このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





若芽から若樹へ





 大きな取引をまとめる際など、遠国まで出向くこともあるため、虹金は鉱山から離れる時間が長かった。それゆえ、虹金不在時に鉱山を取り仕切る方頭たち幹部の責任は重かった。しかし、その責任は今まで適切に認識されていなかった。かつての飛猿のように、呼びつけられなければ顔さえ出さない横着者もいた。自分が経営する鉱山であるはずなのに、まるで自分のものでないようなもどかしさが、虹金にはあった。

 灰神楽は、そんな旧習をも塗り替えた。虹金が鉱山に帰ってくると真っ先に参上し、虹金不在時の状況を報告し、商人たちからの要望などを連絡し、判断がつかない事柄を相談した。灰神楽のやり方は、他の方頭たちの手本となった。虹金は、方頭たちの言動が改まったことをおおいに喜び、皆に良い影響を与える灰神楽の人格に感じ入った。

 虹金が鉱山にいる間も、灰神楽は毎日参上し、細かなことまで報告、連絡、相談した。ある日虹金は、少しく意地悪く言ってみた。

「灰神楽よ、そなたは商方頭なのだから、毎日おれのところに顔を出さずに、自分だけの裁量でことを進めてもいいのだぞ」

 そう言われて、灰神楽は顔を真っ赤にした。首筋まで紅潮していたから、多福女面の覆いなど、ものの役にも立たなかった。

「あの、虹金さまのお顔を見たい、という理由ではだめでしょうか」

 そよ風のように細い、耳をすまさなければ聞こえないほどの声だった。

「そうか、そなたはおれを好いてくれているのだな。けっこう、けっこう」

 膝を叩いて虹金は高笑し、灰神楽の手を取った。

「実はおれも、そなたの顔を見たいのだ。頼む。毎日来てくれ。おれも嬉しい」

 首筋をさらに赤くして、灰神楽は小さくうなずいた。

 灰神楽は、虹金を深く敬愛していた。豪毅で峻厳な気質を持ちながら、海のように底知れない包容力があり、好奇心旺盛でなんでも面白がる幅広さをも持っていた。主としての虹金は、立派そのものであった。

 さらに灰神楽は、虹金にある感情を抱いていた。灰神楽本人はその感情を整理しきれず、漠然とした思いのままであったが、薄野の表現を借りればそれは“べた惚れ”なのであった。

 今はまだ、妹が兄を見るような、娘が父を仰ぐような、淡い感情にすぎなかった。灰神楽の女は、未だ覚醒してはいなかった。



 灰神楽は、虹金に聞いてみたいことがあった。女である薄野ではどうしても応えられない疑問をぶつけてみたかった。ただし、たいへん不躾な問いであることは確かで、そこまで甘えられるかどうか、さすがに自信はなかった。たとえ虹金が自分に強い好意を持っているとわかっていても。

 ある日、仕事向きの話を全て終え、灰神楽はおずおずと切り出した。

「虹金さま、お尋ねしたいことがあります」

「なんだ」

「殿方は、どうしておなごを抱きたくなるのでしょうか」

 虹金は目を丸くした。あまりにも唐突な問いかけではないか。しかし、灰神楽はうぶな質問をしたわけではなく、態度が真剣であった。虹金は真面目に応えることにした。

「世の男は知らぬ。おれ自身のことを話すが、よいか」

「はい。御教示頂ければありがたく存じます」

「もし仮におれが未だ童貞であれば、女を抱くことに憧れるだろうが、なにもないのが当たり前だから、女を抱くことはない。繰り返すぞ。女を抱かないのが当たり前、というわけだ」

「はあ」

 わかったような、わからないような。

「現実のおれは女を抱いたことがある。一度味わった甘美な思いは、何度も味わいたくなるものだ。かくして、女を抱くのが当たり前になってくる。遠国に行く旅程では長い間女から遠ざかる日もあるが、そういう時は辛抱しきれなくなってくる」

「ああ、それで腑に落ちました」

 灰神楽は泣き崩れていた。人間の生理のなんとかなしいことか。亡き者の面影は年月とともに遠く去り、現実の本能が勝ってくるのだ。

「父は、父は、長い間のさびしさに我慢できなくなっていたのですね」

 虹金には意味がまったくわからず、それ以上になだめるのが難儀であったが、ぴりぴりと妙に引っ掛かる灰神楽の一言であった。



 半年が経ち、真夏になった。枯木に花が咲いたかのように、鉱山の体制は一新されていた。

 商方頭として、灰神楽の統率力には絶大なものがあった。部下を職務に精励させ、事務は遅滞なく、そして正しく進んでいた。灰神楽にとっては、舞いの師匠としての心のあり方を応用しているにすぎなかったが、余人にとっては神の光を帯びて見えたという。

 灰神楽の立派なところは、すぐれた部下を抱えこむだけでなく、累進を推薦する点にあった。この半年だけでも二名が商方から巣立ち、裁縫方頭と台所方副頭に就いた。穏健な灰神楽が切り盛りしているとはいえ、未だ大きな権力を持つ商方からの離脱は、左遷と受け止められる危うさも伴ったが、二名は灰神楽に深く感謝して、変わらぬ忠誠を誓ったのであった。

 虹金は、そんな灰神楽が愛おしかった。志をともにする者は、最愛の女でもあった。しかし、虹金は愛をまっすぐ表現することを避け、ゆっくり慎重に、自分の心をにじませた。なぜならば、灰神楽の心はまだ童女のように幼いと、虹金は見てとったからであった。

 もはや虹金には、側女と戯れる必要がなくなった。薄野のみを残し、全ての側女を解傭した。そのうち数名は台所方や裁縫方で働くことを希望したが、ほとんどの側女が足早に鉱山から立ち去った。金の切れ目が縁の切れ目、という言葉そのものであった。金だけのために鉱山にいた女に溺れていた過去を、虹金は深く反省した。

 薄野の部屋に通う回数もめっきり減った。薄野を残したのは、灰神楽と親しく話し相手になると考えたからであったが、当の薄野にとっては冷たい仕打ちでしかなかった。

 明日から虹金が遠国に出かける夜に、歓送の宴が催された。虹金が上座となる宴席で灰神楽が舞うことは、もはや吉例となっていた。今宵の演目は“船出”、灰神楽が編んだ創作舞で、遠く波涛を乗り越えて、かなた異国を目指し海を渡る船の出発を模したものである。灰神楽の舞いは常に神韻を帯びていたが、“船出”は特に玄妙で、出発を華々しく祝いつつも、別れ別れになるさびしさがよく伝わり、宴席には嗚咽を漏らす者が多かったという。

 宴が果て、虹金は灰神楽と共に部屋に下がった。しばらく顔を見ることが出来なくなるので、灰神楽も虹金もなごり惜しく、深夜になっても離れがたい気分を覚えていた。話すことが尽きたはずなのに、話すことを敢えて見つけて、長々と話し続けた。

 はるか遠く都から、時を告げる鐘の音が届いてきた。それは日付が変わったことを知らしめる大鐘だった。

「いけない、明日早くの出発だというのに、虹金さまがお寝みになる時間がなくなってしまう」

 慌てて部屋を立ち去ろうとする灰神楽を、虹金は後ろから抱きしめた。

「このまま永遠に、時が止まってくれればいい」

 灰神楽の耳許で虹金はささやいた。灰神楽の中で、なにかがはじけた。

「ありがとうございます」

 大粒の涙がこぼれ落ちてきた。嬉しかった。灰神楽の愛は既に大きく育ちつつあった。一生の伴侶として全てを捧げ尽くせる男は、虹金以外にはありえなかった。

「愛しい。なんと愛しく思えることか」

 虹金の手に力が籠もった。とうとう言われてしまった。灰神楽の頭はかあっと熱くなり、息が乱れてきた。どうすればいい、どうすれば。

「お帰りを、首を長くしてお待ちしております」

 それだけ言うと、虹金の手をふりほどき、灰神楽は飛び出した。そのまま一緒にいれば、なにが起こるかは明らかだった。灰神楽はまだ、その領域に踏みこめなかった。今は、まだ。

 帰り際に、灰神楽は薄野にばったり出会った。薄野の顔色は真っ暗で、思い詰めた表情をしていた。薄野は灰神楽にむしゃぶりついてきた。

「灰神楽様、お願いです。あたしから虹金様を取り上げないでください。虹金様を悦ばせることだけが、あたしの生き甲斐なんです。どうか、この小さな願いを聞き届けてください」

 必死だった。薄野は、灰神楽が虹金を深く愛しており、退くはずがないと知っていた。まともに勝負したところで勝てないことも知っていた。しかし、一縷の望みをかけ、試してみるだけの価値はあった。虹金との間柄を取り上げられたら、いったいなにが残るというのか。

「薄野さま、あなたはわたしにとって大恩ある方。また、この鉱山で数少ない親しい方。あなたの願いはよくわかる。でも、これだけは負けられません」

 灰神楽は薄野を哀れに思いつつ、冷厳に言い放った。これは薄野にとって一生の大事、しかし灰神楽自身にとっても一生の大事、たとえ真っ向から対立しても、退くことはありえなかった。

 薄野は泣き崩れた。その大声は、夜の静寂にこだました。





次章に続く

表紙に戻る





このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください