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そのⅢ   H.Kuma説肯定論





1.坂戸ルートへの見直し

 東上鉄道は小坂ルートを見直して、坂戸経由の路線を建設することにした。……という事実だけを踏まえるならば、H.Kuma説は全面的に肯定されなければなるまい。H.Kuma説でなければおかしいのだ。まずは以下の路線図を御覧頂こう。青線で示した想定坂戸ルートが如何に合理的であるか、一目瞭然に理解できると確信する。

坂戸ルート
東上鉄道坂戸ルート(想定)

 坂戸の旧市街北端に接しつつ、松山への最短経路を進むならば、H.Kuma説を採ることが最も合理的な選択となるはずである。もっと踏みこんでいえば、このルートを選択しない発想はありえない、と断じてもよいほどだ。想定坂戸ルートが描く線形の方がよほど素直ではあるまいか。

 逆にいえば、実際に建設された東武東上線のルート選択には、尋常ならざる不自然さがある、ともいえる。旧市街の南側を迂回していること、坂戸駅の手前で左カーブが入っていること、坂戸駅を出て急カーブで方角を変えていること、等々。ではなぜ、このようなルートが選択されたのか。





2.坂戸駅付近の怪しい痕跡

 現東武東上線のルート選択に関して、確実な証拠は存在しない。よって想像に依らざるをえないのだが、疑いの目を持って見れば、坂戸駅付近には実に怪しい痕跡があることがわかるのである。

坂戸駅付近
現東武東上線坂戸駅付近

 先に記したとおり、坂戸駅手前の左カーブがまず怪しい。なぜここで方向転換しなくてはならないのか。旅客ホームは直線に近似でき、そのまっすぐ先に保守車両基地があるのがまたまた怪しい。その延長線上に直線の道路があるというのが、実になんとも怪しい。関越道(図中では略)の先にある浅羽野中学校(昭和57年開校)の敷地の端をなぞると、高麗川に直交する角度になるわけで、これはもう、ほとんどとどめの一撃である。

保守車両基地保守車両基地怪しい道路浅羽野中学校
左端・中左:保守車両基地  中右:怪しい道路  右端:浅羽野中学校  撮影:TAKA様

 勿論、確たる証拠は全くない。しかし敢えて書きとめておきたい。筆者はかつて、以下の噂話を耳にしたことがあるのだ。

「東上鉄道には昔、鳩山を通る計画があった」

 根も葉もない伝承であるかもしれない。形を変えた「鉄道忌避伝説」であるのかもしれない。しかしながら、それを信じたくなるような状況証拠が坂戸駅周辺には山盛り残っているではないか。少なくとも、筆者の感覚にはビシビシ迫ってくるものがある。

 H.Kuma様によれば、当該区間には高麗川河畔への砂利採取軌道が敷設されていた時期があるという。東上鉄道計画との関連は必ずしも明らかではないが、計画の残滓である可能性は相応に高い。

 ……と思っていたところ、さらにさいたま市民@西浦和様から参考文献(7) の御教示を頂いた。これによれば、「今でも坂戸町駅の東上線ホームの寄居方に立つと、右へ急曲線を画く本線に対して直進する引上線があり、その先は県道踏切を越えて工場側線となっている。これが越生への延長予定線であった」とかなり明確な記述がある。この記事の著者は越生鉄道創始者グループの一人の子息とのことで、信憑性はかなり高い。してみると、以下の歴史的経緯を仮説できるのである。





3.歴史的経緯を仮説する

 以上のような考えを記事にするというのは、悪乗りと批判されてもしかたないかもしれない。しかし、事実はこのようなことではなかったか、という仮説を提起しておくことにも相応の意義があると信じたい。

 東上鉄道は発起当初、小坂ルートを想定していた。計画が具体化し、さまざまな検討が深度化するに伴い、小坂ルートの不利が明らかとなって、坂戸経由に変更となった。変更後の初期段階においては想定坂戸ルートが計画され、それを前提としてH.Kuma説のとおり、川越橋東詰に田面沢駅がつくられた。

 この段階で、東上鉄道内部でさらなる計画の見直しが提起された。あるいは、見直しが提起されたがゆえに田面沢駅は「仮の終点」とならざるをえなかった。提起された見直し内容はおそらく、東上鉄道とは上州への最短経路を採ることが発起の本旨、ならば松山を経由することなく、坂戸からそのまま直進すべきではないか、というものであったろう。この提起は多くの賛同を得て、正史にいうところの「方向をやや南西に変え」たルートを採り坂戸まで開業した。

 ルート選定において「方向をやや南西に変え」るには、以上のような見直し以外の状況を想定しにくい。東武鉄道が正史を編むにあたっては、想定坂戸ルートに触れにくいなんらかの事情があって、「方向をやや南西に変え」と表現することにより、想定坂戸ルートの存在をギリギリまで示唆したのであろう。

坂戸以西
東上鉄道坂戸以西計画ルート想定図

 坂戸以西のルートは、上の図に示したようなルートが俎上にのぼったのであろう。本命はCルート、対抗はAルート、大穴はBルートというところか。ところが、ここで潮目が大きく変わった。その一つは国による八高線計画の具体化、もう一つは松山における東上鉄道誘致運動の猛烈な巻き返しである。これに加えて、不況により越生の経済が地盤沈下してしまった。これら変化を勘案し、東上鉄道の計画は再び見直された。即ち、坂戸から急角度に方向を変えて、松山を目指すことにしたのである。坂戸から松山までの開業に時間を要した背景には、このようにルート選定が大きくブレたことが寄与している。

 坂戸以西での取得済み用地の一部は保守車両基地となり、一部は道路に転用され、一部は中学校敷地にとりこまれたのではないか。また、Cルートが検討された経緯から、越生方面での鉄道待望論が高まり、のちの越生鉄道(昭和 2(1927)年開業/昭和18(1943)年東武鉄道に吸収合併)として具体化した。鳩山方面には鉄道待望論があっても、沿線に産業が乏しく(なにしろ昭和57(1982)年まで村だったほどだ)、鉄道計画が具体化することはなかった……。

注:東上鉄道のルート選定に関する正史の記述は、東京側のターミナル立地等に関しては饒舌と形容してもよいほど念入りに記されている一方で、小坂ルートから坂戸ルートへの変更については極めて簡略、というよりも記述されていないに等しい。この濃淡の違いがあるがゆえに、謎がいよいよ深まるのだが……。

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 如何だろうか。正史の行間を読みつつ、状況証拠に頼る仮説であるから、邪道とも妄想とも呼べるかもしれない。しかしながら、合理性は相応以上にあるし、辻褄も合っているはずだ。では、ほんとうの事実はどこにあるのか。今となってはもはや、神のみぞ知るというしかないところだが、信頼の置ける参考文献も存在している以上は、いま少し詰めておきたい心地がする。





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