊水地化したのである。 ところで渡良瀬遊水地の建設計画には、厄介な闘争事件が付随した。足尾鉱毒事件という歴史上の大きな公害問題が絡んだのである。その頃、明治政府の国策として、富国強兵の事業の一環として、渡良瀬川上流の栃木県足尾で銅山の採鉱を行なった。 そのうちに降雨時の足尾銅山から鉱毒が流下するようになった。渡良瀬川流域の農地は汚染され、大きな被害を受けて農民は貧困を極めることになった。この農民こそが、現在の遊水地に暮らしていた谷中村の人々である。 時の栃木県選出の代議士に、田中正造なる人物がいた。農民の請願行動の先頭にたって、帝国議会で奮闘した。天皇に直訴し、当時の新聞紙上をにぎわす一大社会問題を惹き起こした。その後、議員を辞め谷中村に入って闘争を続けたのである。 買収は栃木県によって進められ、936町歩余りが買収され、380戸の移転が強行された。明治40年(1907)、残留16戸の家屋が強制破壊されて谷中村は消滅した。現在、小高いいくつかの水塚と延命院共同墓地跡だけが、当時を忍ぶ唯一のものとなったのである。 昭和の時代に入っても、大洪水が相次ぎ、洪水調節機能はさらに強化された。これによって利根川水系全体の洪水被害はなくなったのである。
渡良瀬遊水地は、サイクリングやモーターグライダーで遊ぶ若者達の一大楽園になっている。そのような悲劇の歴史をしらなければ、渡良瀬遊水地はなんとのどかな草原ではなかろうか。自然の動植物も豊富、人間の営みの場から隔絶したこの場所は、ひと時の憩いを確実に提供してくれるのである。
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