このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
取材地域は、主として群馬県の前橋市です。 |
女子大は群馬県玉村町にある。ここで定期的に開催されるのが、「群馬学」を冠した時宜に応じたシンポジウムである。今回は『群馬県民の日記念 関越自動車道全線開通30周年 高速道路がひらく社会参加と新しい暮らし』というもの。 最初に記念講演として、多摩大学学長・日本総合研究所理事長の寺島実郎氏が『アジアダイナミズムと関越道ー新たなパラダイムをみつめて』と題して壇上に上がった。
シンポジウムのパネラーは、女子大の教授2名と司会1名・群馬県 県土整備部部長・NEXCO東日本関東支社副支社長の5名によって構成された。 ・人と人とのつながりと「道」 群馬県藤岡市保美濃山と埼玉県神川町矢納との県境に位置する下久保ダム(水資源機構)。利根川水系の神流川を利用した重力式コンクリートダムである。目的は電力需要の多い時間帯にピーク発電を行なうためである。 その下久保ダムで、6月28日に放流ゲート4門を完全に開ける点検放流が行なわれた。 この日は、群馬・埼玉両県の二市町が共催で観光イベントを行なった。左岸(群馬県側)の発電所広場にテント張りの総合案内所と売店や救護所を設けていた。人数制限のない一般公開の他に、テレビドラマのロケ地と、地下発電所の見学は先着順の人数限定である。 点検放流の時間帯は10:00〜14:00で順次10分間隔で行なわれた。既に早朝から1門だけが放流されてスタンバイしていた。 ダムの完全放流は平成22年6月以来5年ぶりで、昭和44年に管理を開始して以来3回目と極めて稀なことである。このところの降雨によって実現に至ったそうだ。何はともあれ貴重な見学を得られることになった。
低いほうの放流門を「常用洪水吐」といい、高いほうを「非常用洪水吐」という。低いほうの中間に拡散用?の弾頭型突起物がある。とにかく圧巻の風景だった。 4門完全放流を見終わった見学者は、放水路ダム直下のトンネル内点検通路の入口に殺到して長い列を作った。テレビドラマのロケ地見学者は、解説員にうながされて優先的に点検通路に誘導された。
「ワイルド・ヒーローズ」のドラマは、H26年にTBSで放映された。EXILEが演じている。ロケ地は埼玉県側ダムサイト右岸の山地中腹の平坦地で、今日は観光関係者が空撮しようとドローンを飛ばしていた。
「アリスの棘」のロケ地は放水ゲート室の上にある。日本テレビで今年、放映されたばかりだ。上野樹里さん演ずるダークヒロインが飛び落りようとして、オダギリジョーさん演ずる新聞記者に留められたという。
ダム天端から真下の放水路を見ると、画面の上に変電所・送電鉄塔・発電事務所が見える。その右手には仮設テントと周辺には人の群れ、そこから画面左下に向けて円弧状の通路に見学者が続く。さらに右手下流に延びている道は、三波石峡の駐車場に続いている。 左岸から連絡橋を右岸へ渡ると、山陰に地下発電所に下りるクレーンタワーがある。4,5台の車は発電所職員の車。
クレーンタワーから職員の先導でエレベーターで地下室に降りる。
見学は順調に終わった。エレベーターで地上に出て、そのまま三波石峡の右岸を下る。
ダムからの放流水によって三波石峡は水嵩が増している。
橋を渡ると駐車場である。時刻は14:30。午前中に車が溢れ、狭い林道に1kmほど下流まで路上駐車をしているという情報も今は解除されている。僕等は朝の行動が早かったので、それに巻き込まれずに済んだ。 その講演会は群馬県前橋市で行われた。題して『トルコ・アナトリア遺跡記念講演会』である。
アナトリアとは、トルコ小アジア半島の内陸部を占める盆地状の高原地帯をいう。標高800〜1,200m。首都アンカラから南東に、約100km離れた位置にカマンという村があり、周辺に遺跡群が密集している。
その一角にアナトリア考古学研究所と、カマン・カレホユック考古学博物館が併設されている。
トルコはヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要衝にあたる。長い歴史の中で、常に異民族が通過し、勢力争いが繰り返されてきた。強者が土地を奪い、また別の強者に侵略されてきた。そして多様な文化の異なる生活の痕跡が塚のように層をなして遺跡を形成したといわれる。これを発掘調査し年代ごとに分類すると、民族移動の文化圏を知ることができる。 この調査には日本が深く関わっている。それが三鷹市にある公益財団法人-中近東文化センターであり、トルコのアナトリア考古学研究所はその附属設備と位置付けられている。所長は大村幸弘氏で、講演会の講師として壇上にあがった。フィールドワークが多いらしく、日に焼けて精悍な顔つきであった。遺跡発掘の説明も細部に渡り具体的で、滔滔とまくしたてるように淀みがなく、手振りも力強く人の気をそらさない。
トルコに研究所と博物館を建設するにあたっては多額の資金が必要であった。それには三笠宮寛仁(ともひと)親王殿下が募金委員会の委員長として、日本全国から寄附金を集められた。2007年6月〜2009年4月の間に4.36億円のカンパを得た。これを基に大村所長は研究施設を整え、発掘の指揮をとって事業は現在も継続中である。 事業を成功させるには、一つの信念があった。現地の人たちの知識を育てて、発掘から遺物の整理・解析をし、年代ごとに分類することができる作業スタッフの養成である。さらに博物館に展示して見学者に解説する学芸員の養成も必須である。このことによって、研究所と博物館の運営が維持できるというコンセプトである。副次的効果は、日本人が盗掘を行なっているのではないかとの疑いを防ぐことができる。 なぜこれ程までに日本とトルコが友好関係を維持できているのだろうか。それには歴史を遡る必要がある。 明治23年(1890)9月、オスマン帝国(現トルコ)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本の潮岬の大島沖合で沈没した事件である。その軍艦は、親善訪日使節団で、皇帝親書を明治天皇に奉呈することが目的であった。その帰途に横浜港を離岸し、大島沖合に差し掛かった時、台風に遭遇し岩礁に激突して沈没した。これにより、特使とともに、540人が犠牲になり、生存者は69名に過ぎなかった。事故の第一報は、数十メートルの断崖を這い上がって、樫野埼の灯台守にもたらされた。
樫野埼灯台は、現在、自動点灯の無人灯台で内部は非公開であるが、外部の螺旋階段を上って太平洋の大海原を展望できる。眼下の岩礁にうねりが押寄せ、砕ける波が陽光を反射して白く輝いていた。
トルコ記念館から灯台までの沿道には、絨毯・雑貨・アクセサリー・食べ物など、トルコバザールの露店が並んでいた。売り子はすべてトルコ人の男女である。先ほどの海難史を知らなかった僕らは唖然として、異次元の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚にとらわれたのだった。 ところで、今回の講演会が前橋市で行なわれた理由には、一つのエピソードがある。 話を元に戻す。トルコとの友好には、三笠宮崇仁(たかひと)親王が関係する。古代オリエント史を専攻する歴史学者であったことから、殿下の発意で東京三鷹市に中近東文化センターが開設された。そして平成10年(1998)、現地トルコのカマンに、アナトリア考古学研究所が開設されたのである。 この地で、(財)中近東文化センターが発掘調査を行っていた。発掘した出土品を遺跡近くの施設にまとめて保管・展示していた。これを何とか整然とした形にしたいとトルコ政府より日本に支援要請があった。 三笠宮崇仁(たかひと)親王がご高齢になっていたので、息子の寛仁(ともひと)親王が受けてたち、その実現に向けて行動を起こした。考古学研究所や博物館ならびに日本庭園「三笠宮記念庭園」の隣接施設とともに、一つの文化施設複合体が完成した。現在、日本を中心にトルコや欧米各国を含めた国際的な文化・学術交流の場となっている。
博物館では、日本の専門家による指導を含め、研究者、博物館関係者に対する研修やシンポジウムをアナトリア考古学研究所と共催している。トルコ政府関係者、研究者、国内外発掘調査隊のみならず、子供達を含めた多くの地元市民やトルコ各地からの大学生などその幅は広い。日本人観光客を含む観光客なども来訪し、日本・トルコ文化協力の象徴的存在となっている。
<リンク> 群馬県庁の県民ホールと県民広場で、危機管理展が開かれた。この日は阪神淡路大震災の20周年にあたる。それに東日本大災害、26年2月に前橋市民を仰天させた観測史上未曾有の大雪などに見舞われた。さらに長野県では御嶽山の噴火、白馬村周辺の大地震と自然災害が続出している。
屋外では災害用特殊車両が展示されており、自衛隊による災害用のLPガスバルクで炊き出しが行なわれていて、お相伴に預かった。
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