このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

東京都大田区

 

 

 大田区は近年、急激に広くなったのをご存じか。かつては世田谷区が断トツに広かったのだが、羽田空港の拡張で大田区も世田谷に肩を並べる広大な区になった。でも広がった面積の大半は滑走路などむやみに立ち入れない所ばかりだから実感はあまりない。

 新幹線は環状7号線を横断して間を置かずにこんどは第二京浜こと国道1号線と交叉する。ちょうどこのあたりで海岸平野と山手台地が接しはじめる。品川区の西大井駅から歩き出した裏通りはアップダウンの連続になり、車両進入禁止の標識の先はいきなり階段になるところも……。新幹線と交差したすぐ北で環七と第二京浜が出会う松原橋交差点は、地形を上手に活かした合流車線型の立体交差になっているが、ここが昭和15年に完成した日本で最初の「インターチェンジ」だという。70年も前に立体交差を考えねばならなかったほど昔から建て込んだ一帯だ。

 本来、このようなところにまったく新たに鉄道を敷こうとすれば、莫大な用地費と長い工期を覚悟しなくてはならない。だがどちらにもその余裕のなかった東海道新幹線は、昔からあった品鶴貨物線(今では横須賀線と湘南新宿ライン)の真上に高架橋を構築することで、品川・大田両区での用地確保の手間を省き東京脱出を果たしている。だからこの二本の幹線道路との交差部はどちらも最上段に新幹線がのっかったおせち料理並みの三段重ね、いや道路上の歩道橋も勘定に入れればじつに四段。起伏に富んだ住宅密集地の只中でいったいどうやって建設したのだろう?と半世紀以上前のエンジニアたちの苦労を思い起こそうと試みてみる。

 ほんとうは新横浜までもっと真っ直ぐ通したかったにちがいない。でもそうならなかったおかげで街は分断されることなくおそらく半世紀前とあまり変わっていないたたずまいがある。有楽町あたりもそうだが、百年後「東京都心をすり抜けて短期間で建設された高速鉄道施設」として「世界遺産」に登録されるかも。古き街並みを残してくれたご褒美としてもその価値はあるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごくフツーの一間巾の窓のくせして何と鮮烈な!

(空き家であることを確認して撮影)

 

 

 

 

シクラメン園前にも約束どおり春が来た。

 

 

 

世相

 

 

 

堤防上の唯一の窓。

 

 

 

 

ドア脇に見つけた"Photo O.K."の貼紙に、心のなかで感謝して。

 

 

 

無表情な窓に表情が宿る一瞬。

 

 

 

住宅街の中にあった「馬込シクラメン園」。公開は11月中旬からのわずか1ヶ月、今年の初冬が待ち遠しい。

 

 

建てられたばかりの某私立高校体育館。植栽までも真新しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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