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水を防ぐ





 皐月晴れだ。空は青々と澄み渡り、雲のかけらさえ浮かんでない。そのあまりな青は目に痛いほどだ。吹く風はさらさらとそよぎ、いくら汗をかいてもすぐに乾かしていく。おかげで作業のはかどりも随分といい。

 なんといっても、回りを取り囲むものがない広やかさ。城内の居心地も悪くはないが、おれにとっては広々としたこちらの方がいい。ああ、村がなつかしい。村長はじめ、皆は元気でやっているだろうか。

「おーい、ハリヤぁ。お昼を持ってきたぞう」

 ナトラが手を振りながら近づいてくる。その姿を認めた親方が号令をかける。

「さあて、ナトラも来たことだし、昼飯にするべえ」

 みんなは堤の上に散り、思い思いの場所で弁当を開く。おれはナトラと並んで川面に向かって食事をとる。水の匂いに加えて海からの塩の香も漂い、いい雰囲気だ。

 城の外で仕事をするのは、城に住んで以来初めてのことだ。城壁に囲まれないのびやかな場所で働くことは、思いの外に心地よい。

 イェドゥア城は高台の上にある。水はけがよく、しかも水の入手には困らない絶妙な位置だ。高台の上はほとんど真っ平に近い。それがある線で急激に傾き、崖をなしている。崖の下からは原っぱが広がっている。適度に湿り、適度に乾き、なにをつくるにも向いている素晴らしい土地だ。しかし、目につく限りでは耕されている形跡はない。

 原っぱの端に今おれたちがいる堤がある。親方は内政府からこの堤の補強を引き受けた。実に頑丈なつくりの堤で、見たところ特に傷んでいるようなところはない。不可思議な依頼もあったものだ。

 堤の向こうを流れているのはアールア川。イェドゥア城に水をもたらす大河だ。源を西方三十里の山奥に発し、とうとうとした流れをたたえている。

 川の対岸にも堤がある。こちら側とは異なり、丈が低く、つくりも粗末な堤だ。その堤の先は水はけが悪い湿地になっている。家の屋根が何十軒か見える。この村の営みは稲作だ。早苗が風に揺れる田んぼを越えると、波がさざめく海になる。

 解せない。なぜ、川向こうの住人は、はるかに条件がよいこちら側の土地を耕そうとはしないのだろう。また、それに理由があるとしても、向こう側の堤が貧弱なままで放置されているのはどうしたわけか。堤を補強するならば、向こう岸の方を優先してしかるべきではなかろうか。

 昼飯を食べ終えて堤の斜面に横になる。ナトラが場所を移し、おれの顔に日陰をつくる。静かだ。川のせせらぎと草原を撫でる風の音しか聞こえてこない。

 突然、太鼓と鉦の音。仰々しい気勢をあげ、五十人ほどの行列が向こう岸から橋を渡ってくる。その姿は一様にみすぼらしい。村にいた時分の冷飯食いのおれだって、もっとましな格好をしていた。よほど貧しい暮らしを送っているらしい。

「あの行列はなんだろう」

 ひとりごとのように言うと、ナトラが答えてくれる。

「たぶん、内政府に訴えに行くんだと思う」

「なにを訴えるんだい」

「堤を直してほしいってことじゃないかしら」

「それよ」

 おれはがばと跳ね起きる。

「仕事しながら不思議に思っていた。なんでこれだけ立派にできているこっち側の堤を直して、今にも切れそうな向こう側の堤を直さないんだろう」

「そりゃあ、決まってるわよ」

 ナトラは忌々しげな口になる。

「この堤からあの崖の下まで、全てが貴族の領地だからよ」

「なんだって。貴族の領地だと」

「そうよ」

「領地ったって、なにもつくってないじゃないか」

「貴族がそんな地道なことをするわけないじゃない。貴族がこの野原でやることといえば、狩りぐらいなものよ」

「そんな、ばかな」

 わけがわからなくなってくる。こっち側の貴族の領地がいい土地で、なんにも使ってなくて、しかも立派な堤で守られている。あっち側の村は悪い土地で、田んぼをやっていて、しかも貧弱な堤しかつくられていない。そのうえ、村人たちは貧しい暮らしをしているとは。

「ほっほっほ。いつもながら、おまえたちの睦言は面白いのう」

 親方が近くに腰を降ろしてくる。

「親方、こいつはいったい」

 自分でもなにを訊こうとしているのかわからないまま、親方にくってかかる。

「まあまあ、そういきりたちなさんな」

 のんきに空を見上げている親方の姿を見て、少しく落ち着きを取り戻す。

「ハリヤよ。おまえの言いたいことはわかる。向こう岸の者は貧しい暮らしをしておる。毎年のように洪水に見舞われておるからの。稲を育てては水にさらわれの繰り返し。向こう岸に住む者の悲願はこちら側のようにしっかりした堤を築くことじゃ」

「では、なぜ、築いてやらないんですか」

「勘違いするなよ、ハリヤ。向こう岸の連中にわしらを雇えるほどの金があれば、喜んで働いてやるわい。じゃがの。連中には金がない。わしらは酔狂で仕事をするわけじゃあない。わしらも食わねばならぬ以上、無償で働くわけにはいかぬ」

「内政府はどうしてるんですか。内政府ほど潤沢に金があれば、向こう岸にだってちゃんとした堤を築くことだってできるでしょうに」

「そこは貴族どもの横槍よ。貴族どもは、ジンのような稀有の例外を除きゃあ、勝手な奴ばかりじゃからな。いくら使っていなくとも、自分らの土地が水に浸かることには耐えられんのじゃ。向こう岸の堤を貧弱なままにしてあるのは、アールア川の水が増した時、常に向こう岸から水を溢れさせるための措置よ」

「そんな、ひどい」

「ひどい話さ」

 親方はおれの頭にぽんと手を置く。

「じゃが、そうむきになるな。わしだって、いつまでもこのままでいいとは思っておらぬ」

 立ち上がりながら背を向けて、親方はぽつりとつぶやく。

「わしは向こう岸の生まれよ。貧しさに耐えかねて村を飛び出し、幾年月が過ぎたかの。輝々組をここまで大きくはしたものの、わしはまだ、向こう岸の堤を直す力を持ってはおらぬ」

 後ろ姿がさびしい。親方の刻んできた年輪と、見果てぬ夢が、おぼろに垣間見える。



 水無月に入ってからというもの、陽気がはっきりしない。雲が重苦しく垂れ籠めているくせに、ぽつりとも降る気配がない。晴れ間が見えることもないから、どうにもすっきりしない。近頃になって組の中でつまらない喧嘩が多いのは、この陽気となにかつながりがあるのかもしれない。そうでなければ、アールア川での仕事を終えて狭い城内に戻ってきたせいだろう。

 今日の仕事は陽があるうちに終わる。だが、ちっともうれしくはない。今日もまた喧嘩沙汰だ。どういうわけか、みんな殺気だっている。ちょっとしたことがすぐ殴り合いにまで至ってしまうから、親方も頭を抱えている。

「ただいま」

「あらまあ、早かったわね」

 ナトラがにこにこ顔で駆け寄ってくる。

「ああ。風呂、わいてるか」

「ええ。いい湯加減にしといたわ。ごゆっくりどうぞ」

 湯船につかっても気は晴れない。重たいしこりが胸の底にわだかまっている。なにか悪いことでもしたかのような苦しさ。後ろ髪を引かれるような痛み。なんだというのだ、これは。

 ぼんやりと風呂を出る。どうやって服を着たかも覚えていない。気がつくと、目の前にナトラがいる。ナトラはおれを澄んだ瞳で見つめている。

「ナトラぁ」

 おれはナトラを乱暴に抱きしめる。ばかみたいに泣きながら。ナトラはなにも言わずにおれを受け止める。ナトラの温もりを感じながら、ようやくおれの心は静まっていく。

「あんたでもまいるってことがあるのね」

 おれの心が平かになった頃を見計らってナトラは言う。

「わたしの部屋にきてちょうだい。心の曇りを拭ってあげる」

 おれはナトラの部屋へと導かれる。おれはナトラの寝台に仰向けにされる。布団にはナトラの肌の匂いがうっすらと残っている。鼻の奥がくすぐったい。

「ハリヤの心の曇りよ。像を結びてわが前にその全容を現わせ」

 おれの体が光を帯びてくる。光は体から離れ、渦を巻き、揺らめいて、像となる。アールア川の流れだ。アールア川はおれの心の中でも悠然と流れていく。

 突如、幾筋かの稲妻が光る。黒雲は波打ち、風が荒れ狂う。続いては滝のような大雨だ。天の底が抜けたかのような雨が降り注いでくる。嵐だ。大荒れの嵐だ。

 アールア川の水嵩が増していく。水はやがて堤を越え、育ち盛りの稲を押し流していく。人々は泣きながらアールア川の奔流を恨めしそうに眺めている。この秋の実りはもはや期待できない。待っているのは貧しく苦しい暮らし。この村の人々が何度受けてきた仕打ちであったか。

「優しいひとね」

 ナトラはおれの手を握る。ナトラのおかげでやっとわかった。おれはこの村を救ってやりたいと願っていたのだ。だが、自分の無力さに負けて、考えることから逃げていたのだ。

「ナトラ、どうすればいい。おれはこの村の力になってやりたい」

「救いたいと思う者がこちらの岸にあり、救われたいと願う者があちらの岸にある。もはや導きは始まっています。時を経ずして、かの村の者がここに現われるでしょう」

 遠くを見るような目でナトラは言う。ナトラはおれを起こすと茶を用意する。来たるべき時に備えてまずは一服、落ち着いて待とうということらしい。

「ごめん、ごめん」

 扉の外で声がする。ナトラは魔法の力で扉を開ける。外では三人の男女が正式な敬礼を捧げている。顔を伏せ、右膝を着き、左膝を立て、右手を胸に当て、挨拶の口上を述べてくる。

「魔法使いナトラ様にあらせられますか」

「その通りである」

「初めてお目にかかります。チュムイダ村を代表し、村長クオトー、その長男リオゴ、魔法使いセイミの三名、あなた様にお願いしたき儀があり、まかりこしました」

「どんな願いか、だいたいの見当はついてます。お入りなさい。詳しい話を聞きましょう」

 広間に通されたクオトーはチュムイダ村の現状を話し始める。堤が低く、つくりが弱いため、ちょっとの水ですぐに決壊すること。連年の洪水でまともな収穫が得られたためしがないこと。いくら内政府に訴えても、貴族の妨害を受け、堤を直せないこと。等々。

「それでも、十年前にこの魔法使いセイミが村に住むようになって、少しはましになったのです。セイミは予知の魔法が使えます。雨が降った時、堤のどのあたりが危ないのか、セイミは的確にあてることができるのです。おかげで、ここ数年の間はなんとか最小限の被害で切り抜けることができました」

「その先はわたしが言いましょう」

 クオトーの後を引き受け、セイミが語り始める。年はまだ若そうだが、小皺と白髪が目立つ。手の甲はひびだらけだ。きっと、苦労が多いのだろう。

「ここしばらくの間、どうも天気がおかしいので、未来を占ってみました。その結果、数日後に途方もない大雨が降ることがわかったのです」

「途方もないというと」

「千年に一度の大雨です。そんな雨が降ればチュムイダ村の堤などなんの支えにもなりません。いえ、たとえしっかりした堤があったとしても、アールア川の水は堤を乗り越えて村を襲うことでしょう。このままでは村は滅亡してしまいます。どうか、どうかお救い下さい」

 三人は一斉に頭を下げてくる。

「おれからも頼むよ。ナトラ、引き受けてくれないか」

 おれも頭を下げている。おれだって村にいた時には稲を育てていた身だ。この人たちの気持ちは痛いほどによくわかる。

「ハリヤに頭を下げられたら、断わるわけにはいかないわ」

 おれの方を振り返り、ナトラはにこと笑う。

「やってみましょう。案内して下さい」

 ナトラの返事にチュムイダ村の三人は顔をほころばせる。



 風が重い。大雨の気配だ。千年に一度の雨とは、どれほどの降りになるのだろう。もっとも、今は考えるより先に動かねばならない時だ。おれは村人たちとともに土俵を用意している。いつどこで堤が切れてもすぐに対応できるよう、村のあちこちに配置する。村の堤はどこが弱点ともいえないほどに全体が脆いから、べらぼうな数の土俵が必要だ。

 ナトラはといえば、夜を徹して糸を紡いでいる。この糸をどれだけ長く紡げるかによって村の死命が決するのだとナトラは言う。

 陽が暮れていく。西の空に黒雲が姿を現わしている。今夜にも、来る。

 村人たちが騒いでいる。向こう岸から怪しげな男たちが橋を渡ってくるという。行ってみれば、なんということはない。輝々組の連中ではないか。

「こらっ、ハリヤ」

 親方が笑いながら怒鳴りつけてくる。

「勝手に仕事を休みやがって、なにをしてるかと思えば、随分と楽しそうなことじゃあないか。わしらもまぜろや。おまえ一人でやるよりゃあ、ずうっと力になるぞ」

 千人の味方を得たような心地だ。土俵を作るにせよ運ぶにせよ、村人たちの手際はいまひとつ悪い。とても毎年水と戦っているとは思えないほどだ。あるいは、この手際の悪さが永年辛酸をなめてきた原因の一つなのかもしれない。ことに慣れた輝々組四十五人の参入は、老幼あわせて七百人の村人たちの大きな力となるだろう。

「親方、さっそくですけど手伝って下さい。今晩ひと雨来そうなんです」

「任せとけい」

 からからと高笑いする親方である。

 はたして、すっかり暗くなるを待たずに降り始める。玉のような大粒の雨だ。蓑を着込むことが意味をなさないほどの土砂降りで、男たちは諸肌脱ぎになって来るべき時に備える。風が強く、しかもなまぬるい。空がごうごうと鳴っている。

 堤が崩れかけているという伝令が入る。なんという脆さだろう。アールア川の水に洗われる前に、雨に打たれただけで堤が破れている。水が来る前でよかった。急いで土俵を積み上げ、応急の手当にする。

「こんな調子で持ちこたえられるのかね」

 ゴウラが心配そうな顔をしている。隠していてもしかたない。事実はしっかり伝えておかねばなるまい。

「持ちこたえられません。これから降る雨は千年に一度の大雨になるそうですから」

 おれの言葉にゴウラは椰揄するような口になる。

「持ちこたえられないとわかってて、おまえさん、よくぞここにきたもんだ。城内にじっとしていりゃあ、どんな大水がきても大丈夫だっていうのに」

「おれはナトラを信じてます」

「ふん、のろけやがって」

 ゴウラは大仰に首を振る。

「要するにだ。どういう魔法を使うつもりかは知らねえが、とにかく、ナトラが糸を紡ぎ終えるまで踏ん張ってればいいんだろ」

「そういうことです」

「踏ん張ってみせるさ。野郎ども、抜かるな」

「おう」

「おう」

 輝々組の面々は常に威勢がいい。

 ところが。踏ん張るどころの騒ぎではない。夜半を過ぎる頃から横殴りの雨が吹きつけてくる。雨が地面を叩く音があまりにも激しく、鼻と鼻がぶつかるほど近づいても話ができないほどだ。輝々組の堅牢な組織力をもってしても意志の疎通がうまくいかない。堤はなんとか持ちこたえてはいるものの、いつまで持つかはわからない。水嵩はひたひたと増え、堤の頂を洗わんばかりになっている。ナトラ、急いでくれよ。

「水が噴き出してるぞっ」

「塞げっ、塞げっ」

「早く、土俵を」

 怒号が飛び交う。蟻のように人が集まり、堤に開きかけた穴を塞いでいく。堤の向こうを濁流が轟音をたてて奔っている。その巨大な力を押し返すにはいくら土俵があっても足りるものではない。

「なんとか塞げたか」

 ゴウラが雨混じりの汗を拭っている。あたりはほのかに明るい。夜が明けてきたようだ。雨はやや勢いを減じながらも、まだまだ猛烈に降り注いでくる。誰もが息を切らしている。夕べから不眠不休で働き詰めなのだ。既に何人かの村人が疲労で倒れている。

「みんな、来てくれっ。とうとう水が堤を越えちまった」

 ジンが絶叫している。みんなあたふたとそちらに駆けつける。水は堤の頂をなめ、踊るように村へと流れ込んでいる。土俵をさらに積み上げたいところだが、へたをすると、堤が土俵の重みに負けかねない。

「親方、どうします」

 ゴウラが親方の顔色をうかがう。親方は大きく息を吸い込むと号令をかける。

「野郎ども、堤の下に土俵を集めよ。土俵を山となし、堤への押さえとしてから、いたわるようにして堤の頂に土俵をかぶせよ。わかったか」

 親方の知恵が急場を救う。この場もどうにか凌げたようだ。だが、おれたちの力ももう限界に近い。土俵も尽きかけているし、これ以上のことがあったら、とても防ぎきれるものではない。

 急に陽が射してくる。仰ぎ見ると、一面の雲に一筋の切れ目が入っている。その切れ目から、糸のように細い光が地上に伸びている。雨の勢いがぴたりと止まる。

 なんという美しさか。ナトラは天から愛されているに違いない。家から出てきたナトラの歩みにあわせて光は動き、色とりどりの装身具をきらめかせている。目も眩むような輝きだ。

「お待たせしました」

 ナトラは目を真っ赤にしている。ナトラが眠らずに紡いだ糸は丸太に巻き取ってある。十二人の男が担いでいることから、その重みが知れる。

「この糸はわたしの魔法のなかだちとなるものです。きっと、よく水を防いでくれるでしょう」

 息を整え、ナトラは両手を大きく広げる。

「糸よ、糸よ。堤に沿いて伸びよ。村をぐるりと取り囲め」

 糸は丸太を離れてするすると伸びていく。堤に沿って、蛇のように。糸がすっかり伸びきると、再び雨足が強くなってくる。これはナトラの望んでいたことのようだ。ナトラは両手を前に出し、全身を震わせながら、大音声を発する。

「凍気よ、凍気よ。糸を伝いてその姿を現わせ。全てを氷となすのだ。地に根ざせ。天に伸びよ。長き氷の壁をつくりてアールア川の流れを防がん」

 糸から白い煙がたちのぼる。煙が固まり針となり、針は雨を呼び込んでさらに大きく成長していく。いや、それは針ではない。氷柱だ。針のように尖った氷の柱だ。氷柱は堤に突き刺さり、堤をも凍てつかせていく。降り注ぐ雨は凍気の絶好の餌食だ。雨は白い柱となって凝り固まり、アールア川の流れに対する防壁へと姿を変える。

 村人たちからは声も出ない。おれでさえ度肝を抜かれている。チュムイダ村を取り囲んでいるのは高さ七間ほどの氷の壁。どれほどの大水がこようとも、村が水に侵されることはないだろう。なんという高さか。なんという強さか。村人たちは呆気にとられながら氷壁に沿って歩き出している。氷壁に手を触れてみる。熱いぐらいに冷たい。まさにナトラの魔法だ。

「おうい、大変だあ。壁ができていないところがあるぞう」

 リオゴが呼びかけてくる。

「そんな」

 ナトラの顔は青ざめている。

「野郎ども、いくぞ」

 親方の号令の許、輝々組のみんなは走り出す。

 どうしたことか、そこだけ氷の壁ができていない。すっぱりと切れた壁の向こう側に、対岸の風景が霞んで見える。アールア川の流れが弾け、時折しずくとなって飛び込んでくる。

「糸が、糸がほつれている」

 ナトラは涙声になっている。どうやら、挽回ができない類のことらしい。ナトラの様子を見て、親方は拳を振り上げ、みんなに向かって問いかける。

「野郎ども、聞け。ナトラの泣き顔を見たいと思っている奴はいるか」

「おれは見てみたいぞ」

「ばかたれ」

 親方はゴウラを蹴り飛ばす。ゴウラは大袈裟に倒れてみせる。見事な呼吸だ。みんなは大笑いしてこのやりとりを見つめている。緊張の色など、どこかに吹き飛んでいる。

「ナトラを泣かすな。これが最後だ。死力を尽くせ。土俵の山を築くのだ」

「おう」

 気合を入れて土俵を積み上げていく。速い、速い。村人たちの手伝いも加わり、あっという間に氷壁のてっぺんまで土俵が積み上がる。これでもう万全だ。

「よかった」

 ナトラの体がぐらと崩れる。

「ナトラ、しっかり」

 おれはかろうじてナトラの体を受け止める。

「えへへ、さすがのわたしも疲れちゃった」

 ぺろりと舌を出してナトラは苦笑いする。

「この魔法はせいぜい十日の間しか効きません。でも、これからやってくる大水を防ぐには十分な強さを備えているはずです。どんなに強い雨が降っても心配することはありません」

「みんな、聞いたか」

 おれはナトラを抱え上げて叫んでいる。

「聞いた、聞いたぞ」

「村は救われたんだ」

「ナトラ様、ありがとう」

 村は興奮の坩堝となる。チュムイダ村はアールア川の水の害からついに逃れたのだ。



 雨は五日の間降り続き、ようやくやむ。この間、村長クオトーはあることを試みていた。雨の降り始めに人の背丈の倍以上も高い大きな樽を表に出しておいたのだ。雨があがってからのぞき込んでみると、空だった樽が満杯になり溢れていたという。

 被害が全くなかったわけではない。強烈な風雨にさらされ、倒れた稲も少なくない。それでも、根こそぎ大水にさらわれることに比べればはるかにましだと村人たちは喜んでいる。

 セイミの予知によれば、これから先は好天に恵まれるという。風雨に耐えた強い稲は、この秋、たわわに実ってくれることだろう。

 水が引くまでの四日、流された橋を架け直すのに要した七日、さらに村に滞在する。村人たちはナトラを神のように祭り上げ、輝々組のみんなを至り尽くせりに接待してくる。ゴウラなどは背中のかゆいところまでかいてもらったそうだ。かゆいところにまで手が届く応対なんて初めてだと、ゴウラは愉快そうに笑っていた。

 橋を架け終え、いよいよ城に戻る日がやってくる。見送りにきた村人たちは涙を流してナトラとの別れを惜しんでいる。別れ際にナトラは村からの礼物全てを返上する。驚き慌てるクオトーに向かい、ナトラはねんごろな言葉で諭す。

「チュムイダ村の皆さん。感謝は気持ちだけ頂ければ十分です。これらのものはいずれも貴重な品ばかり。村を豊かにしていくためにはこれらのものが絶対に必要です。わたしのような一介の魔法使いが頂いたとて、豚に真珠を飾るようなもの。どうか、そのような無駄なことはしないで頂きたいのです」

「ナトラ様、ありがとうございます」

 クオトーは感涙にむせんでいる。赤貧に喘いできた村だけに、どんなささやかなものであれ、礼物を差し出すのは苦しい。ナトラの鮮やかな言い回しは、村人たちの感情を損ねることなく、事実を歪めることもなく、礼物を村人たちへと還元する。

「長い間お世話になりましたな。おいしいご飯をありがとう」

 親方はクオトーの手を握る。クオトーは首を傾げて親方を見つめると、急に頓狂な声をあげてくる。

「あんた、どっかで見たような顔だなあと思っていたが、隣に住んでたテルジさんじゃないか。なんだい、どこに行ってたんだ。どうして今まで黙ってたんだよ」

「テルジ。知らねえ名だなあ」

 親方はとぼけてみせる。

「わしはイェドゥア城は輝々組の親方よ。ナトラとハリヤの意気に感じて、組の野郎ともどもに馳せ参じたまで。いわば、通りすがりのようなものよ」

 親方がクオトーの隣人テルジであったか否か、おれに知る術はない。仮に、親方がテルジなる男であったとしても、親方はしらを切り通したことだろう。親方とは、そんなひとだ。

 釈然としない顔のクオトーを背にして橋を渡る。橋を越えれば、未だに水浸しになったままの貴族どもの領地が見える。堤を乗り越えて水が押し寄せてきたものらしい。おれたちが補強した堤は大雨前の姿をしかと残している。

「貴族どもめ。たまにはわしらの痛みを知ればいいのさ」

 蚊が鳴くような小さな声で親方はつぶやいている。





次章に続く

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