このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
取材地域は、主として群馬県の前橋市です。 みなかみユネスコエコパーク / 日本一の温泉・草津 / 前橋と古利根川 / 桐生のぼたん寺 / 群馬県における古墳文化 / 横室歌舞伎保存会が演じる / ダブルホワイト |
玉村町の群馬県立女子大学において、「三国路がつなぐ共生の道」と題するシンポジウムが開催された。 群馬県最北のみなかみ町が、2017年6月14日「みなかみユネスコエコパーク」として登録された。ユネスコエコパークは、あまり認知度はないが、正式名称は(Programme on Man and the Biosphere ; MAB計画)という。ユネスコで制定した「人間と生物圏計画」に基づいて成立した国際的な指定保護区を指す。これを日本では分りやすくユネスコエコパークの呼称が用いられている。 詳しくは みなかみユネスコエコパーク をご覧いただきたい。 シンポジウムは基調講演として与謝野晶子紀行文学館の館長が民話によって、みなかみ町の自然と人々が共生していることを語った。
玉村町の群馬県立女子大学において、標記のシンポジウムが開催された。学長と草津町長の挨拶に続き、『泉質主義:日本一の温泉・草津の戦略と課題』と題して、一般社団法人草津温泉観光協会長・中澤 敬氏の基調講演が行なわれた。
シンポジウムのパネリストは、前述の中澤 敬氏・草津温泉女将会湯の華会初代会長-市川 薫氏/一般社団法人草津温泉観光協会人材育成部会長-佐藤 勇人氏/ぐんま観光特使 高崎経済大学講師-佐藤勉氏/群馬県立女子大学コミュニケーション学部教授 安齋 徹氏。 錚々たる顔ぶれのもとに、それぞれの分野で主張を披瀝した。共通していることは、前述の合言葉であり、日本一の草津温泉の特徴を生かして、協力しあうかということである。 もう1つのコンセプトがある。国土交通省観光庁の製作の一つに日本版DMOである。一言でいえば観光地域づくりである。これを草津観光のツールとして取り入れた。 草津には季刊の草津時間(くさつどき)という観光情報誌がある。これを読むとコンセプトに沿った内容が紹介されている。片岡鶴太郎美術館や、草津温泉の象徴ともいうべき熱之湯に飾る絵のオファーの記事や、感謝祭などのイベント、ハイキング登山などの屋外活動、そして音楽の森国際コンサートホールの記事、夜の湯の町のライティングなど、季節や昼夜を問わず楽しめる草津町周辺の楽しみ方を紹介している。さらにgoogleとタイアップして草津温泉ポータルサイトを設け、動画を豊富に取り入れていることである。 これらの徹底した勢いは今後も絶え間なく続くだろう。草津町の人口は平成29年6月現在で6,547人。人口の9割が観光事業に従事している。最近は東南アジアから従業員を迎えているそうだ。よりよき関係を築き、健全で健康的な草津町として発展することを期待したい。
<リンク> 前橋市の県庁西側を利根川が流れている。それを上流に約5kmほど遡ると群馬大学の荒牧キャンパスがある。古利根川の広川原に立地している。
屋外で、かつて利根川であった幾つもの痕跡を説明。いずれもキャンパス内。 僅かに雨模様の中、聴講者も興味津々。坂道あり、段差あり、大小の玉石あり、過去に洪水に見舞われた施設が2m以上の高塀で囲っているなど、皆頷くばかり。 予定時間をはるかにオーバーして、ようやく終わった。 何か今までの常識が否定されたような、しかし新知識が得られたような余韻の残るレクチャーであった。 ちょうどゴールデンウイークの頃、群馬県はあちこちでボタンの花が見られる。今回は桐生市にある二つのお寺を訪ねた。 1.宝徳寺:桐生市川内町5-1608
ぼたん祭りの初日は特別イベントが行なわれた。美味しいケータリングカー(移動販売車)の出店や、着物ショーを開催。今ブームになっている御朱印会。客殿における「寺カフェ」と多彩であった。
本堂裏の崖上から見ると湧き水による池があった。池の縁に下りると錦鯉が寄ってきた。
裏山は墓地になっているが麓の景色が見られる。
2.龍真寺:桐生市新里町新川1051 龍真寺は平野部に近い。平成の代合併で、新里村から桐生市に編入した。以前来たときとと違って門前に広い駐車場ができていた。境内に入ると、本堂の前が賑わっていた。住職も加わって談笑している。
墓地の手前に大きな仏像が建っている。その右手には他では見られない構造物があるが、共同霊園らしい。
本堂の左手にぼたん園が広がっているが、それ程の面積でもない。 本堂の右手に行ってみて驚いた。手前の堂宇に遮られて気がつかなかったが、その奥にも庭園があったのだ。
庭園の趣が違って、ぼたんだけではなく四季にわたって多種の植物を観賞できそうだ。大小取り混ぜて庭石も置かれている。
春もみじは赤いが夏に向かって緑色になるらしい。ヤマブキも滝のように垂れ下がっている。
今はぼたんが主役である。 見終わって出口までくると、地元の農家が朝採り野菜を安く売っていた。
3月4日、群馬県前橋市の群馬会館において、壮大なイベントが開催された。その名は「古代東国の古墳文化」というもので、—古墳総合調査の成果から—という副題も付いている。イベントの主催は、県教育委員会と県埋蔵文化財調査事業団である。 イベントには古墳の権威である県立歴史博物館の右島和夫館長と、宮内庁陵墓課の徳田誠志陵墓調査官が列席し、群馬の古墳文化を巡る講演と対談が行なわれた。
県教育委員長からは、古墳総合調査にボランティアで協力してくれた161名の県民調査員に感謝状が贈呈された。
古墳総合調査は約80年ぶりの大規模なもので、2012年度から2015年度まで4年がかりで実施された。その成果を当時、調査指導委員会の委員長を務めた現-県立歴史博物館の右島和夫氏から概要説明がなされた。 調査に当たっては、研修を受けた県民調査員らが市町村教委や県埋蔵文化財調査事業団から提供された資料などを基に現地で古墳を確認したり、資料のデータ化を進めたりしてきた。 古墳の基数は、1935年(昭和10)に行なわれた調査をまとめた「上毛古墳綜覧」には8,423基と記録されている。今回の総合調査では、2015年までの4年がかりで実施され、その総数は13,249基と報告された。上毛古墳綜覧に対して4,826基増えたのである。 なぜ増えたのだろうか。それには時代背景が相当に関係する。昭和年代後半、田中角栄首相の日本列島改造論で大規模開発が行なわれたことにある。群馬県では関越自動車道・上越新幹線・上部国道の建設事業・土地改良事業などが一斉に浮上した。このことにより埋蔵物の露出が一気に上がったのである。右島和夫館長の話によれば、今後新たな発見が予想されるので、13,500基以上になるだろうという。 いずれにしても、調査は県教委が2012年度から開始。県民調査員らが協力し順調に進んだ。調査員は日頃、地元住民との結びつきが強く、古墳の所有者に聞き取りを行なう際、出土品の飾り金具を見せて貰ったり提供を受けたりしたという。 そのさなか、上信自動車道-路線予定地の金井東裏遺跡で事業団が発掘中に、異様な鉄の塊が出土した。これが後に『甲(ヨロイ)を着た古墳人』で世紀の大発見となった。2014年(平成24)11月のことである。場所は渋川市榛名山北東麓に形成された扇状地の端部である。
日本史の年表を紐解くと、時代区分の古墳時代は西暦391年から538年であり、その期間は147年の長きに亘る。 さて、「甲(ヨロイ)を着た古墳人」についてもう少し記述する。実は2017.2.3NHKテレビ総合の「歴史秘話ヒスとリア」で『謎の古代王最後の戦い-日本のポンペイから探る-』が放送された。ドラマ仕立ての簡潔な解説で解りやすく興味深い。 群馬県庁の県民ホールと昭和庁舎では、出土品や解説パネルとともに、大型ディスプレーの動画解説もなされた。
甲を着ていた人物は男の成人の、すぐそばに乳児、少し離れて成人の女と幼児が発掘された。つまりは親子4人の家族であることが判明したのである。 古墳人は6世紀初頭の榛名山の噴火による火砕流の被災者とみられる。掘削した地面には人や馬の足跡が多数残っていた。近くには「日本のポンペイ」と呼ばれる黒井峰遺跡もある。 武人は流れ来る火砕流に向かって両肘、両膝を突き、前のめりに頭部を地面につけた姿勢で甲を着ていた。地面につけた頭の下からは冑(かぶと)も見つかった。そしてすぐそばには甲がもう1領見つかった。 このような事例は、東アジアでは韓国で1例あるだけだという。周辺では、鉄製の矛や鏃なども見つかり、多数の貴重な金属製品が散乱していて予想外に先進的な生活実態であったことが浮かび上がった。 鉄製の矛や鏃(やじり)のほか、希少で多様な鉄製品も出土し、隣接する金井下新田遺跡からは鍛冶工房跡が見つかった。馬を飼育していた跡も発見。5世紀末から6世紀初頭、古墳時代後期の東日本で驚くべき技能集団が居たことになる。武人から約30m離れた場所で見つかった祭祀(さいし)遺構からは農耕具や鉄器も出土した。 では、甲冑姿の武人はどんな人物だったのだろうか。骨や歯などについて九州大の田中良之教授らが詳細な形質人類学的調査を行った結果、武人は40歳代前半ぐらいで面長、鼻が細く渡来系の形質があった。育った地域の地質が反映される歯のエナメル質を分析すると、現在の長野県伊那谷周辺で幼時を過ごした可能性があり、群馬県へ移住したと推測されるとのことである。 <リンク> 歌舞伎保存会は群馬県前橋市富士見町の横室(よこむろ)にある。その歴史は宝暦2年(1752)に遡り、古文書に『当村の踊り此年より初める也』とある。 歌舞伎に対する熱意には瞠目するものがあり、江戸まで遠出して7代目市川団十郎着用の衣装を購入するほどで、購入衣装600点近い衣装のうち15点が昭和36年に県指定重要有形民族文化財に指定されている。他村に赴いて上演も行なっていたようで、2001年の「農村inあかぎ」においても上演した。演目も多いため衣装が多く、同地730番地の衣装倉に保存されている。 1月29日の最終日曜日、前橋市民文化会館大胡文館で、保存会による歌舞伎が披露された。 時は源平合戦のさなか、生田(いくた)の森に陣を張る熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、主君 源義経の「一枝を伐らば一指を剪るべし」と書かれた制札から、この意味するところとして、「後白河法皇のご落胤と噂のある平経盛(つねもり)の子 敦盛(あつもり)を助けよ」と解釈。敦盛と同い年の我が子 小次郎とすり替えて、密かに敦盛を合戦場から助け出す。 陣屋に戻った直実は、妻の相模と追てから逃れるために直実に救いを求めてきた敦盛の母 藤の局に敦盛討死の様子を語り、義経の首の検分に備える。やがて主君が家来を伴って現れ、直実は首を差し出すが、その首は何と直実の息子 小次郎の首であった。直実は敦盛を救うため、同じ年齢の我が子を身替りにしたのである。騒然となる母二人を直実は押しとどめ、制札を手にして義経の言葉を待つ。義経は身替わり首を実検して、敦盛に間違いないと断言する。 この陣屋には平家にかかわりのある石屋の弥陀六を取り調べようと、源氏の侍 梶原平次景高もやってきていた。梶原は、義経が敦盛を助けたと知ると、鎌倉の頼朝に注進しようと走り出すが、弥陀六が梶原に石鑿を投げ付け殺してしまう。弥陀六は実はその昔、幼い義経の命を助けた弥平兵衛宗清という平家の侍であった。宗清の顔を覚えていた義経は恩に報いるように、藤の局と鎧櫃に隠した本物の敦盛を弥陀六に託す。一方、鎧兜にに見を包み、再び義経の前に現れた直実は、義経に暇乞いを願い出る。そして兜と鎧を脱ぐと、髻を切って白無垢の衣類に袈裟の姿となった熊谷次郎直実は、義経の許しを得て仏門に入り、我が子 小次郎の菩提を弔うため旅立って行くのであった。
この時代においては、時に我が子の命さえも犠牲にするのが武士社会の習い。しかし剛毅な武士と言えども我が子を討つ苦悩が表現されており、戦の世の無常、人生の儚さが胸を打つ。 横室は、明治2年まで村であり、他の12ケ村と共に合併して富士見村となり、さらに2009年に前橋市に編入されて富士見町横室となった。横室の地歌舞伎は、「横室歳代記」という古文書に記されている。江戸歌舞伎が明和7年に「神霊矢口渡」を初演し、翌明和8年に横室で上演したことから考えるとその間1年足らずであり、その素早さに驚くばかりである。 保存会のメンバーは本業の合間に稽古するのだろうけれど、伝統文化を継承しようと日夜切磋琢磨していると聞き敬意を表するばかりである。 伊勢崎市の西部は前橋市や玉村町と接しており、見通しのきく田園地帯が広がっている。夏季に水稲を、秋季から春季にかけて大麦・小麦を栽培する二毛作を営んでいる。農道と用水路が整備されて、田園は格子状に区画されている。農繁期は各種の農業機械がうごめき、軽トラが走り回る。 田園地帯は、当然のことながら景観のビューポイントである。住宅地を超えて関東平野を取り囲む周辺の山並みが見える。 主なる山名を挙げれば、東から男体山・赤城山・子持山・榛名山・浅間山・妙義山・荒船山・八ヶ岳である。 その中で、群を抜いて高く聳えているのが浅間山(2,568m)である。1月26日、手前の山には積雪はないが、浅間山は真っ白である。思わず1956年のイタリアにおける冬期オリンピックで、スキー競技の三冠王となったオーストリアのトニーザイラーのことを想起した。ザイラーが1959年に映画の主役となった「白銀は招くよ」である。浅間山の斜面は恰好のゲレンデに見える。 もう一つ、頂上に立ち昇っている真っ白に見えるのは、小規模な水蒸気爆発ではないかと思われる。しばらく眺めていると、間欠的に立ち昇っては消え、また立ち昇ることを頻繁に繰り返す。
その二つの白い景観から、思わず「ダブルホワイト」という言葉が頭に浮かんだのである。 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |