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魚沼三山縦走記

 当時、庶民はマイカーを持てなかった。通勤には50ccのバイク、中距離は路線バス、遠方へはジーゼル気動車で移動した。この山行記録に登場する魚沼三山へは、福島県の筆者居住地から路線バス—東北線郡山=小山=上越線新前橋=小出—路線バス—枝折峠のコースで長時間の旅をした。

 文中に小出町(現-魚沼市)の風景が登場するが、日本の戦後復興を図るためには、水力発電所の建設が至上命令であった。福島県との県境を只見川が流れている。その資材運搬基地が小出町である。戦後の活気がみなぎった時期である。以下、復刻版として紹介する。


魚沼三山(駒ヶ岳・中ノ岳・八海山)位置図- mapion

文中の( )書きは、注釈として追記した。

昭和34年9月記

まえがき

 本県(福島県)に住む以上、一度は奥会津の山々を訪ねて見ようと云うのが私のかねがねの願いであった。この地域は交通の便も悪く、あまり開発されていない。それだけに会津朝日の連峰、只見川に沿う県境の山々、帝釈山脈等になにかしら惹かれるものがある。

 それらに関する大概の知識とするところは、先ず雪の多い事、従って侵食による谷の形成が荒い事、同時にブッシュのひどい事などで、中でも季節風の関係で新潟県寄りにその特徴が著しい。そこで手始めに、交通の便が良く、比較的ポピュラーな、しかも充分楽しめるという魚沼三山を選んで、大ざっぱにもその内容をつかもうと、この計画を実行に移した。

9月6日(晴)

 土合(どあい・上越線-群馬県最北の駅)で、ドヤドヤと人が降りたので目が覚めた。外を見ると霧が立ち込めていて、小雨も降っている。これは駄目かなと、中端あきらめたが、清水トンネルを抜けたとたん朝焼け雲に変わっているので幾分安心した。

 夜行の14時間に疲れて、ぼんやり外を眺めているうちに、テレビアンテナの林立している小さな町に着いたので小出である事が分かった。雪国の家並みを想像していたのに反し、ここは昨今のダムブームに沸いて、続々と家を新しくさせ、どこよりも威勢良くテレビアンテナの多い町になったというわけだ。舗装道路を黄色い鉄カブトをかぶったキコリが歩いているという異様な町である。

 駅前からバスは直ぐに発車して、大湯までは快適だった。ここからは電発(でんぱつ・電源開発株式会社)の道路と分かれて、旧道のゴロゴロ道をエンヂンをフルにして、あえぎ喘ぎ登る事になる。しばらくは佐梨川の清流を間近に見ながら走るが、しだいに高度を上げて、じぐざぐを繰り返し、そのたびに運転手はハンドルさばきに余念がない。行く手は徐々に視界が開けて、深い谷の向うに駒ヶ岳の郡界尾根がせり出してきた。その急斜面には、残雪がひときわ白い。

 枝折峠(しおりとうげ)でバスを降りて、先ず目に付いたのが只見川の支流、北ノ又川、そして対岸に厳然と居座っているのは、荒沢岳、それらは手に取るような近さにあって、重畳と連なる奥只見の山々の第一印象を感じる。


魚沼三山概念図(ガリ版刷り)

 峠から工事中の送電線に沿って、尾根の藪道を辿ると、旧枝折峠の祠にぶつかる。5,6人は悠に泊まる事が出来るだろう。そこを見過ごして、尚も平坦な尾根を忠実に進めば、やがて前方に緑の草原が現れて、恰好な憩いの場所を得ることが出来よう。100mも下れば水もある。即ちこっちが小倉山で、駒ノ湯コースの分岐点である。一服つけていると、2,3人の若い男女が登って来て仲間に加わる。話をしているうちに今夏荒沢岳に新道が出来たという耳寄りな話を聞く。あとでこれは電発の奥只見山岳会の仕事で作ったものだと分かった。

 百草の池はそのまま見過ごして、急な笹の切り開きが続くこのあたり、道が二分しているが、バイパスになっているからどちらを行ってもよい。登るにつれて様相は滑らかな岩と、草だけに変り、右手に越後平野の遠望と左手に駒ヶ岳の枝尾根を見下ろすようになれば、もう肩の小屋まで間もない。裏のオオチョウナ沢の源頭には僅かに水もあり、恰度時間も良いこととて、腹を満たすべくコッフェルを使ってワカメと椎茸をダシに味噌汁を作ったが、どうした加減かすっぱくて飲めぬ。麦のにぎり飯もあまり喉を通らず、朝から二つしか喰っていない。これはいかんと献立を変更して、ミルクを沸かしてパンと一緒に流し込んだ。

 草原の斜面を一歩一歩静かに登れば、駒ヶ岳の頂上だ。見渡せば180度何も邪魔をするものはない筈だが、この頂から水無川の谷底からガスが湧いてきた。八海山はおろか今日の終点中ノ岳の姿さえ見る事ができない。天気さえ良ければ佐渡を遠望できるというが、今は会津側の山の連なりしか望めぬ。風はないが、心配になったので、天気の崩れぬうちにと、山上の憩いもそこそこに檜の廊下へとヤセ尾根を急いだ。縦横にからまるヒノキの根っこを跨ぎ、枝の下をくぐって、いったん高度を300m程落とし、再び登って1,885mの独標に着く。このヒノキの道は、エネルギーを費やす尾根道で、健脚家といえども時間の短縮は無理である。

 むしょうに喉が渇くので、とっておきの梨を食べる。試みに芯をかじってみるとこれが意外に効を奏し、以後そんなに水を要求しなかった。

 いよいよ最後のアルバイトだ。尾根は少し広くなって、笹薮の密集したダラダラ坂を登る。突然前方に黄色いヤッケが現れて驚く。サブザックの軽装で、同年輩の男だ。今朝、五十沢(いかざわ)を登って駒ノ湯へ下る事など、しばらく立ち話をして過ぎ去った。

 つらい登りであったが、漸次勾配はゆるくなって、曇り空がなおも薄暗くなる頃、小広い草原の中ノ岳に着くことができた。点在する池の水に期待をかけていたが、1m四方もないこれらの池はどれもこれも赤くさびていて、雨の降らない限り飲めよう筈もない。小屋に誰かいるだろうかと声をかけてみたが、何の応答もなく針金を外して戸を開ければ闇になれるに従ってガランとした板張りしか目に映じない。あたりの静寂はただ空しさを覚えるばかりだ。中には米が五合ばかりと腐った茄子が三つ四つおいてあり、小さな箱には金も入っている。

 疲れていた為に予定を変更して、よっぽどここで泊まってしまおうか、米も失敬しようかと何度も惑ったが、結局は水のない事、明日の行動が長くなる事、ツェルトザックに寝泊りするテストもしなければならない事、それに実を云えば、計画どおり実行できないのかと云う虚勢も手伝って更に先へ進むことにした。

 いちごの沢山熟れているいちご沢に沿い、そして尚も柔らかい草むらの道を下ると、ガスの垂れこめている行く手に、テント場の痕跡を認める事ができた。日が暮れたのか雲が厚くなったのか空はとっぷり暮れて、ひしひしと夕方の淋しさが募る。どこからともなく大きなブヨがいっぱい湧いてきて、顔といわず手といわず群がりなすことおびただしい。直ちにツェルトを張って、炊事にかかる。先ず祓川の水で茶を沸かして飲む。それから昼にパンを食べたとき少しすっぱく感じたので煮てみたが、いざ口に運んでみると、酵母のくさみが強くて喉を通らぬ。おまけに何の歯ごたえもない。しかたがないから冷たい握り飯をつぶして、味噌で焼き飯を作った。パウダーのスープは意外にまずく、ろくに口もつけずに捨ててしまった。食欲のないままに、無理に詰め込んでどうにか食事も終り、話す相手もないので、シュラフにもぐって明日の行動を考える。温度の下るにつれしきりに小便を催すが、面倒だからビニールの袋で処理することにした。外は完全に暗くなって星も見えない。爽やかな山風が吹いて、そのたびに木の葉がツェルトをザサ、ザサとこすり、いささか寂しい祓川の夜。

9月7日(晴)

 寒さにふるえて目が覚めた。躊躇することなくツェルトをたたんで外に出れば、星がいくつか瞬いている。朝の食事をミルクとパンで済ませ、水も忘れずにつめて出発した。昨日の疲れは完全に取れなかったが、ズボンを濡らす草露が誠に快い。御月山へはタイムを取る必要もなく登り切る。後ろを振り返れば、中ノ岳の頂上は山蔭に隠れて見えないが、その右肩に燧ヶ岳とおぼしき双耳が美しい。ギザギザの稜線を左へ左へと目で追っていけば昨日の駒ヶ岳水無川を介してもう近づき難い。

 さて前方を見れば、奇怪な岩がにょきにょきはえている八海山の八峰が手に取るような近さにある。しかし、ここからはいったん1,260mのオカメノゾキまで下らないことには行かれない。折角かせいだ高度を中ノ岳からみすみす800mもの損失になるのだが、それが山というものだ。はるか下のヤセ尾根を見下ろした時、そこの最低鞍部からの登りのつらさを考えるよりも、改めて麓からやり直すという発想の転換をいさぎ良しとすべきであろう。

 グッショリと濡れたツェルトが食料の減った以上に重さを増して足にこたえる。下る程に尾根は益々やせ細り、従って水無川黒又沢の音なき水の流れを高いやぐらの上から眺めるようなものだ。小さな上り下りを繰り返し、或いはからんで、やっとコルまで辿りついた頃にはいいかげん参っている。あまり長く休むと気持ちがゆるむので、一服吸って腰を上げた。いよいよ登り一方の道である。上の方はなるべく見ないことにして、足の運びに目を向けることにする。背後から照りつける朝日はきつく、首筋はじりじりと塩気を増して目蓋がはれてくる。羽の破れた白い蝶が弱々しく流れて草むらに落ちた。

 それでも後を振り返る毎にオカメノゾキに続く稜線はしだいに低い位置になって、御月山とほぼ同じ高度に到着する。ゆるい勾配を歩んで三国川(さぐり川)へ延びる枝尾根にぶつかるとそこに五竜の池がある。連日の晴天下に池はカラカラに干されてひび割れ、水草は最後の一滴まで吸い取ろうとして、その白い花が哀れだ。憩う日陰もないままに、自分はやけた地面に足を投げ出して「古い顔」をつぶやいた。(後で分かったことだが、古い顔の作詞者は英国のチャールズ・ラム、訳詞-西条八十、作曲-松島道也。松島は、旧制仙台工専の学生だった昭和18年(1943)に作曲した。その後進学した東北大学で演劇グループの裏方を務めていたときに紹介したことで広く歌われるようになったという。)

 ここから枝尾根を行けば、阿寺山を経て城内に下ることが出来る。予定を変えてそっちを行けば少しも苦労はなく、日陰や水も得られよう。だが計画は実行すべし。再び肩に食い込むザックを背負って一歩一歩と高度をかせいだ。

 尾根は厚みを増して八海山の最高峰丸岳に着いた。突然前方の八峰から鐘の音が響いて岩の上には白い装束が立っている。日は中天にかからんとして、益々暑く、風は少しもないが、汗は顔だけしかかかない。再び尾根はやせて、行く手をはばむは八峰の奇怪な岩場である。

 その両側は滑らかな岩壁で、すぐ谷に落ちているから、からむにもからめない。手がかりのない岩は鎖を頼りにそれをいくつか越して、やっと最後の岩の上にくれば、そこに小さな社が祀ってあって、その前に呼吸も見せず横たわっているのは先程の鐘をならした主か。

 日差しを桧笠で除けて、死んだように寝ていて、跨いで通り過ぎようとしても全然動かぬ。頭を白い布でまとっているので定かと分からない迄も、顔立ちからして女らしい。私が道を違えて崖の上に出てしまい、引き返して来た時、女がその分かれ道の所に佇んでいて、蛇が道をふさいで通れないという。私は石を投げて追いやり、この辺に水はないかと問うた。あそこの小屋の後ろにあるそうです、と前方の千本桧の小屋を指して女はあいまいな返事をした。とにかく確かめてみようと急いでその小屋へ行って探してみたが分からない。いい加減な事をいうものだといささか憤慨したが、まだ少し水の貯えはあったのでそのまま下ることにする。浅草岳を過ぎて急坂を下り、やっと道のすぐ脇にきれいな清水を見つけて、パンを水と一緒に喉へ流し込んでいると、やがてチリンチリンと鈴をならして女が降りて来た。あんたがあまり急いで行っちゃったので水場を教える事が出来なかったといいながら腰をかがめて片手でたもとを手繰りながら、2,3杯うまそうに飲んだ。

 山はもう閉まった筈なのに、どうして今頃登っているのかと聞くと、願をかけて30日の日参をやっているのだという。今日はその9日目で、幸い好天気が続いているが、たとえ雨が降っても風が吹いても通わなければならぬ。それはいいとしても、金剛泉と女人堂との間に熊や猿が出るというから恐いと言った。先程の水の件といい、今の話といい、しゃべっている内に、時々人から聞いたような言い方をしているので、不審に思って問えば、やはりよそから来て、下の里宮に泊まっているという。どんな願をかけているのか知らないが、女の話し方は弱々しい。ではごゆっくりといいながら、金剛杖を手に静かに降りていった。

 女人堂を過ぎて木漏れ日の小道を辿る程にやがて大倉山分岐点、そして金剛泉、もう大崎の部落までは間もない。下に見える一塊の森は、里宮であろう。近づくにつれて行者の祈り声が聞え、苔むした石段が杉木立の下に見えて来た。

 里宮の前にはやはり苔むした石垣の間を清い水が流れており、土橋を渡って宮参りの者の休憩所であろうか、少しばかりの雑貨も並べて、日陰の縁には今しも野良着の客と、この宿の女主人とが茶を飲んでいる。宮ノ屋であった。私は風呂を勧められたが、ていねいに辞して流れで衣服を着替え、熱き茶の馳走になった。娘のむいてくれた瓜の歯茎を圧するのが快かった。

コースタイム

9月5日 郡山16:30=上野23:50=

9月6日 =6:37小出6:40—枝折峠7:55…旧枝折峠8:20…小倉山分岐点9:50…百草の池10:33…駒ノ小屋11:40…駒ヶ岳12:50…駒と桧の廊下13:25…中ノ岳15:55…祓川16:20

9月7日 祓川6:00…御月山6:10…五竜ノ池9:20…丸岳10:20…千本桧11:50…水場12:30…女人堂13:20…大倉山分岐点13:45…宮ノ屋15:40…大崎17:00…五日町19:08=上野

9月8日 =5:27郡山

食料

握り飯4食、フランスパン5食、ビスケット200g、チーズ3個、ソーセージ4本、味噌1袋、椎茸、凍豆腐、ワカメ各1袋、味噌漬1本、ミルク2缶、梨3個、甘納豆200g、緑茶若干、マーガリン1個、スープ1袋、乾パン1袋、その他、汽車は駅弁を利用した。

主要装備

キスリング、ツェルトザック、ラジュース、コッフェル

あとがき

 今回は山行きの目的を少なからず達した。魚沼三山は長年の多雪によって山は削られ、尾根のみブッシュにおおわれて山腹は滑らかな岩が露出している所が多い。深い谷には残雪がつまってこの辺の沢の遡行は困難が伴うだろうけれども、それだけ魅力があるかもしれない。水無川はあまりにも深くて、その様相が分からぬが、北又川は縦走中いくつかその支流を見せてくれる。対岸の荒沢岳から利根川の水源に至る山々は全山緑におおわれて、その山並みが美しい。

 2日間の行動を振り返ってみると、長時間汽車に乗って直ちに山へ入ったせいか、疲れがひどかった事、食料の考慮が足りなかった事、飯を炊く時間を惜しんで握り飯とパンで済ませようとしたが、やはり米を持参すべきだった。縦走中、水は唯一箇所、祓川でしか得られなかったので、少々重くても果物による疲労回復は大きかった。

 タバコもうまかった。ただし寝ていてツェルトに穴を開けるようなことがあってはならない。ツェルトは人が入らなくても地表から発散する水蒸気でたちまち濡れる。この事は、翌日重量も増すことだから、あらかじめ考慮にいれておくべきだろう。

 祓川ではブヨに悩まされて困ったが、何かいい方法がないものだろうか。最後に縦走は駒ヶ岳からやったのが良かった。なぜならば、枝折峠まで1,000m余りを唯でかせげる事と、大崎でのバスの時間が良かったからだ。この逆だと2日間ではちょっと無理だと思う。

(終)

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