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奥鬼怒撤退記

 栃木県の鬼怒川を奥深く遡ると、福島県と栃木県の県境の山系にぶつかる。いわゆる奥鬼怒の山々だ。栃木県側はやがて利根川となって太平洋に注ぎ、福島県側は阿賀野川となって日本海に注ぐ。国道121号は江戸時代、日光と会津とを結ぶ街道として賑わった。現在は両県を結ぶ鉄道が交通の便を良くしているが、僕が福島県から奥鬼怒に入った昭和30年代は、栃木県側から入るのがもっとも効率が良かった。

 奥鬼怒の栗山村には、湯西川温泉と川俣温泉の二つの温泉が、鄙びた温泉として岳人の間では有名であったが、その栗山村も2006.3.20に今市市・足尾町・藤原町・日光市とともに新設合併したばかりである。

 以下、悪天候で撤退した悔しい想いを、復刻版として紹介する。


奥鬼怒山系位置図- mapion

文中の( )書きは、注釈として追記した。

昭和36年(1961)記

 昨年(昭和35年)、11月に田代山から黒岩山を縦走する計画を立てたが、湯ノ花温泉の星力氏と、手白沢温泉の宮下昌丈氏に問い合わせたところ、15号台風の影響によって倒木甚だしく通過困難という事だったので、やめたのである。

 今年になって5月、再び地形図を検討して、田代山から黒岩山に出て、鬼怒沼林道を歩いて白根山をも踏む5日間(18日〜22日)の日程を組んだが、降り続く雨で1,464mの上部まで行って引き返してしまった。山行記録には程遠いが、今後の計画立案に多少なりとも参考になればと思い報告する。

 この山脈は昔は尾根道もあり、福島県と栃木県を結ぶ峠の道は相当利用されたという。今は、交通機関が発達し、あまり使われなくなっっている。ただ、田代山までの土呂部道は鞍部ごとに鳥屋(とや:渡り鳥の通り道になる山にカスミ網を張って、ツグミなどを捕らえるための番小屋、現在は禁止されている。)があり、山頂は見応えのある田代になっているというので、湯西川と湯ノ花の人達はよく登っているということだ。

 私は本流を遡って1,250mの鳥屋に一泊したが、あとで調べてみたら、三河沢から1,540m付近に抜ける新道が出来ているので、これを利用すれば大分行程ははかどる筈である。

 旧道は暗い繁みの中に荒れるにまかせ、人もあまり通らないこととて、草に覆われ、枯草が積もって深閑としている。一夜の宿をお借りした無人の鳥屋は、萱のしとねが気持ち良く、夕暮れの雲間に見えた奥鬼怒林道太郎山が強くまぶたに残って眠りに入った。翌朝は、しとしとと静かに木葉を濡らす雨。登る時々に台倉から派生する尾根が馬坂沢から湧き上がる霧を透かして見えた。そのうち晴れるだろうと思っていた天候は、逆に強雨に変り、下半身ずぶ濡れになって、じわじわと腹にまで這い上がってきた。

 とうとう山を諦めて、潔く撤退することにした。三河沢を左の谷底に見る原始林の斜面を下る。姿は見えないが、水嵩の増した沢筋から怒涛の響きが伝わってくる。それがV字谷の斜面に反響し、或いは樹林に吸収されてのことなのか、まるで女が嘆き悲しむ、阿鼻叫喚の様相だ。これがしばらく続き、杣道(そまみち)が沢筋に近づいて、漸く怪現象は消滅した。山岳文献には、吹雪の山中をさ迷い、幻覚の世界を体験した記録が数多いが、それとは異質の不思議な世界を私は体験したのであった。

 やがて川俣部落に下山した。ここでバスに乗って乗客の一人に教えられ、川俣温泉のふくよ館という宿を訪ねた。小さな宿はひっそりとして、下を流れる鬼怒川の眺めが、雨にけぶって美しかった。他に宿客は二人、上流に釣りに行ったらしく、夕方ビッショリ濡れて帰って来た。

 高下駄に唐傘をさし、宿の子供に案内されて石段を伝って川原へ下りて行くと、窪地に湯小屋があって、対岸からポンプで湯を汲み上げていた。一人湯槽に浸かりながら、また機会があったら山の帰りにここへ寄ろう。紅葉の頃はどんなにか素晴らしいだろうと空想しているうちに身も心もほのぼのと温まって満足だった。

 翌朝はまた雨、宿賃250円は安すぎると思いながら、礼を言って宿を出た。雨でゆるんだ道をバスは静かに走って川治に出た。一昨日、湯西川まで乗せて貰ったバスの運ちゃんとまた顔を合せ、窓越しに笑いあって通り過ぎた。

(終)

<参考>
 検索してみると、 ふくよ館 はいまだ健在で、ずい分立派になったのには吃驚した。

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