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羽幌炭礦鉄道突然死の謎〜〜茨城交通湊線キハ222





 鹿島鉄道の現地にTAKA様と同道したのち、鹿島臨海鉄道を経由して、茨城交通湊線にも寄ってみることにした。那珂湊駅に着いたのは15時ころ。次の列車には充分すぎるほどの余裕があり、いささか間延びした時間を過ごす。

 湊線のダイヤは極めてシンプル、ほとんどの時間帯で上下列車が那珂湊で交換する形である。下り阿字ヶ浦行列車の改札が案内された(これは即ち上り勝田行列車の改札案内でもある)ので、構内踏切を通って阿字ヶ浦行ホームに渡る。車庫には何両かの、鹿島鉄道でも感じたことだが、過剰とも思える数の気動車が憩っている。



キハ2004・2005
那珂湊の車庫で憩うキハ2004(右)とキハ2005



 写真左はキハ2005、右はキハ2004で、いずれも留萠鉄道から移籍してきた車両である。車両形式としてはキハ22とほぼ同じ、この時代までの地方中小私鉄でよく見られた、国鉄型車両の同型亜種の一つである。それにしてもキハ2004は国鉄準急色で、確かにレトロな趣はあるけれど、この車両とは縁もゆかりもない塗色であって、違和感が伴う。

 上り勝田行列車が先にやってくる。おっ。国鉄型気動車塗装(青)をまとったキハ222 ではないか。曇天の夕刻、露出がかなり厳しい状況ではあったが、写真を撮ってみる。



キハ222
那珂湊に到着したキハ222



 阿字ヶ浦行列車はキハ37100、 最新鋭の気動車である。乗りこんでみると、揺れらしき揺れは感じられない。軌道の整備がよいのか、それとも車両の性能か。先ほど乗った鹿島鉄道とのあまりの違いに驚く。同じ県内の地方鉄道とはいっても、こうも違うものなのか。沿線風景は淡々としており、起伏の乏しい台地上を進んでいく。海岸沿いの絶壁にへばりつく県道(険道?)とは、趣をおおいに異とする。というよりむしろ、県道が何故かくも難しい経路を選んだのか、理解しにくい。県道が台地上のやさしい道筋を選んでいれば、湊線廃止問題は相当早い時点から表面化していたのではないか。



キハ37100
阿字ヶ浦に憩うキハ37100



 阿字ヶ浦駅構内をしばし散策する。原色塗装のまま廃車となったキハ221 が放置されている。キハ221 は、那珂湊駅で遭遇したキハ222 と同じく、羽幌炭礦鉄道からやってきた国鉄キハ22の同型亜種車である。潮風を浴びすっかり褪せた色あいが痛々しい。さまざまな部品が失われているのは、身を削って現役車に部品を供した証であろうか。



キハ221
阿字ヶ浦に放置されているキハ221(手前)



 このまま折り返すのでは如何にも芸がなく、一列車待てばキハ222 がやってくることは確実と思われたので、駅近くに案内が出ていた「天然温泉のぞみ」を試してみる。急坂を下ること数分、海辺の地下奥底から湧く温泉は、泉質じつに素晴らしく、短い時間ながら充分に堪能できた。

 阿字ヶ浦駅に戻ると、キハ222 が既に待っていた。夕空の色はいよいよ薄れ、撮影条件はさらに厳しくなっていたが、三脚を立てさえすればまだ充分にカバーできる。次の日の撮影に備えて ISO1600のフィルムを用意しておいたのも幸いした。そのかわり、良い発色は期待できないのだが……。



キハ222
阿字ヶ浦で出発を待つキハ222



 キハ222 に乗りこんで、一刹那、国鉄時代の北海道で何度も乗車した(勿論国鉄制式車のキハ22だが)なつかしさと同時に、強烈な違和感を覚えた。違和感の由来はといえば、車端に掲げられた銘板を見たからである。このキハ222 は昭和37(1962)年に製造されたのだという。

 昭和37年には筆者個人の強い思い入れがあったりもするのだが(謎笑)、今から45年も前につくられた車両というより先に、もっと重要な意味を持つ年次ではないか、と思えてならなかったのである。そう。羽幌炭礦鉄道の廃止は昭和45(1970)年の末、キハ222 が登場してから僅か 8年後の出来事なのである。



キハ222銘板
キハ222 の銘板



 会社の経営が切実に苦しくなれば、積極投資が控えられるのが常識というもの。そして、鉄道車両新造とは今日でもなお高額な投資であり、当時においても決して軽からぬ投資であった。羽幌炭礦鉄道が国鉄同型亜種車を導入したというのは、厳寒豪雪に耐えうる仕様の気動車を自主開発するだけの力がなく、初期投資を可能な限り抑えるために、既存設計を流用したものと想像される。

 それにしても、新車投入に必要な初期投資は重い。この点を考えれば、昭和37年当時、羽幌炭礦鉄道はまだ明るい将来展望を描いていたはずなのだ。それが急速に暗転するとは如何なる訳か。



キハ222
勝田で出発を待つキハ222



 日本における一般的状況としてエネルギー革命が進んでおり、羽幌炭礦鉄道もその荒波から逃れることはできなかった、と要約することは簡単だ。しかしながら、単純な要約にはかえって本質を見失うおそれもあろう。かといって、エネルギー革命は石油メジャーと結託した結果、という類のいわゆる陰謀説には信憑性がない。だいいち、石油メジャーの世界戦略が羽幌炭礦鉄道を倒したと認定してしまうと、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の喩えに似た飛躍と滑稽感が伴わざるをえない。ただし、陰謀とまではいかずとも「政略」が存在していた可能性は、「そこはかとなく」のレベルで指摘できる。

 石油は確かに便利なエネルギー源で、プラスチック等へ加工ができる貴重な資源である。だが、重化学工業などで今日もなお石炭が相当部分を占めている事実を鑑みれば、敢えて「革命」を起こす必然性があったといえるかどうか。日本の石炭資源は大部分が露天掘りできず、海外産炭にコスト面で劣るという課題は存在したものの、保護主義が許容された時代も長かったわけで、国内の重要産業を衰亡に追いやった理由としてはやや弱い。

 ひょっとすると、日本の産炭産業は意図的に潰されたのかもしれない。産炭業界は労働条件と歴史的経緯からして、労働組合の力がかなり強い。そして、これら労働組合は国政における野党勢力と密接な関係を持っている。与党勢力がこれを嫌い、政治的敵対勢力の力を削ぐため産炭業界を丸ごと潰す、という荒療治に出た可能性を、はたして否定できるだろうか。

 これは決して飛躍ではない。後年の国鉄改革がまさにこの類例といえまいか。公式には誰も認めていないが、国鉄改革の主目的の一つとして労組潰しがあったことは半ば定説化している。エネルギー革命の背景にも同様な意図がひそんでいた、と考えても不思議な点はなく、むしろ平仄がよく合う。近年の郵政改革や教育改革もこの相似形、と連想すれば、ほとんど確信に近い印象を持たざるをえない。もっとも最近の改革になると、与党勢力の支持基盤をも切り崩す内容も含まれているから、いったい何事が起きているのか、第三者的には理解しがたい部分も多いのだが……。



キハ222
キハ222 の車内



 個別の産炭企業は潰れたくないわけで、生き残るための努力を重ねてはいた。羽幌炭礦鉄道においても、キハ22を新製投入しただけにとどまらず、建設途上の国鉄名羽線(曙−三毛別間)を借用し、さらなる拡張方針を示した時期も昭和37(1962)年なのだ。そんな羽幌炭礦鉄道が 8年後にいきなり倒れたというのは、エネルギー革命という逆風だけではなく、産炭業界潰しとも呼ぶべき隠然たる政治的底流に足を取られたからではなかろうか。勿論、証拠は全くなく、筆者の憶測と想像にすぎないのだが。

 阿字ヶ浦から乗車したキハ222 の乗り心地は良く、穏やかに効く暖房とあわせ、眠気を催すほどであった。あたかも、国鉄の一支線に乗車しているかのような錯覚にとらわれてしまう。もし昭和30年代に時間旅行できるならば、その時代がどういうものであったのか、当代的感覚で眺めてみたいものだ。既に 別の記事 に記したとおり、日本では未だまともな「昭和史」が編まれていないというのが筆者の感覚だ。どのような切り口ならば安定するか。まだまだ展望が見えてこない。





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執筆備忘録

訪問:平成19(2007)年立春頃

執筆:平成19(2007)年夏





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