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 昭和30年代は、戦後復興の大型プロジェクトが急ピッチで進められた時代である。これに伴い、エネルギー源の確保が急務であり、外資を必要としない水力発電が最有力視された。その結果、只見川水系・信濃川水系を初めとして、全国各地で未踏の山岳地帯に電源開発の建設部隊が投入された。このうち、最も建設困難な場所が黒部川水系である。多くの関係者が黒部峡谷で命を落としている。

 その黒部峡谷には、大正時代から電源開発が進められた、クライマックスは関西電力が手がけた黒部第四発電所の建設である。当時の新聞に計画段階の記事が登場するたびに、私はその記事を切り抜き、それを元に電源開発の意義をまとめたのが、この仮想対談である。

 信州育ちの僕は、福島県富久山町(現郡山市)の化学繊維工場に就職した。工場は米軍の集中爆撃で潰滅したが復旧。11年後の昭和31年に就職したことになる。僕は電気屋のはしくれで、工場も66kvの特別高圧変電所と、4,500kwの火力発電所を有していたから、当時の電源開発には非常に関心が高かった。加えて登山ブームの中で、山岳ハイウェイの建設は自然を破壊するものだからやめるべしという、今にして思えば登山者こそ破壊の元凶ではないかという反省をかけらも持ちあわせていなかったのだから、人のことを悪く言えたものではないなと恥ずかしくなってしまうが、とにかく電源開発に関する新聞記事は熱心に読んだ記憶がある。

文中の( )書きは、注釈として追記した。

黒部電源開発-仮想対談

昭和38年(1963) 1月-記

 私達は山に登る。多くの登山家が低い山よりも高い山を目ざす。高い山には深い谷がある。そしてその谷が深ければ深い程、断崖絶壁となり、幽玄さを増して人を寄せ付けない。それだけに私達は困難に立ち向かい、美しい物の中にひたろうとしている。

 ところで、深く大きな谷になった場合、その谷をひとり登山者だけが占有できるだろうか。その谷の姿はいつまでも変らないだろうか。否、そうではない。私達と同じように、或いはそれ以上に精魂を注ぐ人達がその谷に入り込んでいる。それは電源開発に執念を持つ人たちである。

 彼等の谷に対する情熱は尋常ではない。登山家のそれは個人レベルの域を出ないが、彼らは国家レベルの元に、目的意識を持って立ち向かっている点が大きく違うのである。

 対象物が同じでも、違った角度からものを見つめる事は面白い。意義ある事でもあると思う。そこで、電源開発の第一線で活躍しておられる技術者のE氏にご登場願って、黒部峡谷について、いろいろとお話を伺った。


記者:初めまして。早速ですが、お話をお聞かせください。私達にとっては黒部は日本一の渓谷美という事でたいへん魅力があるんですが、あなた方にはどんな意義があるんですか。

E 氏:一口に言って、発電に最適の河川という事ですね。もう少し詳しくいうと河床の勾配が物凄く急で、年間の降水量も多いんです。そして冬たくさん積もった雪が夏まで持ち越すもんだから、平均して大きな電力を生むことが出来るんです。

記者:黒部の電源開発は、いったいどの位までいってるんですか。

E 氏:包蔵水力が全部で100万kw(キロワット)あるんです。そのうち、すでに開発したのが、だいたい43%ですから、まだまだこれからですよ。

記者:キロワットというのが、規模的によく分からないんですが・・・。

E 氏:たとえて言いますとね、黒部の一貫した開発が終わったときには、大阪市の一切の電気を賄って、なお余りあるという大きさなんです。

記者:そう言われると分かります。凄いもんですね。開発はいつ頃から始まったんですか。黒部峡谷に係わった人物で、山岳界には冠松次郎(かんむりまつじろう)という有名な人が居るんですが、この人が大正7年ごろ初めて人跡未踏の黒部を探索して、その渓谷美を世に紹介しているんですが。

E 氏:その人は私も知っています。そのときに連れていた人夫と一緒に激流に流されて、危うく命を落とすところだったと言うことですが、黒部は確かにそんな所ですね。電源開発も大正7年にジアスターゼの発見者として知られる高峰譲吉博士が、黒部の水力発電の可能性にいち早く注目し調査を始めました。一番古い発電所で、大正15年から運転を開始しております。

記者:ほほう!期せずして同じ大正7年に片や山岳会の重鎮、片や気鋭の学者が時を同じくして黒部に注目したというのは、何か因縁めいていますね。もっとも、電源開発の初期の段階では、特に運搬業務にかなりの山岳関係者が関与したことが考えられますよね。特にボッカさんの活躍なくしては語れないんじゃないでしょうか。昨年の新聞に、黒四発電所完成(発電所のみの完成で、まだ運連開始はしていない。)の記事が大きく出ていましたが、大変な壮挙らしいですね。工事に係わった人達は誰しもそれを誇りに思っているんじゃないでしょうか。

E 氏:ええ、これは私達が日本の科学技術とねばり強さを、世界に誇っていい自慢のものなんですよ。ダムはアーチダムというものですが、高さが186mで世界第4位、輸送とか地形の困難だった点は、世界第一でしょう。山屋さんには興味のある話なんですが、工事着工の当初、富士山からボッカを連れて、大変お世話になったんです。あの通り人跡未踏の峡谷ですから、自動車が全然入れないんですね。ボッカさん400人で3,000トンの建設資材を立山の一の越(2,590m)を通って運んでくれたんですよ。

記者:なかなかの難工事だったらしいですね。でもボッカだけに頼っていたわけではないでしょう。

E 氏:ええ、それから長野県の大町市から延々15kmに亘って黒部まで、道を作ったんです。途中北アルプスのどてっ腹に5.4kmの自動車トンネル(大町トンネル)をくり貫いたんですが、これには大阪市大の梅棹忠夫助教授もたまげたらしいですね。「誰が思いついたのか知らないけれれど、まったく途方もないことを考えついたものだ。」なんて感心していました。

記者:黒部には発電所がいくつあるんですか。

E 氏:既設のものが13、これから建設ないしは増設しようとするものが六つ程あるんです。

記者:そうすると、ダムと発電所だらけなんですね。口幅ったいようですが、私達自然愛好者にとっては、自然美を守るということで、電源開発には反対の立場をとっているんですが、そういう点を開発屋さんはどう思っているんですか。

E 氏:その事では建設省と文部省とやり合ったことがあります。なにしろ、黒部は世界的な峡谷美を持っておりますし、国立公園ですからね。私達にしても自然の美は尊いものと思ってますから、分別もなく造るわけがないんです。なんと言っても戦後の日本は、復興が目覚しく、電力がそれに追っつかなかったんです。それで黒部に目を付けたんですが、結局建設することになって、その条件としてですね、自然美を守るということと、雪崩れの危険から発電所や、輸送路は一切地下式にしたんです。先ほどお話した大町トンネルもそうですが、ダムと発電所をつなぐ黒部トンネル、発電所の建物は、丸ビルがすっぽり入る地下にあります。地表に出ているのは、ダムと送電線だけなんです。それも自然と科学技術がうまくマッチして、新しい美しさを醸し出してますね。

記者:それで少し安心しました。黒部川上流の日電歩道ですが、数百mもある絶壁のはなをサーカスのように渡るあのスリルが、もう味わえないんじゃないかと心配したんですよ。

E 氏:あれは大丈夫です。実は日電歩道というのは、旧日本電力会社が開削した道のことなんです。40年も昔、黒部上流の小資源を踏査した日電の技術者達が開いた道なんです。その頃の建設技術では、とうてい開発は不可能と言われながらも、水力調査をしておかねば気が済まなかったんでしょうね。電源開発の執念のこもった道なんです。

記者:あゝ、そういうことですか。そのような詳しいことまでは知りませんでした。申し訳ありません(笑い)。それを私達が無断で使用していたとは、開発屋さんには感謝しなければいけないんですよね(笑い)。改めてお礼を申します。

E 氏:道と言えば、黒部には変った珍しい乗り物がありますね。宇奈月温泉から欅平までお猿の電車を大きくしたような、関西電力の電車が深い谷間をピーピーとあえぎながら登るんです。それから黒部トンネルと地下発電所を結ぶ所に、日本一のインクラインもありますね。34度の急勾配で800mあるんです。もっともこれは人間をのせるんじゃなくて、資材を運ぶためですがね。それからエレベーターもありますし、なんと言ってもスリルのあるのは、仙人谷のロープウェイです。千円出しても惜しくないでしょう(笑い)。

記者:なるほど。ところで、高熱トンネルというのが有名なんですが、そのお話をひとつ。

E 氏:それは仙人谷ダムと欅平の中間にあるんです。現在ここに導水トンネルを掘っている最中なんですが、高熱地帯を横切るため岩盤の温度が135度前後あるんですよ。蒸気の噴き出る切羽に素手で入るのは熱湯を浴びるに等しいので、大型の送風機2台で谷間の外気を注入して、熱気を追い出し、黒部川から水を上げて、切羽にまくんです。こんなにしても、岩盤温度は70度前後、坑内温度も35度〜40度なんです。これでもまだ良い方で、昔、耐熱爆薬のなかった昭和12、3年頃には、ダイナマイトの自然爆発で、27人の犠牲者が出たそうです。(推薦—高熱隧道:吉村 昭)

記者:電源開発の仕事はあまり世間の人に知られないんですが、よく艱難辛苦に耐えて、やってきたものですね。実は私の親戚の人が9年ほど前に黒部で亡くなってるんです。関西電力に勤務していて、同僚と二人で電源開発の調査に行ったんですが、同僚のすぐ脇でクレバスに落っこちたんです。いまだに遺体は上がらないんですよ。
 ところで、この辺でどうでしょう。温泉や景勝の話に移りたいんですが・・・。

E 氏:そうですね。祖母谷(ばばだに)の合流点に猿飛の奇勝がありますね。急に川幅が狭められて奔流となっている。

記者:その下流に鐘釣温泉、川原の露天風呂で、大きな岩を陰にして、あちらの岩穴、こちらの川原と快適だそうですね。

E 氏:宇奈月温泉は黒部川峡谷探勝の入口として有名ですが、この温泉は大正の末、旧日本電力会社が、電源開発に乗り出したときに始められた歴史の新しいものです。

記者:上流へ行くと十字峡白竜峡と次々に織りなす壮絶幽玄な峡谷美は素晴らしいですね。まだまだ挙げたら切りがありません。ところで黒部の将来というものにについて・・・。

E 氏:私達はこれからも仕事を続けます。一方、観光面では岳人ばかりでなく、一般人にも黒部のベールは剥がされようとしています。それは富山県から、立山の中腹にトンネルを抜き、ダムの上を通って長野県の大町へ抜け、近くの有峰ダムや宇奈月温泉へ連絡する「立山・黒部・有峰開発計画」というものです。
 その他に数々の観光プランもスタートして、黒部峡谷をアメリカのグランドキャニオンや、アルプスのユングフラウにも負けない豪壮な観光ルートにする開発が夢見られております。秘境黒部がその全容を世人に親しく見せてくれる時が刻々と近づいているわけです。

記者:ただその場合に、一般の人達に自然を汚さないという公徳心があってくれるといいんですがね。年取った親父やお袋が元気なうちに完成したら、せめてもの親孝行に連れて行きたいですね(笑い)。
 じゃ、時間になりましたので、また。どうも有難うございました。

(終り)

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