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21.4.10〜11善光寺・松代・あんずの里・北向観音・上田城跡・布引観音

<旅行概要>
 
前々から長野県千曲市の”あんずの里”を訪ねたいと思っていたところ、今年は善光寺のご開帳の年であることから、それと抱き合わせで実現させることとした。

<1日目>

  1. 群馬県から上信越自動車道を北西に進み、長野ICで下りる。善光寺を目指すものの、途中で寄り道をした。武田信玄と上杉謙信が5次に渡って合戦を繰り広げた川中島古戦場である。
  2. 八幡原(はちまんばら)史跡公園(川中島古戦場跡)
    5度にわたった戦いのうち、最も激しかったのが、第4戦である。ここ八幡原から西方2km程の地、千曲川と犀川に挟まれた合流地点の上流側である。史跡公園の中には八幡社がたたずみ、境内には信玄・謙信の両雄が一騎討ちをしたブロンズ像が建てられている。馬上から斬り付ける白頭巾の謙信、軍扇で受ける床几に座っている信玄。


    信玄・謙信の一騎討ち


  3. 犀川を渡り、長野市街地に入ると車列で渋滞していた。善光寺を訪れる観光客の車と、通勤車両が重なったものと思われる。しかし善光寺北側の第1駐車場に着いたのは9時5分ごろで、ほぼ予定どおりである。幸先よしというべきか。
  4. 善光寺
    “善光寺”と一言でいう場合には、長野市のそれを指す。天台宗と浄土宗の別格本山ともなっているが、仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。
  5. 本尊の阿弥陀如来は、西暦552年インドから百済経由で日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれている。この仏像は、廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀へ打ち捨てられたという。後に、信濃国司の従者として都に上った“本田善光”が信濃の国の現在の飯田市に移した。さらに642年現在の地に遷座し、644年、本田善光の名を取って”善光寺”と名付けられたそうだ。ちなみに、飯田市には現在“元善光寺”が残されている。
  6. 長野の市街地は、善光寺の門前町として発達した都市で、古くから長野盆地を“善光寺平”と呼んでいる。
  7. 戦国時代、善光寺平は武田信玄と上杉謙信の争いの舞台となった。寺は兵火を浴びて荒廃した。思い余って武田信玄は、善光寺の焼失を懸念して甲府へ移したという。現在甲府には、“甲斐善光寺”がある。これに対する反論の説がある。上杉謙信が越後国、直江津(現在の上越市)に移したというもので、その寺跡には十念寺(浜善光寺)がある。
  8. 武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、本尊は、織田信長の手によって岐阜へ移され、次に豊臣秀吉により京の都へ移されるなど転々としたが、慶長3年(1598)秀吉の死の前日に信濃へ帰された。
  9. 本尊の阿弥陀如来は秘仏のため、その姿は寺の住職ですら目にすることができないという。いったい誰だったら見られるのだろうか。中世以降、善光寺信仰が広まるにつれて、鎌倉時代以降、各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺が建てられた。
  10. 4月5日から5月31日まで、本尊の身代わりとされる”前立本尊(まえだちほんぞん)”が公開される御開帳が始まった。丑(うし)と未(ひつじ)の6年ごとに行なわれる。本堂前の広場には、前立本尊と綱で結ばれた高さ10mの回向柱(えこうばしら)が建てられている。柱に触ることで前立本尊に直接触れるのと同じ御利益があるとされている。参拝する人たちが次々と柱に触れている。僕たちは朝早い時間に訪れたからいいようなものの、30分後には回向柱から山門まで長蛇の列ができていた。


    本堂

    山門


  11. 御開帳特別参拝券を求めて、前立本尊を参拝。続いて”お戒壇めぐり”をする。ご本尊の真下にある真っ暗な回廊をぐるぐる巡って、”極楽の錠前”を探り当てたら、秘仏の御本尊と結縁(けちえん)できるというものである。入口から入って右に曲がると、たちまち真の闇になってしまった。「右手で腰の高さの壁に触って進む」と、あらかじめ注意を受けていたからパニックになる人はいなかったが、歩みは遅々として進まなかった。”極楽の錠前”を探すのに手間取ったのだろう。騒ぎ声だけがいつまでも続いたが、結局は出口近くにあって、首尾よく御本尊さまと結縁ができた?のである。僕はいつもの悪い癖で、「年寄りが多いのに、脳梗塞でも起こして倒れたら、どうやって助けるのだろう。」などと、つい無粋なことを考えてしまった。
  12. 御開帳記念特別展として、”信濃三十三番観音巡礼こころの旅路展”もあった。各札所のご本尊のお姿と堂宇の写真や、図会・版画などが展示されていた。これはこれで大寺院に比べて近寄りやすく、身近な存在として興味深かった。しかし札所の分布は北信に偏り、伊那市を南限としている。飯田市等の南信や木曽地方には全くなかった。信濃の国が南北に長く、大河川の流域を違えて文化や歴史的が違い、別の地域であることが、これ一つをみてもよく分かる。
  13. 善光寺境内から南側に伸びている通りは、”仲見世通り”。仁王門まで石畳で、さに南側の通りまでは、歩行者用である。両側は賑やかな土産店街で観光客でごった返している。


    仁王門


  14. 松代城跡
    長野電鉄屋代線の松代駅を挟んで、松代城跡がある。3分咲きの桜に囲まれて、憩っている人たちが多い。この城から南側に松代藩の史跡が多い。


    松代城跡


  15. 旧横田家住宅
    松代藩の中級武士の武家屋敷。庭園は小さく、菜園が大きくとられているのが、つつましく生活していたことを想わせる。ここを訪ねたのには、小生のホームページに” 官営富岡製糸場 ”の記事をとりあげているからである。明治6年、群馬県の富岡製糸場に、松代から総勢16人の一員として横田家の娘”英”が15歳で乗り込んだ。製糸場では、フランスの教女から、機械製糸の伝習を受けた。1年4ヵ月後、故郷に帰り、父親らが始めた”六工社(ろっくしゃ)”という製糸工場で、地元の子女に教えた。明治40年に書かれた”富岡日記”という回想録を残している。すでに結婚していて”和田英”になっていたが、当時の富岡製糸場の暮らし振りが生々しく語られている。


    旧横田家住宅


  16. 象山記念館
    長野県に生まれ育った人にとって、「信州の偉人はだれか」と問えば、おおかた「佐久間象山(さくまぞうざん)」と答えるだろう。”県歌-信濃の国”の5番にも登場する。松代藩士の長男として生まれ、江戸に出て勉学。幕末に活躍した思想家・兵学者・科学者である。渡辺崋山・藤田東湖などと親交を深め、門下生には吉田松蔭・勝海舟がいる。ちなみに夫人は勝海舟の妹である。吉田松蔭が、黒船に乗り込みアメリカに渡ろうとした密航未遂事件によって、象山も罪を問われた。松代に蟄居を命じられたが、将軍家持の命によって上洛。公武合体・開国佐幕を説いた。しかし外国かぶれと批判する尊皇攘夷派によって、京都で暗殺された。享年54歳。記念館には、オランダ語の百科事典・電気治療器・電信機・地震予知器など数々の遺品や書画などが展示されている。
  17. 象山が全国的にはマイナーな存在で終わったのは、「傲慢でついていけない」という損な性格が禍したらしい。象山というのは雅号で、近くに”象山恵明禅寺(ぞうざんえみょうぜんじ)”があり、それに因んだといわれる。200mほど西方には同名の山があり、これについては、後述する。
  18. 象山神社
    記念館から見える位置に、鳥居が見える。こじんまりとした神社である。鳥居の左手が象山の生誕地で、井戸しか残っていない。暗殺されたあと、佐久間家は断絶されたのである。


    象山生誕の地

    象山神社


  19. 松代大本営地下壕
    “松代大本営地下壕”(以下、地下壕と呼ぶ)は、太平洋戦争末期に長野県の松代(まつしろ)に造られた。地下壕はいくつかあるが、主なるものは象山・舞鶴山・皆神山という三つの山であるが、これを中心として、善光寺平一帯に分散して造られた。
  20. 敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うも止むなしと、指揮中枢機関を首都圏から、長野県の山中に移すことを考えた。地下壕には、皇居・政府諸官庁の主要部・日本放送協会海外局(ラジオ)などが入る予定だった。しかし昭和20年(1945)、米軍の東京大空襲が都心を壊滅的にしたうえ、広島・長崎に原爆が投下されたために、日本はあっけなく丸裸にされて立ち直る力を逸してしまった。地下壕の掘削総延長は10kmに及んだが、内部構造物は未完成に終った。その存在は封印されたまま歴史の表面には出なかった。この事実が、しだいに明らかになってきたのは、1990年代に入ってからである。
  21. 松代象山地下壕(ぞうざんちかごう)
    現在、一般の者が見学できるのは、ここだけである。総延長約6kで、最も規模が大きい。見学は無料であるが、係員がいて、ヘルメットを借りて中に入る。硬い岩盤は発破を掛け、削岩機で掘削されったままの状態がどこまでも続いている。等間隔に直角方向に枝壕が掘られている。断面は底長4m×頂高2.7mである。所々に赤く塗られた鉄骨の支保工は当時のものではなく、見学者用に設けられた安全措置である。内部照明も施されているので特に問題はないが、停電のことを考えると懐中電灯はあったほうがよい。


    地下壕入口

    支保工はのちに造られた


  22. 地下壕の入口に隣接して、“もうひとつの歴史館・松代”(以下、歴史館と呼ぶ)がある。見学者の多くは、地下壕だけ見て帰ってしまうが、歴史館を見ないと意味がない。造営工事の規模や配置の状況がつぶさに理解できる。多くの朝鮮人が強制連行され、地元住民とともに過酷な労働を強いられた。


    歴史館

    展示資料


  23. 地下壕建設の際、工事監督者のために“慰安所”が作られた。朝鮮人の若い女性たちが本国から連行され、“慰安婦”として性的サービスを強要させられたという。慰安所は、前述した”六工社(ろっくしゃ)”を買い取っていた新たな持ち主が、娯楽室や蚕室として使っていた施設である。形は”借り上げ”であるが、国策として強制されたらしい。3〜4人の慰安婦がいたようだ。
  24. あんず・科野の里エリア
    “あんずの里”は千曲市にある。市の南東部、”森・倉科地区”がそれに当たる。通称「一目十万本」、「日本一のあんずの里」とよばれている。


    緩やかな傾斜地の農園

    山里を彩る


  25. あんず栽培の始まりには諸説あるが、ロマンチックなのは、『元禄時代、伊予宇和島藩主の娘・豊姫が、松代藩主・真田幸道候に輿入れする際、故郷を偲ぶよすがに、あんずの種を持参した。』というのがある。当時は種子の中にある“杏仁”が漢方薬(せき止め)として珍重されたため、松代藩が栽培を奨励し、現在の姿になったという。生産量は全国1位、千曲市だけで長野県の生産量の5割を占めている。土産物は“あんずの里物産館”や“あんずの里アグリパーク”で求められるが、農園のあちこちに小屋掛けして売っている。
  26. 戸倉上山田温泉エリア
    “戸倉・上山田温泉”は千曲川の左右両側に広がる温泉地である。善光寺参りの精進落としの湯としても名高い。単純硫黄泉としては県内でも屈指で、肌に優しく別名「美人の湯」とも呼ばれている。
  27. それ程交通の便が良くなかったころは、たいそう賑わったらしい。その証拠となるものは、大通りに面して大きな旅館や、土産店が軒を連ねて空間がないことであり、その裏側の小路には、飲食店がところ狭しとひしめいているからである。しかし、その両方とも今は元気がない。これは全国共通のことで、交通の発達で、日帰り圏が大幅に拡大し、宿泊率が低下したからにほかならない。

<2日目> 

  1. 1日目の観光が順調だったので、今日も寄り道を多くすることにした。辟易するのは、このところ続いている夏日の暑さだ。半袖の季節になってしまっている。今年の気候はどうも変だ。桜ばかりでなく、ほかの花々もすっかり調子を狂わされてしまったようだ。
  2. 別所温泉の寺院
    上田市の別所温泉は、山懐にいだかれて、落ち着いて小奇麗な雰囲気がある。その山際には静寂な空気に包まれた寺院がある。先ずは”北向観音”。天台宗の寺院である。善光寺と相対するように北を向いている。愛染堂という堂宇の脇に”愛染桂”という縁結びの霊木がある。温泉地にあることから観光客が引きもきらない。若いカップルや芸能人の参拝も多い。小さい寺院ながら古くから石造物の寄進が多い。


    観音堂

    温泉薬師瑠璃殿


  3. 賑やかな北向観音に対して、”常楽寺”と”安楽寺”は静かな佇まいだ。常楽寺は北向観音をお守りする寺である。安楽寺は八画三重塔が有名。


    常楽寺

    安楽寺


  4. 最近、どこへ行っても高齢者ばかりだが、今日は珍しく若者が多かった。帰宅してから気が付いたのは、「そうか、土曜日だからか、やはり高速道路1,000円の経済対策の効果は大きいな〜」というものである。しかし午前10時ごろのこの現象が、夕方まで続いて、泊り客が増えてくれればいいがと思わずにいられない。

    北向観音の門前土産店


  5. 今回の旅行は、土地鑑があったことで気楽なドライブが楽しめた。別所温泉街の散策や、信州の鎌倉と呼ばれる塩田平の風景を、いつにも増して堪能した。


    塩田平の風景


  6. 新発見は、”信州国際音楽村”である。なんとなく通りかかって、真っ黄色の水仙畑にぶち当たったのだ。ここからの景色がまた素晴らしい。上田市街の遥かな向うは菅平高原で、背後に聳える四阿山(あずまやさん)が雄大だった。

    水仙畑

    四阿山の展望


  7. 上田城跡公園
    上田城跡公園は、上田氏の居城で、観光ポイントの核となっている。三日間の夏日であっというまに満開となった。”上田城千本桜まつり”で、公園内はごった返していた。ちょうど昼頃の訪問だったので、駐車場探しに苦労した。公園を少し通り過ぎたあたりのビル駐車場に乗り入れたが、ゲートも受け付けもない。おかしいなと思ったが、帰りによく見たらパチンコ屋さんだった。無断使用で誠に失礼。それにしてもガラガラだったから儲かっているのかな〜と、これもまた余計なお世話か。


    本丸跡

    北櫓・南櫓


  8. 布引観音
    上田市から、東へカーナビにまかせて様々な道を通り、順調に着いた。布引観音(ぬのびきかんのん)は、小諸市の南、浅間連峰のスロープを下った先が千曲川の右岸である、一方、左岸は、御牧ケ原台地が千曲川に落ち込んで断崖絶壁を形成している。その川沿いに布引観音への登山口がある。僅かなスペースだが、車を止められる。参道と呼ぶには無理がある。足元はゴロ石の連続で、脇見はできない。周りの景色を見るには立ち止まらないといけない。切り立った大岩が累々として、道は岩の隙間を探すがごとくに付けられている。石造物などが、あちこちに据えられている。刻まれた年号が歴史を物語っている。
  9. 漸く断崖の上に辿りつくと、伽藍が台地の縁に細長く面なっている。そこは台地の縁である。天台宗の寺院で、奈良時代の創建。正式には”布引山釈尊寺”というが、布引観音でとおっている。観音堂の中に、宮殿(くうでん)と呼ばれる厨子が置かれているが、国の重要文化財に指定されている。
  10. よく言われている「牛に引かれて善光寺参り」の伝説に関連がある。『昔、強欲な婆さまがいた。あるとき洗濯をして白い布を乾していたところ、急に現れた牛が角に布を引っかけて走りだした。婆さんは慌てて追いかけて、気がついたら善光寺まで来てしまった。婆さんはその牛が、仏様の化身だと悟り、その日から信心深くなった』という話である。
  11. 寺務所前の木の間に浅間山の眺望が素晴らしい。大岩をくり抜いた隧道を抜けると、観音堂がある。清水寺を思わせる櫓が組まれた舞台形式になっている。岩壁に造ったので、奥行きはない。


    岩をくり抜いた隧道を通ると⇒

    観音堂・右手に浅間の煙


  12. 観音堂の奥から、布引山に登れる道があるらしいが、危険のため今は木製の柵が置かれて進入禁止になっている。それにしてもカモシカも歩けないようなオーバーハングの岩壁に、よくもまあこんな構造物を設置するとは、その発想につくづく感心してしまう。
  13. 観音堂から戻って台地への林道を辿ると、林間にカタクリやニリンソウが密やかに咲いていた。参道を歩きたくない場合は、このすぐ上にある駐車場まで、小型自動車で来られるという。

<googleマップ= 善光寺・あんずの里など

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