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信濃川源流

 中学生のときに中央アルプスに近い、信濃川源流を訪ねたときの記録を、社会人になってから綴った追憶復刻版。    1959.6.29記
 当工場に入社した年の6月、同じ職場の先輩に安達太良の山開きに連れて行って貰ったのが、山歴の第一頁。母成高原(ぼなりこうげん)のつゝじの群落の美しさと、船明神に出たとたん、生々しくえぐられた大噴火口が目の前に拡がったときには思わず驚嘆の声を発した。

それまでは木曽の山奥にいながら、山の美しさを知ることができず、北アルプスと南アルプスをすぐ目と鼻の先にしながら一度も登ったことがなく、都会からくる多勢の登山者を見ても別にあこがれることもなかった。これは僕だけでなく、木曽の人達は仕事の面で山に接しているけれど、いわゆる登山としてエンジョイしようとすることが出来なかったのだ。

ところが一たび故郷を離れてみると、むしょうに故郷の深山が懐かしく、もっぱら図上登山を行なっては我が心を慰めている次第である。

川入部落

小学校の六年生から中学三年生まで、三回にわたって訪れた忘れられない思い出の地、川入部落のことを記憶を新たにして記してみたい。

5万分の1地形図「伊那」を広げて見れば手っ取り早い。真ん中に木曽山脈(中央アルプス)左に木曽谷。右に天龍の流れを抱く伊那谷が、いずれも縦に走る。木曽谷に目を向ければ、そこが木曽川と信濃川の分水嶺であることも分かるだろう。僕達の訪れたのは、信濃川の源流-奈良井川である。

そもそも僕達の村—楢川村(現・塩尻市)—が、この奈良井川の狭い谷に沿った縦に七里、横に一里という、とてつもなく長い村で鉄道線路も、さすがにここを敬遠してか中央線が申し訳に村の北辺を斜めによぎりトンネルをうがって木曽川に逃げている。

その北辺には贄川・平沢・奈良井の三つの駅があって、贄川は僕の生まれた所、木曽街道11ケ宿の最北端だ。そして昔の面影をそのままに残して多くの史家から紹介された、奈良井川の宿から僕達は郷土の姿を知るために森林軌道に乗って上流の川入部落を訪ねた。


信濃川源流(ガリ版刷り)

蓋も壁もないトロッコのような軽便鉄道は、しばらく対岸の国有鉄道と並行して走るが、国鉄の方は狭隘な谷に見切りをつけて急に向きを変え、僕等の頭上をのろのろと這って山腹に消えている。

これが海抜 1,000m近くで、日本で3番目に高い鳥居トンネルである。この山の頂きに鳥居峠があり、昔は相当な難所だったらしく、猿飛佐助の修練の場所と講談にも取り入れられている。有名な「恩讐の彼方に」の市九郎が旅人をあやめた所でもある。芭蕉はここを訪れ、

      木曽の栃 浮世の人の 土産かな

という句を詠んだ。木曽義仲は、この峠を越すとき、雄大な御嶽山が見えたので、鳥居を建てゝ遥拝所にしたというのが、この峠の謂われ。栃の大木が今はさびれた中仙道にうっそうと繁る。

国鉄にさよならした軽便は、右岸に左岸にと、いくつも木橋を渡って進む。片や絶壁、片や岩を食む清冽な奈良井側の流れ。岸には葦に混じって蒲が穂を出している。そうかと思うと突然原始林の中に飛び込んで、顔を木の枝でたたかれたりすることもある。木漏れ日が時々キラッキラッと射す。だが地表は、一面に苔むしてシダが繁り、レールにはトカゲや、蛙が轢き殺されていたりする。所々に藁葺きの人家があって、一緒に乗り合わせた郵便屋が配達してはまた追いかけて来て飛び乗る。要所要所には、部落の男集や女衆が待ち構えていて飛び乗る。軽便は停止することなく、終点まで走れる訳だ。鰻の寝床のような所に、麦でもなく陸稲でもない珍しい植物が栽培してあるので、何だと聞けば「ひえ」だという。こんなものを食べるのかしらんと思ったが、それ以上は聞きもしなかった。

—分教場—

間もなく、対岸の山の中腹に、ずい分モダンな白木の建物が現れた。モダンと言っても、周囲の状況にそぐわないからそう言った迄で、村の貧乏財産で建てた川入分教場であった。この辺が五貫目という所。だが、あたりには人家が殆ど見当たらない。中学小学混ぜて30名ばかり。先生も4人でいずれも部落の人達だ。

分教場へ行くには、川を渡らなければならない。見れば二本の丸太を渡し、その上に等間隔に横木を載せて丁度線路の枕木のような木馬道(キンマミチ)が架かっている。部落の子供達は、ピョンピョンと造作もなくかけて行くが、僕等にはあの真似は出来そうもなかった。下を見れば小学生が素っ裸になって、水浴びをしている。だが水は冷たいから、キンタマはスポンジのようにしまっている。急流には大きな岩魚がいて、僕等は手づかみで捕らえた。「エゴ」といって釣りよりも面白い。

分教場の猫の額のような校庭で、鬼ごっこをしていた時のことだ。10人ばかりが横に手をつないで走っているうち、僕は突然重力を感じなくなったと思った次の瞬間、頭に強い衝撃を受け、土の上に転がっていた。傍らにも僕と同じように、二人の友達がポカンとしている。僕が崖から足を踏み外したから、手をつないでいた他の二人も次々に引っ張られて5mも下の桑畑に落っこちたという訳である。幸い土が柔らかだったのと、身が軽かったのとで誰も怪我はなかった。

その晩は、近くの沢筋にキャンプをし、物音一つしない静けさの中で先生の怪談をぞくぞくして聞いた筈なのだが、僕はえさを詰めすぎて隅の方で太鼓腹を抱えてうなっていた。そのうち遂に我慢ならず、僕の口は大砲の筒口と化して、あたり一面汚物が四散した。だが翌日はケロリとして、山に登ったものである。

—オリンピック放送—

五貫目から更に遡ること10km余り、奈良井川の最後の支流、黒川と白川の出会いに着く。その名の示すとおり、流域の地質を異にして、瀬の石が黒色と白色に歴然と分かれているのである。僕たちは左の本流、花崗岩の白川をつめることにする。道の入口には駒ヶ岳(中央アルプス最高峰2,956m)と記してある。だがこの道は、営林署の職員か測量士のみで、登山者は殆ど使わないらしい。

しばらく登ってみたものの、どうも雲行きが怪しくなり、待たぬ間にポツリポツリとやってきたので、いさぎよく退却する。大体誰も雨具の用意をしていないので、無理はできないのである。5km程下った所の白川という部落に樵(きこり)の宿泊する小屋があり、そこへもぐり込むことにした。帰る途中、誰かが大きな青大将をつかまえて胴乱に入れて持ち帰ったが、翌日こいつどうして抜け出したものか、雨水の軒下を這いずり回っているのだ。捕らえようとすると、しきりに歯をむいて噛み付こうとするので、業を煮やして棒きれでめった打ちにたたきつぶしてしまった。胴乱の中を調べてみると、野ネズミらしいものがドロドロに溶けてころがっていた。蛇はこれを吐き出して僅かの隙間から逃げたものと分かった。

雨で半日間閉じ込められた小屋の暮らしは、人夫達からいかがわしい本を借りて読んだり、碁や将棋を習ったり、また営林署の共同電話を盗み聞きしたり、囲炉裏に飯盒をかけたりで少しも退屈しなかった。そして今だにはっきり憶えているのは、波を打つヘルシンキからのオリンピック放送である(短波放送のため、声が大きくなったり小さくなったりするフェージング現象)。和田信賢アナウンサーの「はるかなる日本の皆様、こちらはヘルシンキであります。・・・」という声。また飯田アナウンサーの「古橋負けた 日本負けた 古橋負けた 日本負けた」の劇的な実況放送。それまで世界記録を何回も塗り替えたフジヤマのトビウオも、さすがに峠を越えて、400mの自由形は無念の8位に終わった。和田アナウンサーは帰国の途次、パリで急死した。

—権兵衛峠—

 中央アルプスの峰つづき、茶臼山と経ヶ岳のコルが、権兵衛峠(1,522m)である。史書をひもといてみれば、江戸時代の頃、権兵衛という人が木曽の飢饉を救うべく、伊那から米を運ぶ道として切り拓いたのだそうだ。地形図を見れば明らかなように、木曽谷は等高線の主曲線が緻密であるが、伊那や高遠は助曲線を用いても、なお余裕があるのだから、自ずとそれらの住民の貧富の差も決まってくるのである。

 この峠を馬に米俵を積んで運ぶ馬子たちは、その当時「おんたけやま」という僕等にとっては情けない民謡を唄って歩いた。

「木曽へ木曽へとつけ出す米は 伊那や高遠の涙米

 涙米とはそりゃなさけない 伊那や高遠の余り米」

 これが今では形を変えて、伊那節として花柳界にもてはやされるようになったのだから、世の中は妙なものである。

 峠への道には所々に淋しげな茅葺き屋根の人家があり、杉の古木の元には、苔むした道祖神や、馬頭観世音がたたってもいる。だが、峠から伊那側にかけては索道によって材木を運び出しているという変り様だ。近頃はまた、車道まで出来つつあるという。夜になって天幕から顔を出して見れば、伊那市の夜景が赤や青にキラキラとまたたき、首をひねって木曽側を振り向けば、満天に散りばめられたダイヤモンドが、目の高さにおいて、画然と漆黒の闇に限られていた。

(終)

 文中に出てくる権兵衛峠は、2006年2月4日権兵衛トンネルとして開通した。近くて遠い存在であった木曽—伊那間は一気に短縮。国道361号線として飛騨高山から伊那高遠までが直結した。

<参照> 権兵衛トンネル

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