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2008年

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取材地域は、主として群馬県の前橋市です。
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ノコギリ屋根博覧会カイコのいた時代のくらし展文化財探訪世界らん展富岡製糸場

ノコギリ屋根博覧会<20.12.6記>

 群馬県の東部にある桐生市。昭和の中期までは華やかだった。絹織物の街として全国に名をはせたのだが・・・。その後、合成繊維に押されて、しだいに衰退の一途を辿った。
 その桐生市で、標題のとおり変った名前の催し物が開かれた。織物工場のノコギリ屋根にちなんだネーミングである。現在、ノコギリ屋根の建物は220棟残されている。しかし機織工場としての役目は終えて、他の用途に転用されている。衣類関係の業務のほかには、アーティストや芸術家集団、ベーカリー、自動車博物館など多彩である。機織(はたおり)の音は消えても、新たな用途で、ノコギリ屋根工場の再生を図りたいものだ。



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カイコのいた時代のくらし展<20.9.29記>

 養蚕県を誇っていた群馬県も今は昔、平成の初めころから桑園も徐々に姿を消していった。巨大な養蚕造りの家もあちこちに点在しているが、やがては消える運命にあるのだろう。幕末には生糸が輸出総額の8割を超える時代もあった。まさに文明開化の財政を支えた歴史がある。
 いまでも「群馬県蚕業試験場」や「群馬県立-日本絹の里」などが業務を続けており、各地の民族歴史資料館は、養蚕文化の伝承に努めている。養蚕農家は激減したものの、いざ石油の枯渇が近づいた場合には、いつでも養蚕を再開するだけの技術が温存されている。
 前橋市南部に「上川淵地区郷土民族資料館」がある。ここで、9月6日から28日まで“カイコのいた時代のくらし展”が開催された。養蚕道具の展示、蚕の飼育実演・座繰り体験などが行われ、最終日には公開講座“カイコを飼ったころ”が開催された。座談会の主役は実際に農家で働いた70歳前後の女性たちである。群馬県は「カカア天下と空っ風」といわれる土地柄であるが、養蚕の稼ぎ頭であったことに由来する。



文化財探訪-信州高遠石工の石造物<20.3.18記>

 群馬県の中央部に渋川市がある。利根川をはさんで東に赤城山、西に子持山・榛名山を擁している山村風景豊かな地である。

 赤城山の裾野が利根川に落ち込んで、河岸段丘を形成している辺りは渋川市赤城町。平成18年に合併するまでは「赤城村」だった。河岸段丘を縫うように、沼田街道が昔の面影を色濃く残している。

 この旧赤城村で、「文化財探訪-信州高遠石工の石造物」と題する見学会が開催された。案内人は、「ぐんまの達人」制度において認定された、角田尚士(つのだたかし)氏である。氏は地元史跡の掘り起こしをしており、高遠石工の石造物32体を確認している。群馬県内では、高崎市の40体に次いで多いそうだ。

 ところで、その「高遠石工」であるが、現在は長野県伊那市高遠町に端を発する。江戸時代、高遠藩が財政維持のために、石工の出稼ぎを奨励したことにある。石造物の分布は、信濃周辺の近隣各地に多いが、遠くは三重県・山口県にも確認されているという。

 石造物は他の造形物と違って、形が残りやすく、かつ地域住民の信仰を集めて比較的保護されてきた。幸いにして、石造物の研究者は各地に多く、風化して判読困難な文字を読み解く努力がなされてきた。現代になって高遠石工の足跡は、かなり鮮明になってきたと思われる。地下に眠る石工たちも、さぞ満足しているに違いない。

 旧赤城村の石造物も、角田氏はじめ多くの地元史家によって、ほぼ実態が明らかにされたようだ。その成果は、渋川市から立派なガイドマップとして発行された。今後現地を探訪し、しばし昔に思いをはせる石造物愛好者が増えるに違いない。今回のバスによる見学会は、彼岸の穏やかな日差しのもと、和やかな雰囲気のうちに行なわれた。







世界らん展<20.2.29記>

 「世界らん展日本大賞2008」が東京ドームで開催された。さすがに華やか、人も多かった。日本大賞と優秀賞は茨城県の斉藤正博氏がダブル受賞した。


一人占め⇒日本大賞


と優秀賞



群馬県からの出品⇒


寄せ植え



気に入った寄せ植え

花名は「Sayuri Yoshinaga」

富岡製糸場<20.2.24記>

 今、群馬県の西部にある富岡市が燃えている。富岡製糸場を軸とした関連遺産が、我国の世界遺産暫定リストに記載されたのが約一年前。ここまでが国内でのアプローチ。今後は、日本国から、ユネスコへ推薦し、遺産評価のため、現地調査が行なわれ、ビューロー会議の審議を経て、最終的に世界遺産委員会によって、登録の是非が決定される。したがって世界遺産登録へのアプローチは、道半ばということになる。

 しかし、地元の赤レンガ愛好者は、登録の悲願を胸に燃えている。幸いなことに、新聞やテレビの報道に刺激されて、同様の愛好者が県内外からも訪れる。これといって観光の目玉のない地元の関係者は、石見銀山にあやかって何とか世界遺産を物にしようと張り切っている。

 現地へのアクセスを解りやすくするために、たとえば、こんなところにも気を遣っている。上信越自動車道の富岡ICから、製糸場にいたる道筋に建てた案内標識だ。外国人にもわかるように、英語・韓国語・中国語の文字が加えられている。これだと、初めての訪問者でも、行きずりの人に道を尋ねることなくアクセスできそうだ。

 製糸場を見学する訪問者が多ければ多いほど、地元の解説ボランティアも、解説の声に力が入ろうというものだ。

 製糸場建設にかかわったのは、フランス人技師である。当然のことながら、日本とフランス両国の威信が試されたプロジェクトであった。詳細は次のページをご覧いただきたい。
官営富岡製糸場

 2月24日、”富岡市製糸場課”の企画による「第2回日仏交流150周年記念講演会」が催された。講師は、横浜国立大学名誉教授-西堀昭氏である。氏は、横須賀造船所や、明治時代初期のフランスとのかかわりを研究している。題目は「フランス科学技術導入と富岡製糸場」である。

 今まで富岡市製糸場を語るときに、多くの人が製糸場に直接かかわった人物にのみスポットをあてていた。西堀講師は、主として”横浜開港資料館”に保管されている資料を丹念に調べ、新たな事実を発掘している。その結果、今まで伝えられてきた間違いを指摘し、見えなかった人物像を浮かび上がらせ、フランスの国策などが、より明瞭になってきたという。

 他の多くの国が植民地にされたのと違って、日本は鎖国が長かったにもかかわらず、そうならなかった。欧米の列強に支配されないだけの賢さが、日本側にはあったからだという。列強の進出を受け入れ、文化を吸収する過程には、必然のこととして、あらゆる分野で知識を学ばなければならない。日本は真剣にそれを学び、外国の諸々の制度を参考にして、日本独自の新制度を作った。これと同じように、日本は発展途上国に金の援助だけでなく、教育を伴った技術移転が必要であると、西堀氏は語った。


製糸場案内標識

街なかの奥が製糸場



ボランティアによる説明

視聴室での解説



西堀教授の講演

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