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会津駒ヶ岳・尾瀬

 今、尾瀬のオーバーユースによる自然破壊の問題が議論されている。その中で裸地化対策は重要課題の一つに挙げられている。色々な手立てが講じられているが、遅々として進まない。
 その元凶はいつ起こったのだろうか。
 実は、この山行記録の中に、「
アヤメ平の裸地化」に関する記述があったのだ。戦後のどん底から這い上がろうとする国民のバイタリティーは、凄まじい勢いで進み、一生懸命働く一方で、遊びの面でも競い合った。その結果、登山の分野では無防備の山をたちまち荒らしたのである。
 自然破壊を非難しながら、自ら山を荒らす登山者の一人として、いささか自己矛盾を感じながら、当時の山行記録をここに復刻する。

文中の( )書きは、注釈として追記した。

昭和36年(1961) 10月5日〜8日

はじめに

尾瀬の植物は、水芭蕉と紅葉で代表されている。それまで一度も尾瀬に足を踏み入れた事のなかった私には、果たしてそのどちらが良いのか全然見当も付かなかった。が、色々迷った揚句、遂に秋を選ばせた理由は、春に比べて人が少ないだろうという、唯それだけの事からであった。

紅葉は一見華やかでいて、その実瞬間的に燃えて、その後に来る凋落の物悲しさに、何かしら胸をしめつけられる思いがする。樹木の種類が多い尾瀬では、紅葉と落ち葉した樹木とが織りなして見られる。人気のない樹林帯を一人で旅すれば、ひしひしと湧き出す孤独感と、甘い旅情とが交錯することであろう。


尾瀬山行ルート/ カシミール3D

会津駒ヶ岳

10月5日未明、郡山発、磐越西線の人となった。雨は小やみなく降り続いて、闇の中から車窓を濡らしている。1時間ののち、夜も白々と明けて若松着。それより会津滝ノ原線に乗り換え、待つ間もなくすぐに発車して田島まで2時間近くを乗る。

このところ秋の前線が停滞して、ぐずついた天候の連続だったが、あえて決行したのは、短時日の紅葉を見逃さないためと、休暇との関係からであった。それにしても、これから出発しようとする時に降り込められる事は、ともすれば気のふさぎがちなものである。それが長い事まえから計画していた山行きであったから尚更のことだ。だが、こゝまで来たからには、とにかく行ける所まで行ってみるしかなかった。それに今日は一日降られたにしても、会津駒ヶ岳をあきらめて檜枝岐の旅館でゆっくりすればいい。この機会に名物の手打ちソバでも賞味して、信州のそれと比較してみるのも一興だと思った。

バスは桧沢川に沿っていくつか軒並みを後にし、針生を最後の部落として、それより駒止峠の登りにかかった。浅い谷に霧が漂って深々としている中に、エンヂンだけがうなりをたてる。その音も葉群に吸い込まれて耳にさわりはない。乗客はこの辺の人達らしく眺望のない景色には関心もなく、だまりこくって乗っている。昇る程にハゼの赤味が目立ち、他にも知らない樹木の色づきが増して来ていた。峠を越して間もなく、茶屋が一軒ぽつねんと立っているのに出会った。煙突からは紫色の煙がゆらゆらと真直ぐに立ち昇って、消えるともなく小雨の中に溶けている。程よく空の一角が開けて彼方に目を引く山並みは、駒ヶ岳から朝日岳にかけての連なりであろう。天気は快復のきざしを見せて来た。霧は谷から山腹へと緑樹にまつわりつゝ高みに昇っていく。

バスは右に左にハンドルを切って、あせらず下る。山畑が現れ、家が一つ、二つとふえて穏やかなたゝずまいを見せる山口に着いた。こゝは只見方面への中継点でもある。普通、檜枝岐へ入るには田島から山口まで来て、こゝでバスを乗り換える事が多い。中山峠を越えるのもあるが、内川での乗り換えが不便な様である。そんな山口のバス待合所の前に、映画館の広告が貼ってあるのは意外な感じであった。

再び車中の人となった。伊南川沿いに沼田街道をほぼ南に走っている。つまり福島県の隅へ隅へと向かっているのだ。田島からは山一つ越してもう道程の半分を来ている。伊南川は内川部落から檜枝岐川となる。左手の流れは舘岩川と云い、その名の如く舘岩村の降水を余すところなく集めて檜枝岐川に合している。

乗客の一人が、前方に見える山並みの左方を指し、あれが駒ヶ岳だと教えてくれた。だが上の方は雲にかくれて見えない。檜枝岐にさしかゝる頃、降り続いていた雨が漸くやんで雲の割れ目から初めて陽射しを見た。淡い光線であるが、望んでいたものが現れただけに喜びは大きかった。あたりの景色はパッと彩色を取り戻してまぶしく光る。この分なら駒ヶ岳は私達のものだと思った。駒ヶ岳登山口は停留所になっていないが、車掌に頼んで下ろして貰った。11時半、近くの民家に荷物を預けてサブザック一つを背負って登る。濶葉樹林の急坂は1,700mまでおよそ700mの標高差がある。その間狭隘な檜枝岐を見下ろすばかりで、たいして眺望のすぐれた所ではない。少し緩傾斜になって進むに従い、甘い香りの漂う針葉樹が現れ、駒ヶ岳から下沢に落ちる向い側の山腹に紅葉が今盛りだ。それは上方霧にむせんで色淡く、下方はしだいに緑におよんで消えている。はなやかな山の斜面に日がキラリと射して、谷をへだてたこちら側から見るとそこに漂う薄霧のベールが、虹のように美しい。

大木から小さな茂みになり、柔らかな草地に変って、小さな池塘があちこちに見られるようになった。すでに山上に至ったようだ。なるいふくよかな稜線は女性的なやさしさを持つ楽園だ。静かに水をたゝえた池ノ平とそれを取り囲む木々は、日本庭園に置かれた感じを抱かせる。自分のすぐ近くには霧があるとは見えないが、遠くはどこもかしこも乳白色に塗られて何も見えない。濡れたそよ風が頬をなでて、このしじまはいつ破られるかと思うばかりだ。人の話し声までが反響物がないだけに、小さく聞えて哀れな感じがする。こういう神秘的な静寂は、かつて二度味わった。一度は吾妻中津川でキャンプした時。川の流れが女の歌声に聞える錯覚を受けて妙だった。二度目は魚沼中ノ岳の祓川でのキャンプのとき。時折山風が雑草と潅木をそよがせて、ツェルトをこする音のみが身ぶるいするような静寂だった。

前方に三角点のやぐらが見えた。近づくと、予想もせずその傍らにねずみ色のテントが張られていた。私達の話し声によって、人の近づいた事を知らせようとしたけれど、中からは人の気配が感じられない。まるでテントだけが置き忘れられているようだ。外にはつぶれかけた一斗缶とアルマイトのナベが、飯のこげついたまま雨水を溜めている。人は里に下りたのだろうか。だが、家形テントに地理調査院と書かれているのを見て、私は急に親しみを覚えた。私が今持っている3枚の地図は、この人達の手によって作製されたものだからである。特に集成図「尾瀬附近」は登山者の為に、普通の五万分一の地図4枚分を1枚にまとめたものである。4色刷りで新記号も加えて従来の物よりはるかに読みやすく、しかも使いよく出来ている。やぐらの下にはバッテリー・投光器・その他測定器具も置かれていた。躊躇しつつ声をかけると、はたして中から返事があった。「おー」という唯一言だけ、何だか疲れたような声だった。悪いことをしたと思ってそこを離れた。

重畳とした山の展望は望むべくもなかった。天気が良かったら、さぞかし三角点を設けた理由が頷けるだろうに。もう時計は15時になろうとしている。

サブザック一つの身軽さなので下りは速かった。草原地帯から再び樹林の中に入った時は、すでに空からの光はほとんど絶えて夕暮れの様相を呈していた。ふと見ると、大樹の幹に彫られたいくつかの文字が目にとまった。黒い樹皮に刻み込まれたそれ等の文字は、人の名前である。最近彫られたばかりの生々しいものもあれば、全く古傷となっているものもある。山小屋の落書きと違い、これらの彫り文字には不快な念が感じられなかった。なんとなれば刻み込まれた姓は、星だの橘だの平野だのの檜枝岐を代表する姓であるからだ。平家の落ち武者部落を物語っている。

急斜面の七つ折れを下って麓に辿りついたと思われるあたりに、下沢の水を引いた小さな疏水がある。これは登山道を横切って小さな勾配を保ちつゝ部落の下手に落ち込んでいる。東北電力の檜枝岐発電所だ。普通、発電所というものは送電線によって他と連携されているのであるが、檜枝岐の場合は、単独発電所として60kwを発電し、この村の夜にこれだけが近代的と思われる明るい光を与えている。駒ケ岳に降る雪や雨が、文明の利器によって形を変えて村人達に利便を与えている。檜枝岐にとって駒ケ岳は昔に変らず結びつきの深い山という事が言えよう。

登山口に戻ったのが17時。それを待っていたかのように、再び雨が降り出した。その夜は丸屋旅館に投宿し、名物のソバを賞味したが、これは機械打ちで、やはり手打ちの時のような風味は出ていなかった。夜半激しい雨、明日が案じられる。


丸屋旅館

 燧ヶ岳

明けて6日はカラリと晴れた絶好の日和りである。しっとり濡れた檜枝岐をあとにして、沼田街道を行く足取りは軽い。傍らの沢は濁流である。村人達が大勢で堤防作りに大わらわだ。

途中砂利と角材を運ぶトラックに乗せて貰い、七入まで大分時間をかせぐことができた。頭の上を超高圧線が走っている。只見電源地帯から東京方面に向けて、近年架設されたばかりのものだ。この辺ぴな山奥をまさに日本の大動脈が通っているのである。

 七入から御池までは、濶葉樹林のたんたんとしたゆるい登りである。紅葉が初期に入っており、あでやかな雰囲気が一帯に漂っている。人の行き交うことのない退屈な道であるが、静かな場所を好む人にはこの燧裏林道は又とない道であろう。御池小屋はその名の通り御池の田代を控えて無人なのかと思う程に、まるで森の中の隠家と云った感じだ。チャタレイ夫人が訪れた森番小屋はこんな所かと想像してしまう。小屋の前に道標があって、真直ぐ進めば三条の滝へ、右すれば駒ヶ岳、左は燧ヶ岳への十字路である。私達は左の燧ヶ岳へ進路を取った。

御池
御池の分岐点

 今日は全くの上天気だ。登る程に、昨日の駒ヶ岳が指呼の間に見える。大津岐峠からのふくよかな起伏を持った連峰である。広沢田代熊沢田代からの眺めは、東方にせり出して来た日光連山と共に、いかにも深山という感じを与える。

広沢田代
広沢田代

 おっとりした山容がしだいに斜度を増して、遮る物のない空からさんさんと陽光が降りそそぐ。水の涸れた沢の頭では砂に足を取られ、ブッシュの道では喘ぎながら急登する。突然、見渡す限りの広々とした草原地帯と、累々とした山並みが眼前に展開した。まさしく尾瀬ヶ原だった。そしてそれを取り囲む奥利根の山々だった。

 私は何を先に眺めていいものやら見当が付かなかった。すべての物が一どきに目に飛び込んで来た為、唯おろおろとあちこちに視線を移すばかりで、一箇所だけを見ている事が出来ない。高く澄んだ空の下に、すっかりその姿をさらけ出している広大な水はらむ佳境は、あまりにも視野が広すぎて、容易にはその輪郭を捉えがたい。だが興奮は時がたつにつれて覚める。心の静まりと共に、私は改めて尾瀬なるものの全貌を眺めた。頭に入っていた地形が、実際のそれと次第に一致してきたのである。左手の尾瀬沼は満々と静かに水をたたえている。1,665mの高地に太古より深々と眠って来たかのような深山の湖だ。

燧ヶ岳より尾瀬沼
燧ヶ岳より尾瀬沼

 その青さは、湖岸を取りまく紅葉と彩色を競うかの様にあくまで深い。大江川湿原の一画には長蔵小屋も見える。右手には、一面草紅葉した尾瀬ヶ原だ。その間を拠水林が青い筋を描いている。この林の中を川が流れているのだ。尾瀬沼の荘厳な神秘さに比べて、こちらはめっぽう陽気な明るさを以って私達を招いている。尾瀬におけるこの二つの主要物を守護するかの様に、ぐるりとまわりを取り囲んだ山々。景鶴山から至仏山に至って最も美しい。西から反時計周りに東まで視線を巡らせると、四郎岳から黒岩山大江山へと奥鬼怒林道の峰々が連なっている。

 今立っているこの燧ヶ岳(2,356m)は、それらの主人格であり、東北随一の最高峰でもある。この水域に降った豊富な雨や雪は、燧ヶ岳と景鶴山の一端が開けて平滑ノ滝三条ノ滝の大瀑布を造っている。やがて下流に只見川となって流れ、奥只見田子倉発電所等、日本一の電源地帯を生み出している。聞けば、電源開発会社と東京電力の二社では、尾瀬の核心に向かって水資源の開発計画を練っている。東京電力のプランを一部紹介すると、先ず、平滑ノ滝の上流に高さ25mのダムを造る。この水をトンネルを通して群馬県に越県し、楢俣川に落とす。更に利根川に落として25万kw余りの電力を発電しようというものである。本来日本海に流れ込む筈の水が、流域を変更して太平洋に流れ出すというものだ。

 尾瀬の景観には全く影響はないというが、ダムの水面は尾瀬ヶ原より僅かに13m低いだけである。湿原地帯に悪影響を及ぼすのではないかと心配されている。下流の平滑、三条の両滝の水勢が衰える事は必至である。電源開発も大切であろうが、世界的な湿原地帯を破壊する事は自然愛好者にとって耐え難い事であろうと思う。

 小一時間の後ナデッ窪への道を取った。重畳とした山並みが徐々に沈んで行くのに変って、尾瀬が手の届く近さに迫ってくる。下りつゝある斜面に樺の木の肌白き幹が、沼の全景となって面白い調和だ。ガラガラの涸沢を下ると、真下に沼尻の平が現れる。沼に真直ぐ伸びている如何にも人工的な白い線は湿原に渡した板道だ(当時は木道という言葉はなかった)。

沼尻平
沼尻平-拠水林の向うに尾瀬沼

 この板道は、これより至る所に見られるが、敷設当初より賛否両論が交わされた。自然美を損なうものだという意見と、踏み荒らされて貴重な植物を台なしにしてしまうという意見。山の人口増加に伴い、どうやら後者の意見に賛成せざるを得ないと私は思う。

 沼の畔に立って後を振り向けば、もう燧の頂は山の肩に隠れて見えず、針葉樹と濶葉樹の点綴する斜面が目立つばかりだ。沼はひっそりとさざ波を立てゝ、ひつじ草が可憐な花を浮かべている。そろそろ日暮れだ。尾瀬への第一歩をしるした清らかな沼に別れを惜しみつゝ歩を進める。原までの一理余りの道程は、260m程の標高差を持つゆるい下りだ。

沼尻
尾瀬沼-沼尻畔

 沼尻川沿いの林間を辿りつゝ、薄闇の紅葉観賞も又楽しい。営林署で掲げてくれた木の名前を記した名札のおかげで一層興味も湧く。

 やがて見晴と呼ぶ原の端しに出た。山小屋が四つ五つ集まっている場所で、幾人かの泊客が夕餉の支度に忙しい。私達はこれを見過ごして温泉小屋に向かった。もうすっかり日が沈んで、山も原も安らかに眠らんとしている。足元もおぼつかなくなった。かなたの木陰ではテントの中の灯が赤い。原の中に突き出た樹木は、もう色彩を失っている。燧ヶ岳を振り向けば僅かに頂の空を赤くして、軟らかなシルエットと化している。

 林を曲がると小広い草原のむこうに、やっと、ほのぼのとランプの灯る二軒の小屋が見えた。

温泉小屋
温泉小屋

 今日の行程の長かった事を思うと疲れが一時に出た感じだ。17時45分、夜の帷は全くおろされた。もう客はほとんどが到着していて、私達は最後の組だ。尾瀬の山小屋は小屋というよりも、むしろ旅館というにふさわしく、私達は二階の床の間付きの部屋に案内された。風呂に入った後、食事だけは階下の食堂で他の客と一緒だった。

 黒い空にこぼれんばかりの星。明日の尾瀬ヶ原を胸に描きつゝ床に入る。

 尾瀬ヶ原

10月7日 昨夜寝る時にはキラキラ星がまたゝいていたのに、今朝起きてみればすっかり雨になっている。あまりの変りように、ぼやく事も忘れて唯感心するばかりだ。尾瀬という所は雨量の多い所と聞いていたが、こんなでは今日の予定は多少の変更もやむを得ないだろう。三条ノ滝を往復して尾瀬ヶ原を縦断し、至仏に登って山ノ鼻の小屋までの計画は、このまゝ降り続いたら至仏を切り捨てなければならない。

7時半、ワラジを着けて宿を出た(このころ湿原を歩くには地下足袋にワラジを履くのが一般的であった)。歩かぬうちからひどいぬかるみだ。ザックは宿に置いて来たからいいが、こうもり傘をさして急な道を下るのは楽ではない。平滑ノ滝近くの道が特に悪い。それでも何とか二つの滝を見る事が出来た。雨で増水した筈なのに水は濁っていないように見えた。平滑ノ滝は遠くからもその轟音が聞え、そばに寄ってみれば耳をつんざく程に、多量の水がアブクとなって岩を馳せ下っている。それを高い断崖から見下ろすのだが、カメラにおさめきれない程に、幅の広いしかも長い滑となっている。三条ノ滝の方は逆に両岸のくびれた落ち口からいっきに何十米かを落下して、しぶきをあたりにまき散らしている。その水量の豊富な事から、このあたりがダムの建設地としてねらわれているのも当然と思われる。

三条ノ滝
三条ノ滝

さて、再び温泉小屋にとって返し、今度はしっかり身支度を整えて、原への道を辿った。風がなく雨雲は低く垂れ込めて、遠くの景色が霧に咽んでいる。平らな木の道をこうもり傘をさして歩くのも風情が出ようというもの。見晴しの十字路を過ぎて、いよいよ広い原の中へ入らんとしたあたり、かなたの拠水林、或いは独立樹が、薄い霧の衣をまとい寂として神秘的だ。

下田代
下田代

景鶴山は南画の様に霧の中に浮かんでいる。二つの拠水林を難なく渡って竜宮小屋に来た。さっき先を歩く豆粒の様に見えた人達は、もう到着して濡れた荷物や衣服を直したり腹ごしらえをしている。

中田代
中田代の板道

尾瀬ヶ原散策の格好な休憩地だ。こゝを流れている沼尻川は福島県から群馬県への県境である。

私達もこゝで少し休んで出発した。まもなく竜宮の名の起こりであるカルストへさしかかった。予備知識がなければ知らずに通り過ぎてしまうところだが、尾瀬の歴史を見る時に、非常に興味深い物らしい。それは道を左にそれた沼沢地に始まっている。上から流れて来た水がいきなり行く手を失って、どこえともなく消えている。がよく見ると流れを阻まれたあたりは、枯木や木の葉が激しい渦に巻き込まれて水中へ没している。明らかに地底にもぐっているのだ。この水は一体どこに湧出しているものかとさがして見ると、道の反対側に深い堀となって恐ろしい勢いで噴き出している。雨で増水したせいかその辺いたる所水びたしで、今にも道までがその中に没し去ってしまうのではないかと思われた。ブヨブヨと気持ちの悪い湿原には、おびただしい数のイモリが、真黒な背を見せてひらひら泳いでいる。

中田代
中田代の拠水林

竜宮を過ぎてからというもの、道は段々と悪くなって来た。材木を半分に割った物を湿原に敷いてあるのだが、折からの雨に水にプカプカ浮いて何の役にも立たない。少しでも足を掛けようものなら、一回転して泥沼の中に見事に投げ込まれる。おそらく大勢の人達がやられたと見えて、その辺だけ草がむしり取られてシルコの様にこねられていた。湿原植物の根が張った地帯はかなり荒らされている。

対岸から大勢人が来て、お互い渡り合うのには大分時間がかかった。中田代の大堀川を越して、先ずは一安心と思った時、山ノ鼻から来た人達から、この次の橋は絶対渡れませんよと云われた。橋は完全に浮いてしまって無いも同然だという。やれやれと思ったが、すでに後には引けなかった。今いる所は山ノ鼻と竜宮との恰度中間であり、前後に難所を控えたとなればとにかく進むに限ると思った。

上田代
上田代

それにあの人達に渡れたものが、私達にも渡れない筈はないと思った。だが実際そこへ行って見て果たして尋常でない事を知った。川幅は今までの倍も広く、淀んでしかも深さがどの位なのか皆目見当が付かない。丸木橋は川床に打たれた杭に針金で結ばれているが、まるでバラバラ事件だ。てんでにプカリプカリとやっている。それならまだいいが向う岸半分は丸木さえ全然ない。弱った事になったと思いながらも色々手を考えたが、容易にいい考えが浮かんでこない。他に渡り場がなさそうだから、なんとしてもここだけが頼りだ。遂に意を決して私が先ず小手調べをする事になった。

最初から丸木に乗らないで、出来るだけ水に浸かって深さを確かめた。始めは浅くて固かった。つまり天気の良い時にはそこは岸の上である筈だった。果たして急に足がとどかなくなる所があった。本当の川だ。覚悟を決めて衣服の濡れるのも構わず、丸木に乗っかり腹這いになり、なるべく沢山の木をつかんで、そろりそろりと前進を始めた。これじゃあサーカスの綱渡りと同じだわいと半ば苦笑しながら、慎重に一寸一寸と進んでおよそ半分を渡り切った。そこから先は橋のかけらさえもないが、よく見ると水の底に水底植物でない植物が茂っていた。いつの間にか川を渡り切って、丸木のつきた所が、いつもは岸だと分かった。私が思ったより簡単に対岸についたのを見て、他の三人も勇気を出して渡り始めたが、油断は禁物。シーソーよろしく、一人が落ちるとその反動でもう一人が落っこちる。這い上がったかと思うと又落ちて、いさゝか見ている方も度を失った。こうなった上は覚悟を決めてと、水に漬かったまゝ転がる丸太にしがみつき水中移動を始めた。漸く岸に足がとどいて無事だと知り皆大笑いだ。が気がついてみると折角渡り切ったのに、こうもり傘をどこかに落としてしまった。やむなく私が又後戻りだ。こうもりだけかと思ったら、先日買ったばかりのシャープペンシルもなくしていたが、もう手の届かぬ水の中だ。山ノ鼻の小屋に着いたのが12時35分、足止めを喰わされた客がいっぱいだ。至仏山は雨雲におゝわれて登ってもつまらないようだ。

 至仏山・アヤメ平

10月8日 カラリと晴れた青空。山ノ鼻を至仏へ向けて6時45分に出発する。じめじめした森を抜けて見透しが良くなると、尾瀬ヶ原が目の前いっぱいに広がって清々しい気分である。

至仏山
至仏山の中腹から尾瀬ヶ原

頂上に恰度2時間かかって8時45分に着いた。360度、雲に遮られる事なく、数限りない山々が目に飛び込む。北アルプスは朝日にキラキラ輝いている。富士の秀峰が意外に近く見える。すでに数人の客が登っていた。秋の空気はすっかり冷えこんで皆岩陰に身をひそめている。雲も次第に消えてきた。

至仏山
至仏山頂から尾瀬ヶ原

私達もしばらく景色に見とれていたが、今日の行程の長い事を思うとゆっくりも出来なかった。尾瀬ヶ原、燧に一べつを投げると、すぐに小至仏への従走路に歩を進めた。楢俣川に落ちる右側の斜面は急なのに左側はなだらかで対照的だ。この辺一帯は植物の宝庫として有名だそうだが、私にはよく分からない。高山植物は飯豊の方がはるかに多いように思われる。もっとも今は秋のせいか。

小至仏から笠ヶ岳への道と分かれて鳩待へと下る。ブナ、或いはシラビソの梢を越して山荘が手の届く程の近さだ。もうここまで来れば、なんとなく関東側の臭いがする。登って来る客も男女10人程でごく簡単な服装だ。アヤメ平から鳩待を廻って日帰りするなんていうのもいるらしい。

鳩待山荘を11時に出発。しばしの間なるい木の下道を歩く事になる。雨上がりで少々むんむんする。昨年の台風の置き土産か、シラビソの倒木が道を遮って、時間もあまりはかどらない。それでも先程の至仏が、しだいに同じ高さになって来るから、アヤメ平への道のりはたいした事はなさそうだ。山ノ鼻との分岐にて恰度日は中天にかかった。今朝山ノ鼻の小屋を出る時、鳩待峠に下りた時間の加減を見てコースの変更を考えていたが、どうやら4日間予定通り歩けたものと見た。

どしゃ降りの郡山を出発する時には、どうせ降られるのに、ずい分もったいない金の使い方をするなと思ったが、今考えれば実際ついているとしか思えない。

アヤメ平13時着。その名に反して、尾瀬でおそらく一番きたないところだろう(すでに踏み荒らしの裸地化が進んでいた)。紙くず、空缶などが散らかっていないのは好感が持てるが、緑のじゅうたんとばかり思っていた湿地帯が、靴の泥落としみたいに真黒に汚れているのはあまりにも、無様だった。アヤメ平の発見者も今頃雲の上で、さぞかし嘆いている事だろうと思われた。昔なら神苑尾瀬はそのものずばりだったろうが、今はもう一泊550円(物価の安かった時代を物語る)の観光地だ。広大な湿原地帯と湖の美しさには目をみはるが、美しき尾瀬は自然愛好者という名の登山客と、電源開発とによって益々痛みつけられて行く。かくいう私もその一人に違いない。どんなに自然に対して謙虚な者でも、大なり小なり自然を傷つけている事は確かである。見事に生い繁った草木を踏み倒して道をつける事自体がそうであり、そこを通るだけで自然はもう人の手にかかっているからだ。私達が今更アヤメ平の汚さを嘆いてみても始まらない。元来景勝の地を世に紹介するのと、そこが都会の延長線として俗化していくのとは裏腹な関係にある。

アヤメ平
アヤメ平から燧ヶ岳

池塘のさびた水を沸かして、遅い昼食。時計は13時を廻った。数多い池塘のここかしこに憩いを求める人達が多い。富士見下のバス停留所からここまでは2時間半程で来られるから、日帰りの客でさすがに賑やかだ。天上の楽園と云った感じのこのアヤメ平は、燧の麗峰をいくつも池塘に浮かべて美しく、尾瀬ヶ原とそれを取り囲む十重二十重の山並みを望めて、みんな満足して帰っていくのかもしれない。

私達の旅もこれで終りとなった。だが私は猫又川の奥、尾瀬沼、はては奥鬼怒林道とまだまだ歩かない所が多い事を思い、アヤメ平を後にする時、心残りを感じて仕方がなかった。是非来なければと念じつゝ、時間にせかれて下山の途についた。

富士見峠から小型車の通れる程の広い道を1時間半、人のごったがえす富士見下のバス乗場についた。(終)

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