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心の鎖





 この頃のナトラは危なっかしい。笑ったかと思えばすぐ怒り、喜んだかと思えばすぐに泣く。もともと感情が豊富なナトラのこととはいえ、起伏があまりにも激しく、おれでさえもてあまし気味になっている。

 理由はわかっている。チュムイダ村をアールア川の濁流から守ったことが、イェドゥア城内の人たちの口の端にのぼるようになったからだ。城内の誰もがナトラのことをほめている。本来、それは喜ぶべきことだ。

「魔法使いナトラ様はとてもお偉い方だよな。チュムイダ村の堤に氷の壁を築き上げ、村を大水から守ったというではないか」

「しかも、村人たちからは一切の礼物を受け取らなかったそうな」

「ほんに、あのお方は弱い者の味方よな」

「わしらにとっちゃあ、神様みてえなもんだ」

 城内では寄ると触るとナトラの噂ばかり。店先に、辻々に、盛り場に、ナトラをたたえる声が満ちている。もはやナトラは聖なる存在に近い。ナトラが街を歩けば、すれ違う人々は例外なくお辞儀をしてくる。数こそ少ないものの、祈りを捧げてくる者や、平伏して見送る者さえある。

「こんなのいやっ」

 いつだったか、ナトラは身を揉むようにして泣き出したことがある。

「わたし、そんなつもりであの村を救ったんじゃない。わたしは弱い者の味方じゃない。わたしは偉くなんかない。ましてや神様であるはずがない」

 泣きたくなる気持ちはなんとなくわかる。城内の人々のナトラ評はあたっていない。ナトラは決して弱い者の味方ではない。ナトラには倫などないのだ。倫のない孤高の者が、どうして誰かの味方をできよう。だが、人々はナトラを弱き者を守る神様とほめそやす。その落差に、ナトラは耐えられない。

 ナトラをなだめるのはただごとではない。受け止めすぎてはいけないし、流しすぎてもだめだ。細心の注意を払ったつもりでも、迂闊をすることだってある。そんなときは決まって大喧嘩だ。今朝もつまらない一言がきっかけで、怒鳴りあいにまで至ってしまう。

「いい加減に目を覚まさんか」

「なにさ。放っといてよ」

 乱暴に扉を開けて、ナトラは通りに飛び出していく。

「おい、待てよ」

 後を追おうとしてもナトラは追随を許さない。りすのようにすばしこく走り去り、あっという間に路地に姿を消してしまう。おれは家の前で見送るしかない。

「仲がいいと思ってたけど、あんたたちでも喧嘩するんだ」

 惣菜屋の女将が笑っている。

「ええ、まあ」

 照れ隠しにおれは頭をかいてみせる。

「ナトラは気の強い子だからね。たまにはがあんと言ってやった方がいいんだよ」

「があんと言ってやったら、あの始末ですよ」

「あら、そうだったの」

 女将はおおどかに笑う。

「それはそうと、あんたに一つ訊きたいことがあるんだ」

「なんでしょう」

「あんたたち、ほんとにいいなずけどうしなの」

「どういうことですか」

「あんたたちを見ていると、兄妹なんじゃないかと思えるんだよ。わたしの知ってる限りじゃね、結婚する前から一緒に住んでる男と女の間には甘ったるいいやらしさがあるものなんだわ。それがあんたたちには全くないもんだから、不思議に思ってたのさ」

「正真正銘のいいなずけです。天の神々も見届けて下さいました。決して兄妹ではありません」

「ふうん」

 女将はおれを遠慮のない目で見つめてくる。

「あんたたち、ほんとうにさわやかよねえ。好きあうならば、かくあるべしってとこよね」

「ははあ、そんなものでしょうか」

 わけがわからぬままにうなずきながら、おれは愕然とせざるをえない。

 好きあうなんて、とんでもない。ナトラと婚約してからというもの、おれはナトラを好きだと思ったことがない。ただの一度も、だ。もっと好きになってもいいはずなのに、これはいったいどうしたことか。

 村を出てくる時、おれは確かにナトラを好いていた。好ましく思っていた。今までひとを好きになったことがないこのおれだ。ナトラにぞっこん惚れ込んでいてもおかしくはない。だのに、おれはナトラのことを好きだと思ったことがない。少なくとも、この城に来てからは。

 なぜだ。なぜだ。

 思いあたる節が一つある。アルジュばあさんの末期の言葉だ。どうも記憶が霞んでいるのだが、ばあさんが心の鎖よと唱え始めたことだけは覚えている。

 心の鎖、か。なるほど、おれの心は鎖をかけられているかのようだ。おれとナトラの間には、最初出会った時に感じた以上の好意は芽生えていないのだ。

 ナトラめ。アルジュばあさんに頼んで、なにか仕掛けやがったな。



 おれは広間の長椅子に横になっている。眠くはない。横になっていたいだけのことだ。それに、ナトラへの気持ちを表現したくもある。

 風が動く。扉が開いたようだ。

「帰ってきたね、ナトラ」

「ごめんなさい、ハリヤ。さっきはあんなに怒ってしまって」

 泣いている。おれの気持ちをぶつけるのはよしておこう。今のナトラはひ弱い。とてもおれを受け止められやしないだろう。おれは起き上がり、ナトラの顔を見る。最悪だ。ナトラは右も左もわからなくなったような顔をしている。

「折角のお休みだというのに、ほんとうにごめんなさい。わたし、どうかしちゃってる」

「謝らなくてもいいさ。おれもむきになりすぎた」

 肩を叩こうとして、やめる。触れれば崩れてしまいそうだ。

「たまには城の外にでも行こうか。アールア川の堤なんかどうだ。あそこなら、広々としていて気持ちいいぞ」

「うん、そうしよう」

 わずかながら、ナトラの顔に気色がよみがえる。

 家の外に出ると、こぶりな包みを抱えたジンが向こうからやってくる。ちょうどいいところに会えてよかったと言いながら、ジンは包みをナトラに渡す。

「どうして、これをわたしにくれるの」

「最近のおまえ様は元気がないんでな。俺はおまえ様が好きだ。たとえおまえ様が俺になびいてくれなくてもな。元気がないおまえ様など、見るにたえん。せめてもの慰みにと思って、西の都から取り寄せたのよ」

 手を軽く振ってジンは背を向ける。ナトラは驚きを隠せない。

「ジンの奴、すっかり変わったね。昔はこんな気遣いができる人じゃなかった。自分の気持ちを押しつけるだけの乱暴な奴だったのに」

「変わるだろうさ。輝々組には四本の柱ありっていわれてるんだぜ。親方の器量、ゴウラの分別、それにハリヤとジンの若さってね。おれとジンは将来の輝々組を背負って立つ男と目されているのさ。そう思われるような男がいつまでもきざったらしい貴族のままでいるわけがないだろう。あいつはそのうち大物になるよ」

 魔法使いとしてはへぼでも、職人としては不器用でも、ジンの力は侮れない。ジンは人の心を掴むのがうまい。ジンは輝々組の若手の大半を既に掌握し、古参の面々をもてなずけつつある。おれにはない、不思議な徳だ。

 輝々組の中だけではない。ジンは街の中にまで徳を広げようとしている。貴族が力仕事をしているのだ。屑揃いの貴族どもの中にあっては光彩を放たざるをえない存在といえる。ナトラほどではないにせよ、城内でのジンの人気は高くなりつつある。

 アールア川の堤に着く。堤の内側の原っぱは貴族の領地だが、堤そのものは誰のものでもない。城からやってきた人々が思い思いにたむろしている。若い二人連れも多い。

 おれとナトラは堤の北側に腰を降ろす。芝がひんやりと心地よい。川の向こうにはチュムイダ村が見える。おれとナトラにとっては忘れようのない村だ。広々とした風景に接し、なつかしい眺めに触れ、ナトラはようやく落ち着きを取り戻す。

 ナトラはジンから貰った包みを開く。出てきたのは楽器だ。枇杷を半分に割ったような胴から柄が飛び出し、六本の弦が張られている。

「あら、曼銅鑼だ。うれしいわ」

 おれは見たこともないが、ナトラにはなじみが深い楽器らしい。早速弦を調律し、一曲を奏で始める。澄んだ音色だ。おれはイナダ山に登った時のことを思い出す。あの山登りは苦しかった。沢筋に沿って道なき道を歩いて、ようやく頂に辿り着いたのだ。沢の水はもの凄くきれいだった。濁りも淀みもなく、冷たく澄み切っていたものだ。時折岩魚の姿が見える他には生き物の気配がしなかった。ナトラの奏でる楽音は、イナダ山の沢の水によく似ている。

 弾き終えて、ナトラはおれに問いかけてくる。

「どうだったかしら」

「岩魚になったような気分だよ」

 おれの思いはどう通じたか。ナトラはじわと涙をにじませる。

「あんただけよ。わたしのことをわかってくれるのは」

 水清くして魚棲まずという。ナトラの心の水はあまりにも透明で、誰も棲むことができない。数多くの者がナトラを知ってはいるが、ナトラの心にまで触れている者はほとんどいない。皆無といってもいい。

 ナトラのことをわかっているのは、もしかすると、ほんとうに、おれだけなのかもしれない。だが、それを認めてしまえば、あまりにも救いがない。

「おれだけじゃないだろう。おまえにだって肉親がいるじゃないか。おやじさんにおふくろさん、それに兄さんに姉さんだっけ。みんな、おまえのことをわかってくれてるさ」

「そうね」

 ナトラは遠くを見つめている。

「村を出てからもう五年か。とう様とかあ様の顔も久しく見てないわね。元気にやっておられるかしら。にい様は結婚したって聞いたけど、ねえ様はいいひとが見つかったのかなあ」

「おあいにくさま。わたしにはなかなかいい相手がいなくてね」

 白い手がナトラの肩をぽんと叩く。振り返れば、ナトラを十歳ほどおとなにしたような、穏和な顔の女が立っている。

「ねえ様っ」

「お久しぶりね、ナトラ。会いたかったわよ」

「わたしもよ、ねえ様」

 満面を輝かせて、ナトラは姉にしがみつく。頬をすり寄せ、抱きしめあい、喜びを弾けさせている。

「よく顔を見せておくれ、ナトラ」

「ねえ様こそ」

「一段ときれいになったわね。それに、背も伸びたみたい。おとなっぽく見えるわよ」

「わたし、今年で十七よ。おとなっぽく、じゃなくて、もうおとななの」

「うふふ。むきになるところはまだこどもよね」

「もう、ねえ様ったら」

 どうも、ナトラには肉親にこども扱いされているところがある。

 ナトラから身を離した姉は、おれに目を向けてくる。

「あなたがナトラの本名を知っていたって子ね」

 はて、ナトラはおれのことをどのように伝えているものか。おれの肩書はナトラのいいなずけではなく、ナトラの本名を知っていた子、とは。

「ハリヤといいます。姉上には初めてお目にかかります」

「ご丁寧に、ありがとう。わたしがナトラの姉で、魔法使いバルガッシュスス・ミータ=ツィ・フォイエルンベルゲルスといいます。バルクと呼んで下さい」

「ねえ様っ。ハリヤに本名を教えるなんて、どういうつもりなの」

 どうしたのだろう。ナトラは顔を真っ赤にして怒っている。

「うふふ。わたしもこの子が気に入っちゃった」

「ねえ様っ。いくらねえ様でも、許さないわよ」

 ナトラはてのひらから火花を散らしている。ナトラの激昂ぶりを見て、バルクは肩をすくめる。

「相変わらず気が短いことね。村を出た時からちっとも変わっていないんだから。そんなことでよくハリヤにきらわれないわね」

「ハリヤはわたしのあるがままを受け容れてくれるわ。だから、ばば様はわたしの本名をハリヤに教えたのよ。ハリヤは、ハリヤは、わたしのかけがえのないひとなんだから」

 身を震わせて涙を浮かべている。バルクはあきれ顔でナトラの肩に手を置く。

「わかってますよ、それぐらいなことは。まったく、からかう甲斐のない子なんだから。あなたときたら、ほんとに昔から変わっていないわね」

 本名がどうしたというのだろう。この姉妹の会話にはわからないことが多すぎる。

「それぐらいにしといて下さい。この頃のナトラはひどく敏感なんです。些細なことで泣いたり怒ったり。今のナトラはとてもからかえません」

「そのようね。今日のところはこれで引き揚げるとするわ」

「引き揚げるって、どこに」

「外町に宿をとっておいたわ。しばらくそこに滞在するつもりよ」

「それは」

 水臭いというものだろう。おれとは初対面でも、ナトラとは久々の再会なのだ。ナトラの家に泊まって夜明し物語りでもするのが姉妹の情として当然ではないか。

「ねえ様、なんでわたしの家に泊まってくれないの」

 ナトラもむくれている。バルクの態度に不満の色を露にしてはばからない。バルクはちょっとばつが悪そうに、ナトラの鼻を小突く。

「あなたたち、一緒に住んでるんでしょ。わたしがいたら邪魔ってもんじゃないの」

「そんなことないわ。ねえ様なら、大歓迎よ」

「あなたたちがよくても、わたしの方がかなわないわ。わたし、まだ独り身なのよ。あなたたちがべたべたしているところなんて、見たくなんかないわ」

「わたしたち、べたべたなんかしてません。決してそうならないように、ちゃんとばば様に封印してもらったんだから」

「待て、ナトラ。なんの封印だ。おれになんの魔法をかけたっていうんだ」

 糸口がついに掴めた。おれはナトラに詰め寄っている。ナトラはすっかり狼狽している。青い顔をして、なにも言えずに突っ立っている。バルクは冷静な口調でナトラに語りかける。

「ナトラ、これはあなたが悪いわ。そんな大事なことをハリヤに内緒にしておくなんて、あなたらしくもない」

「だって、だって」

 ナトラはうつむいている。今にも泣き出さんばかりだ。

「やっぱり、わたしは宿をとることにするわ。今日中にきちんとハリヤに話しておきなさい」

「はい」

 ナトラは力なくうなずく。



 ナトラは曼銅鑼の調べを奏でている。おれは芝に寝転んでいる。上天には星が一杯だ。城の中に住んでいると、夜空には星があることさえ忘れてしまう。

 言葉はない。曼銅鑼の旋律だけが、おれとナトラの間にはある。おれは待っている。ナトラが口を開くのを。ナトラがおれに全てを語る気になるのを。

 曼銅鑼の調べがやむ。ナトラは膝を抱えてアールア川の流れを見つめる。

「ハリヤ、怒ってる」

「怒ってなんかいないさ。ただ、おれたちの間に隠しごとがあったことが、かなしくてな」

「隠すつもりはなかったの。でも、隠したままで時の流れにまかせておいた方がいいと思って、つい隠してしまった」

「隠すなら、隠したままでもいいさ」

「いいえ、あなたは気がついてしまった。気づかれた以上、隠しごとは無益です。わたしの話を聞いてくれますか」

「聞こう」

 ナトラは呼吸を整える。深く、そして静かに。今まで生きてきた十七年間を振り返るかのように。

「わたしは西の都に近い小さな村で生まれました。西の風は穏やかです。笑みを絶やしている人なんていやしません。わたしがどんな悪さをしても、元気があっていい子だねえとほめるばかりで、わたしを叱りつける人はいませんでした。とう様やかあ様も、わたしには人並外れた魔法の力があるのだから少々癇が強いのがあたりまえだという顔をしてました。とう様には魔法の力がありません。かあ様にしても、それほど強い魔法が使えるわけではありません。にい様やねえ様もそうです。わたしはフォイエルンベルゲルスの血統にしては珍しく強力な魔法使いなのだそうです。わたしよりも力がある魔法使いは、この世には両手の指の数ほどもいないのです」

 おれはナトラに近すぎて、かえってナトラを見失っていたのかもしれない。ナトラの力は別格なのだ。おれはジンのことをへぼな魔法使いだとばかり思っていたが、あるいは、ジンくらいの力が魔法使いの標準なのかもしれない。

「村は平穏でした。実りは毎年豊かで、争いごともなく、なにごともない日々が続いていたものです。わたしはそんな村の雰囲気がきらいでした。というより、わたしの持てる力は村には過分だったのです。平穏な村にはわたしの力など必要ありませんでした。わたしは荒れました。村にわたしの居場所がないような気がして。見かねたかあ様がにい様に占いをさせました。にい様は予知の魔法が得意でしたから。にい様はわたしは東に向かうべしと占いました。とう様とかあ様はわたしを村に置いておきたかったようですが、それがわたしのためになるならばと、わたしをイェドゥア城に移すことを決心しました。わたしにはもとより異存はありません。東の方は諸事荒々しいと聞いていましたから、胸がわくわくしたのを覚えています。わたしがイェドゥア城に住むようになったのは十二の時でした」

 たった十二の小娘が、親許を離れ、何百里も離れた異風の地に移り住むことだけでも十分驚嘆に値するのに、ナトラはわくわくしたとさえいう。改めてナトラは凄いと思わざるをえない。

「わたしはこの城が気に入りました。城内に住む人は活発で、明るくて、なによりも荒っぽくて、わたしは毎日が楽しく思えました。貴族という妙ちくりんな連中が姿を現わすまでは。ある日、わたしの家の前に派手な馬車が止まり、薄っぺらく装った貴族が大きな花束を抱えて訪れました。その貴族はわたしを貴妃に迎えたいと言うのです。十二のわたしをですよ。もちろん、わたしは断わりました。でも、その貴族は諦めませんでした。何度も何度も誘いを持ちかけ、どうしてもわたしがうなずかないと知ると、子飼いのならず者を動かしてわたしをさらおうとしたのです。わたしは生まれて初めて魔法を存分に発揮しました。その結果がどうなったか、ハリヤにも想像がつくでしょう」

 死屍累々たる惨状を呈したことだろう。ナトラならば、それくらいなことはする。

「ならず者が相手でしたから、わたしにお咎めはありませんでした。でも、その日以来、城内の人のわたしを見る目が変わりました。確かに、わたしは誰からも好かれています。でも、わたしは誰からも好かれてなんかいないのです」

 わかるような気がする。イェドゥア城には堅固な城壁がある。城内に住む人々の心にも、同じような壁がある。城内の人はおおらかで快活だ。だが、決して開けっ広げではない。

「わたしはこの城にも居心地の悪さを感じるようになりました。泣き言を手紙に託してかあ様の許に送ったこともあります。返事は簡単でした。『待て。今は耐えよ』−−予知に長けたにい様が言うのです。わたしは待つことにしました。待って待って、四年も待った末に現われたのが、ハリヤ、あなたというわけです」

 ナトラは身を乗り出し、おれに顔を近づけてくる。

「魔法使いの間では本名を教えることは禁忌です。なぜならば、本名にはその魔法使いが使える魔法の質と力が全て現わされているからです。どんなに強い魔法使いでも、本名を知りさえすれば、無力にすることができます。本名とは、魔法使いにとって最大の秘密なのです」

 だんだんと読めてきた。おれはナトラにふさわしいとアルジュばあさんに見込まれたのだ。

「ハリヤにいきなり本名を呼ばれた時は、正直なところ、驚いたものです。でも、ばば様の紹介と知って、すぐに納得しました。ばば様はわたしがイェドゥア城で時を待っていることを知っていたのです。ばば様はこう言いたかったのでしょう。ハリヤには本名を教えても安心できるのだと」

 ナトラは瞳をうるませておれを見つめてくる。

「わたしはすぐにハリヤを好きになりました。ハリヤがわたしを好いていることもわかりました。ようやく時が来たのだと、わたしは有頂天になりかけました。でも、すぐに不安になりました。わたしもそうですが、ハリヤも誰かを好きになったことがないようでしたから。このままいけば、互いに溺れそうな気がしてたまらず、それでばば様に封印をかけて貰ったのです」

「どんな封印をかけて貰ったんだい」

 これこそが最大の焦点だ。ナトラは態度を改めて、おごそかに言う。

「互いに好きあうこと一切を封じたのです。お互いが心の底から好きあえるようになるまでは、些末な『好き』という感情を吹き消すような魔法をかけたのです」

 なにもかもが腑に落ちる。地下に埋もれていた竹の根が洗い出されたように、一切がつながりのある光景として見えてくる。

「封印は、まだ解けてはいないんだね」

「わたしもハリヤも解けていません。ばば様の末期の魔法ですもの。そうたやすく解けるものだとは思えません」

 耳の奥で、アルジュばあさんの言葉がよみがえる。

「おまえにまだ欠けている勇気が一つある。それは、誰かのために身を捨てる勇気じゃよ。この勇気を持てない限り」

 封印は解けないということか。

「なにも言わずに封印をかけたこと、許してくれますか」

 ナトラは真摯な眼差しでおれを見る。

「許すも許さないもない。さっきも言ったとおりだよ。おれたちの間に隠しごとがあったことがかなしいと」

「ごめんなさい。ごめんなさい。こればっかりは、黙っていた方がいいと思ったの。時が熟し、心の鎖が自然と灼け落ちるのを待った方がいいと思ったの。ごめんなさい。ごめんなさい」

 おれは沈黙する。ナトラは目に涙を一杯にためて、おれに食い下がってくる。

「お願い。お願い。あなただけは、あなただけは、わたしをきらいにならないで」

 村でも聞いたことがあるせりふだ。きらいになれるわけがない。どんなに短気でも、どんなに荒っぽくても、どんなに血生臭くとも、おれはナトラをきらえない。おれはナトラを抱き寄せる。

「もう、いいだろう。よそよそしい言葉遣いはやめな。全然おまえらしくないからさ」

「許してくれるの」

「許すも許さないもない。隠しごとがあることが、かなしかっただけだ」

「ごめんね。ごめんね」

 ナトラはおれの胸で泣きじゃくる。ふと、風が頬を撫でていく。秋の気配だ。見上げてみれば、満天にきらと輝く星の数々。流れ星が一つ、糸のような軌跡を描いていく。おれはナトラの体を離す。湿っぽいのは、もうやめだ。

「一曲弾いてくれ、ナトラ。おれはおまえの曼銅鑼を聞いていたい」

「うん」

 涙を拭い、ナトラは曼銅鑼を奏で始める。澄んだ音色が夜の空に響き渡る。曼銅鑼の音、星の輝き、すがやかな風。おれの心は安らかに満たされていく。





次章に続く

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