このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
グルノーブルへの旅〜〜街の趣
■中心街
グルノーブルの中心街に自動車は入ることができない。その権利は、人間とLRTのみが保有している。なお、自転車はほとんど靴と同等の扱いのようだ。市街地進入どころか、LRT車内への持ちこみまで許容されている。
人は大勢いる。しかし、騒音はない。人々のざわめきと、LRTの走行音だけだ。狭い街並である。LRTは右に左にと大きく曲がりながら、街路を進んでくる。歩みは遅いが、自動車に阻害されない安心感がそこにはある。むしろ横柄な歩行者たちが、LRTの進路を妨げる場面さえ見られる。
かようなグルノーブル、自動車よりも歩行者と公共交通を大切にする街なのだろうか。その答は残念ながら否である。グルノーブルとて、自動車社会の一つであることは間違いない。この市街地にほど近い場所には立体駐車場があり、恒常的に満車の様子であった。中心街をはずれてしまえば、電車道であろうと自動車もしっかり入りこんでくる。人間は、自動車を保有した瞬間に、自動車に依存する生物と化してしまうかのようだ。
ただ、グルノーブルの場合、少しばかりの知恵と勇気があった。歴史的な景観を活かし、狭隘な中心街を効率的かつ心地よく使うために、自動車を部分的に排する決断ができた。全体を見れば、世界のどこにでもある自動車依存社会であるというのに。
国や民族が違おうとも人間の本質にそう変わりがないならば、少しばかりの違いといえども大きい。お互いを比較するには絶対的な尺度などありえず、あくまでも相対的な尺度ではかっていくしかない。ほんの少しでも上に立てば、即ちそれが優者となり、あるいは偉大な存在になりえるのだ。
グルノーブル市民は重大な決断をくだした。この決断に対しては、個人の利己的尺度を集積した結果がたまたま公共的性格を帯びた、と論評することもできる。しかしながら、都市交通の相対比較においては、燦然と輝く素晴らしい決断といえる。それまでに存在しなかったLRTを導入して中心市街地から自動車を排除するという決断、その意味と意義は極めて大きい。グルノーブルは、世界の先駆者となり、規範となった。
■静かな街へ
中心街の範囲はごく狭い。線路は2方向に分岐し、本線系統は狭い街路をくねりながら南進する。静かな、あまりにも落ち着いた街へと、線路は続く。目と鼻の先が中心街だというのに、この異様な静けさはどのように解するべきなのだろう。
LRTは小さな広場を巡る。広場ではなにごとか催事の準備がされている。はかどっているのかそうでないのか、よそ者の目にはわからないが、ずいぶん呑気な様子ではあった。昼下がりの弛緩した空気のなか、ゆっくりと時が流れていく。
■住宅街
街の様相が急激に変わる。石づくりの古典的な建物が続く街から、コンクリートづくりの近代的な住宅街へと。しかもこの街は、いくつかの年月を重ねてきている。風雨を浴び、時にさらされ、街としての面貌を定めつつあるように見える。
ようやくここまで到達できた。私は満足を覚えた。なぜなら、目の前にあるのは普段着のグルノーブルの姿だと実感できるからだ。
幸運ではあった。駅前からLRTに乗ろうとしたのは、この街にまったく不案内だったからだ。どこになにがあるか見極めてから歩き出すはずが、最初から歩くことを余儀なくされた。歩ける範囲内にあの中心街及びこの街があったことは、偶然以外のなにものでもない。
普通の日本人観光客がこのような街に足を踏み入れることは、ほとんどなかろう。より正確にいえば、パッケージ・ツアーに依存する限り、観光客が普通の街に案内されることなど決してない。観光ガイドは土産物屋と結託し、観光客を買物へと誘うことに狂奔する。それに身を委ねていると、名所に行き、記念写真を撮り、買物と食事をするだけになってしまう。観光と呼ぶ行動にしては、あまりにも悲しいではないか。
だから私は、行く先々で自ら歩くように心がけている。観光ガイドからは決して見えてこない、その国のありのままの姿が顕れることを期待して。
■遅い昼食
グルノーブルでの滞在可能時間は5時間ほどしかない。そうはいっても、飲まず食わずでは辛い。どこかで補給しなければなるまい。
中心街にはマクドナルドがあり、安さと味には一定の安心感が伴ったが、ここまで来てそれを食すのはあまりにも悲しい。一方、普通のレストランでの食事が高くつくもので、しかも内容には必ずしも満足できないことは、パリで既に痛感してきたところだ。どうせ食べるなら、面白い冒険をしてみたい。
この街で、ちょうどいい店に出会った。看板こそレストランであるが、実態はカフェに近い、小さな店である。看板に記された単価はまさにお手頃、試してみる価値はある。
飛びこんでみた。やはり、というべきか往生した。私はフランス語がまったくできない、店員は英語は断片的な単語しか知らないでは、交渉がうまくいくわけがない。結局、店員の言うことに「諾々」とうなずき、なにが出てくるかお楽しみという状況になった。
店員は、好漢であった。狡猾な部分はまったくなく、相応の皿を用意してくれた。鶏肉の炒めもの、フライドポテト、サラダにパンをつけたものになった。さらにコーラを2本追加し60フラン(約 1,020円)を少々越えたくらいだから、かなり安い昼食ではあった。しかもおいしかった。炒め肉の味つけは濃かったが、許容範囲におさまるもので、全般に楽しく食すことができた。
どこの国でも人柄の基本は親切なのだなと、つくづく実感した。逆にいえば、不道徳な人物には内心が表情にも浮かび、この人物は怪しいと、一瞥してわかることにも気づいた。この店員はまぎれもなく善人であり、しかも陽気で、宴会にでもなれば周囲を巻きこんで座を明るくする人物であることが、不自由な対話を通じて感じとれた。
テーブルに就きながら、LRTを眺めつつ、写真も撮った。しかし、好漢店員の写真は残っていない。理由は、彼が男だったからである。被写体を選ぶにあたりいささか偏狭でありすぎたかと、今になって後悔している。
■普段着の街
レストラン近くの停留所からLRTに乗る。こういう平凡な風景こそが、私は好きだ。
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