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長距離電車略史〜〜「湘南電車」と新幹線





■蒸気機関車時代

 日本の鉄道は、他の鉄道先進国と同様に蒸気機関車牽引列車から始まった。蒸気機関は従前からは比べものにならないほど強い力を発揮するメカニズムであり、今日でも発電所などで使われているほど安定的なメカニズムでもある。ただし、鉄道での性能向上を図るには変速機能が不可欠であり、最もプリミティブな機械−−というよりむしろ「からくり」と表現した方が似つかわしそうだが−−である蒸気機関車では対応が難しかった。

 日本の鉄道においてはさらに軸重の制約があった。東海道本線などでさえ軸重16トン強に過ぎず、同じ1067mm軌間の南アフリカでも20トンであったのと比べおおいに遜色があり、英国マラード号の軸重24トン超からは遙かに懸絶していた。日本の蒸気機関車の最高峰といえば C62が挙げられるが、せっかく D52由来の強力なボイラーを搭載しておきながら、窮屈な造作で従台車軸を増やし、動軸重を軽減しなければならなかった。

 c62C622(梅小路蒸気機関車館:平成16(2004)年撮影)

 南アフリカなみの軸重20トンまで強化したと仮定すれば、あくまでも単純計算だが性能は25%も向上することになる。しかし、軸重強化には橋梁の補強あるいは架け替え・全面的な軌道構造改良などが必要であり、当時の日本にできることではなかった。明治〜大正期にかけて興った改軌論が実現しなかったことを惜しむ論は多いが、詰まるところ改軌したところで、軸重強化も併せて実現しなければ機関車の性能向上は図れず、ほとんど意味がない。このような現実の厳しい制約条件を無視して、車両設計の最適化を目指したのが改軌論者の本質と考えられるので、筆者はこれを支持しえない。

 軸重強化ができないという制約条件下では、列車性能を向上するにあたり、蒸気機関車はもとより機関車牽引方式には限界があると最初に気づいたのは島秀雄である。島秀雄は戦時中から電車方式の研究を始めていた。島秀雄は戦後になって蒸気機関車最高峰の C62を世に出すことになるが、これは車両需給が極度に逼迫した当時としてはやむなき展開であっただろう。実際のところ C62は49両のリリースにとどまっており、先代の C59と比べ三分の一以下の両数にすぎず、性能の割には中途半端な位置づけに終わっている。





■「湘南電車」から「こだま」へ

 電車という交通機関は軌道由来のもの、という固定観念は戦後まで続いている(ちなみに外国では未だにこの固定観念があり電車方式の新幹線の低い評価につながっている)。関東では横須賀線が電車運転であり、関西では「流電」ことクモハ52の活躍があったとはいえ、電車はあくまでも大都市圏限定であり、長距離列車は機関車牽引「でなければならない」のが当時の技術的常識だった。

 以上のような「常識」の打破を目指して導入されたのが、昭和25(1950)年に登場した「湘南電車」こと80系電車である。この80系電車こそが、のちの「こだま」 151系電車、そして東海道新幹線 0系へと連なる長距離優等電車列車の始祖である。ところが80系電車に関して、この点に関する評価が低いどころか、採り上げられる機会さえ少ないというのは、不思議を通り越して謎である。

 80系電車「湘南電車」80系初期車(交通科学博物館:平成16(2004)年撮影)

 もっとも、80系電車にも弱みはあった。客室部分は旧型客車そのままの造作であった。初期車前面の外観は野暮ったく、技術史的な観点でいえば価値はあっても、のちの二枚窓量産車の方が明らかに洗練されていた。なによりも東海道本線でさえまだ全線電化されていない段階だったのが大きかった。昭和25(1950)年当時、東海道本線は浜松−京都間が非電化で、全線電化がなったのは昭和31(1956)年であった。この時点からわずか20年後の将来、長距離優等列車がことごとく電車となると予測できた人物がいるならば、それは神のごとき洞察力を備えていたと評するしかあるまい。

 「こだま」 151系電車の登場は昭和33(1958)年のことで、未だ東海道本線以外に全線電化の幹線がない段階であったものの、この時点で既に長距離優等電車を電車方式とする基本方針が確立されていた。「こだま」開発の指揮者は島秀雄、国鉄を昭和26(1951)年に辞めていたものの、昭和30(1955)年に時の総裁十河信二の強烈な招きに応じて国鉄に復帰している。しかも技師長(副総裁格)という厚遇で。島秀雄は内心深く期すところがあったに違いない。実際のところ、島秀雄不在の 4年間に電車の進化がほとんどなかった(90→ 101系電車の登場は昭和32(1957)年)ことを考えれば、電車方式の進化・普及・発展はひとり島秀雄の功績に帰しても良いとさえ思われるほどだ。

 181系電車「こだま」の後裔 181系電車(南浦和:昭和53(1978)年頃撮影)

 その島秀雄はのちに、電車方式採用の利点について記している。

「列車全体の重量がそのままいわゆる粘着重量になり、列車重量に粘着係数を掛けただけの最大加速力が考えられまたそれだけの電気制動力が得られる」(参考文献(10))

 実に端的明快でわかりやすい要約である。軸重に厳しい制約があるなかで、機関車牽引方式ではどうしても得られなかった性能向上を、電車化によるブレイクスルーで獲得したのである。





■近代鉄道の祖・新幹線/これと比べ「湘南電車」は?

 「こだま」 151系電車で導入された電車による高速走行性能は、交流電化方式と併せて発展し、東海道新幹線 0系電車につながっていることは広く知られている。新幹線電車はその後も発展を続けており、今日に至るも日本の鉄道車両技術の最先端を走っている。

 新幹線 0系電車新幹線 0系電車(広島:平成16(2004)年撮影)

 また、東海道新幹線ではパターンダイヤが構成された点が極めて特徴的である。昭和39(1964)年開業当時には運行本数がまだ少なかったものの、「ひかり」「こだま」ともに毎時 1本、しかもきっちり 1時間間隔で運転されていた。このパターンダイヤの採用こそが、機関車牽引方式にまさる高加減速性能とあわせ、時間あたり列車数を最大化するため必須の基礎要件であった。のちに電車方式が全国的に広く普及していくのは、輸送力増強という社会的ニーズによくマッチしたからにほかならない。その意味において、新幹線は近代的鉄道輸送体系の雛形になったといえる。

 新幹線の長所は、いうまでもなく 200km/h超の領域での高速輸送を実現した点にある。その一方で、新幹線が大都市圏通勤鉄道なみの高密度輸送を行っている点について、既往の著名な文献であまり言及されていないというのもまた、たいへん不思議である。TGV南東線パリ−リヨン間のように、多方面からの列車が集約されて結果的に線路容量を限界近くまで活用している例はあるものの、新幹線は設計思想からして高密度運転を意識している点で、他の高速鉄道とは異なる次元に立っているはずだ。このような新幹線の長所は、なぜか正確に認識されているようには思われないのだが、これは筆者の思いこみであろうか。

 さて、新幹線に対し「湘南電車」が最先端に立つことはなくなってしまった。首都圏で最も重要な路線の一つという位置づけは変わらなくとも、輸送体系が他路線の雛形になることはなく、他路線で確立された雛形が導入されるようになった。例えば 113系電車などは先行する101・153系電車の要素技術をアレンジし、70系電車の車体造作を近代化したにすぎない、としては酷評に過ぎるであろうか。またパターンダイヤを組もうにも、加減速性能が大きく異なる優等列車が随所にはさまっていることが障害となった。

 さくら+はやぶささくら+はやぶさ(来宮:平成12(2000)年撮影)

 首都圏の近郊型電車が走る各路線のうち、横須賀・総武快速線で真っ先に 113系電車が置換されたというのは、輸送体系がクローズしており、新車を揃えることにより得られる効果が大きかったからと想像される。その点、東海道本線では 211系電車が相応の比率を占めており、車種統一は難しい状況であった。 113系が退場し、E231系が大量導入された今日でもなお、車種統一の見通しが立っていないほどである。

 経緯はともかく結果として、都心を通過する直通運転、E217系電車に始まる新世代車両の投入、いずれも横須賀線に遅れをとったという事実は、東海道本線の現在での位置づけを顕著に示している、といえるかもしれない。

 113系電車総武快速線 113系電車(新小岩:平成 8(1996)年撮影)

 なお、筆者は 113系電車に高い価値を認めていない。手許にある写真を掻き集めてみても、先頭車が写っているものは総武快速線での末期一葉に過ぎない(しかも露出不足)。東海道本線では先頭車が写っているものは皆無、ただし中間車を写したものがある。

 113系グリーン車東海道本線 113系グリーン車(来宮:平成12(2000)年撮影)

 近郊型電車への二階建てグリーン車導入は平成元(1989)年 211系電車に対し行われたのが最初だが、首都圏の通勤輸送に新たな地平をもたらしたという意味において画期的な出来事といえる。付加料金を支払っても確実な着席と快適な空間を求める利用者が増えたことは、輸送力増強一辺倒だったそれまでの輸送体系に微妙な修正を加える原点となった。「湘南電車」の名を受け継いだ 113系電車が最先端に立ったのは、相対的には旧型車両でありながら二階建てグリーン車が導入された瞬間にあるといえ、またこの点に関する言及がなければ 113系の真価を正当に評価したとはいえないだろう。

 おそらく 211・E231系電車は「湘南電車」の名を継がないであろう。両形式とも、湘南という地名に属するより以前に、幅広い活躍の場を得てしまっている。真の「湘南電車」なる称号は、日本の鉄道史に画期を刻んだ80系電車にこそふさわしい。東海道本線の通称として「湘南電車」との呼び名はなお残るであろうが、筆者としては、長距離電車の太祖となった80系電車に対する尊称として使いたい心地がする。





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■参考文献

 (01)鉄道省、「日本鉄道史」
 (02)日本国有鉄道、「日本国有鉄道百年史」
 (03)原田勝正、「日本鉄道史−−技術と人間」
 (04)碇義朗、「超高速に挑む−−新幹線開発に賭けた男たち」
 (05)大平祥司、「スーパーエクスプレス新幹線発達史」
 (06)久保田博、「鉄道車両ハンドブック」
 (07)久保田博、「日本の鉄道史セミナー」
 (08)佐藤芳彦、「世界の高速鉄道」
 (09)日本鉄道技術協会、「島秀雄遺稿集−−20世紀鉄道史の証言」
 (10)島秀雄、日本機械学会誌より「東海道新幹線の開発を振りかえる」
 (11)島秀雄、パンフレット“1958ビジネス特急電車”より「ビジネス特急の完成に際して」
 (12)高橋団吉、「新幹線をつくった男島秀雄物語」
 (13)升田嘉夫、「鉄路のデザイン−−ゲージの中の鉄道史」
 (14)福原俊一、「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」
 (15)山之内秀一郎、「新幹線がなかったら」
 (16)吉川文夫、「写真でみる戦後30年の鉄道車両」

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