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壬辰年頭所感





■元旦に振動する

 平成24(2012)年、即ち壬辰の年頭にあたって、思うところを記しておく。

 本年元旦も長男坊と「舎人山」まで初日を迎えに行ったのだが、東の空は雲に覆われており、太陽を仰ぐことができなかった。「舎人山」に通うようになって四年目、初めてのことである。例年以上の人出で400〜500名程度の観客がいたが、今年は空振りだった。

壬辰元旦
壬辰元旦「舎人山」から東の空を仰ぐも雲に覆われていた


 初日を観ることができず、率直にいって失望と落胆が伴った。特に経験が少ない長男坊においてはひとしおである。だからといって、今年は運が悪いとまでは思えない。昨年の初日を思い出すと、尚更である。

 下の写真は昨年元旦の初日である。綺麗な太陽が出た東の空に、ちょうど羽田空港から離陸した便の飛行機雲が架かっており、なんとも美しく感じられたものだ。これを以て、「今年は運が良い」と思ったものだし、現に個人的な運勢は良かった。しかし、社会的な運勢がどうであったかは記すまでもなかろう。今日の視点から改めて下の写真を見ると、ひょっとして所謂「地震雲」の一種ではないかとすら思えてくる。

辛卯元旦
「舎人山」から仰いだ昨年の初日


 元旦午後には震度Ⅲ(速報時点では震度Ⅳ)の地震に見舞われた。結果としては大きな地震とはいえず、室内にいれば危険を感じることもなかったであろう。これはまさに結果論であって、震源が鳥島沖で深さ 370kmであったから、小さな地震で終わったにすぎない。マグニチュードは 7.0だというから、相応に大きな地震である。

 筆者はたまたま家の外に出たばかりの時点で、この地震に遭遇した。近くに立つ電柱が揺れ、根元のコンクリートにひびが入るさまを見て、「この揺れがもっと激しくなったらどうなるか」と恐怖感を持った。日本の大地は揺れ続け、崩れ続けている。その不安定な基礎の上に、いまの日本社会は立脚しているのだと、改めて実感した。





■辛卯回顧

 本年を展望するにあたって、遅まきながら旧年を顧みておきたい。

 年度が改まってからこの方、筆者は現実世界での本業において、マスコミ取材に追われがちであった。正確な記録は現在手許にないが、電話取材を含め数十件の取材に対応してきたのは確実である。筆者のコメントが新聞紙上に載る機会も一再ならずあったのだが、自分のコメントが形を変えて世に出る状況はまったくもって苦々しく、時と場合によっては不愉快千万なものであった。

 最初のうちは、「確かに記事になったような発言はしているが意図や主旨は違うよね」というレベルで、この段階はまだ可愛らしいものであった。字面だけを追うならば文字になったとおりの発言をしている以上、あとは解釈の問題にすぎないわけで、これは筆者の側にも弱みがある。

 ところが、時を追うに従って、筆者の発言に感情や動作をあらわす言葉が付されるようになってきた。

  ━━それでも「……」とつぶやく。
  ━━と声を弾ませた。
  ━━と気を引き締める。
  ━━と笑みをこぼす。

 たまたま手許にある三本の記事だけで四箇所もの感情・動作表現があるとは、これ如何に、と取材した側を詰問したくなる。対面での取材も確かにあったが、電話取材が圧倒的に多かったことも事実で、感情・動作をどうやって読めるのか、不可思議千万ではないか。感情・動作表現には、文章の意味あいを方向づける色彩が伴うから、看過しがたい。

 否、これでもまだ前述した「解釈の問題」と見なしうるから腹立たしい。加えていえば、毎日報道される新聞記事を見ればわかるとおり、感情・動作表現を付す手法は新聞の常套手段なのである。

 更に後になると、まったく発言したことのないコメントまで新聞紙上に出てくるようになった。

「先日の●●新聞の記事、和寒さんからの説明とまったく違うんですけど、どういうことなんですか?」

 関係する相手先から半ば詰問調の問い合わせがきて、

「当方としては、誰に対しても同じことを話しているつもりです。私の発言のどこをどう解釈すればあのような記事を仕立てられるのか、当方としても甚だ疑問です」

 なんぞと、模糊模糊した回答をしたこともあった。筆者は取材においては、淡々と起伏なく同じ内容を何度でも繰り返し話すのが常としており、要するに相手からすれば面白味のない話しぶりをしているにも関わらず、前述の反応を惹起するような記事が出てしまうのである。筆者としては不本意であり、話したとおりの内容が伝えられないという意味において迷惑でもあり、強い怒りと徒労感を覚えざるをえないのである。

 どれだけ丹念かつ慎重に話しても、脚色・潤色が加わるどころか、まったく異なる内容に変化してしまっては、話す意味がない。取材とは、単なるアリバイづくりではないかとさえ疑われる。相手のシナリオに合わせ、当方の発言が切り張りされているとも感じる。当方の意志・意図が百%通るような状況はありえないとしても、話せども話せども意志・意図が通じない状況はもどかしい。

 これは所謂コミュニケーション不全であって、それをマス・コミュニケーションが自ら体現するとは洒落にならない。コミュニケーションなど所詮、日本社会では成立しないのではないか、との諦念すら湧いてくる。また、東日本大震災後の報道大混乱は、マスコミの性格からすれば当然の帰結とも思えてくる。

 マスコミには能力がない、と評することも可能ではある。しかし、マスコミが提供する記事を好んで読むのは大衆である。よしんばマスコミに能力がないとしても、マスコミが提供する記事(=マスコミが偏向させたシナリオ)を支持しているのは大衆である。政治家と同様、大衆の知性と感性を上回るマスコミなど、出現しようがないではないか。所詮、大衆に売れるべき記事・番組が提供されているわけで、コマーシャリズムやポピュリズムから大きな乖離はないはずなのである。

 知よりも情(事実よりもシナリオ)を優先し、事実よりも空論を語り、客観よりも主観を採り、理念よりも感覚・感情に訴え、今までの経緯よりも直近の状況に反応し、幹よりも枝葉末節にこだわり、それだけではなお足りず、批判と煽動をごちゃ混ぜにした空気を醸し、記事・番組のつくりやすさを「説明責任」にすりかえ取材される側に負担を強いる。

 ━━まったくもってマスコミには問題が多いと指摘せざるをえないのだが、大衆の議論レベルも同様であるからには、それ以上のレベルには達しようがないのが実態ではないか。実をいうと、筆者現実世界本業での議論も似たようなものだから情けない。特にシナリオ優先、直近状況への鋭敏な反応、枝葉末節へのこだわりは相当なものだ。

 情よりも知を優先し、空論でなく事実を以てものを語り、主観よりも客観を採り、感覚・感情よりも理念に訴える。経緯を踏まえつつ直近状況に対応し、枝葉末節は幹を定めてから先のこと。批判精神はあくまで知・事実・客観・理念を鎧うもの。自分の都合を相手に押しつけることは避ける。

 ━━言うは易し行うは難し、かもしれない。しかしながら、議論を積み重ねていくうえで斯くありたいと自ら律するため、揺れ続ける大地を踏みしめながら、年頭にあたっての所感としたい。





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