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Last two decades





■21年前

 平成 7(1995)年 1月17日(火)早朝、阪神・淡路大震災が発生した。激甚災害であることはニュース映像を見てすぐ理解できた。さりながら、実感からはほど遠かった。筆者は当時、震源からはるか遠く離れた山●県山中での仕事に従事しており、揺れをまったく感じず、災害の重さを受け止められなかった。

 阪神・淡路大震災は筆者の死生観を揺さぶることはなかった。筆者の周囲を包む日常は平和なままで未来永劫続くと、根拠もなく思いこんでいた。

 むしろ、同年 3月20日(月)の地下鉄サリン事件のほうが、筆者にとって戦慄となった。何故ならば、同日は春分の日をはさんだ連休の谷間にあたり、筆者は休暇取得して神保町の書店を目指していたからである。より早い時刻に営団地下鉄に乗っていればどうなったか、という“if”は、生命に関するだけに強烈だった。しかし、それでも筆者の死生観は不動だった。当時まだ而立前の若造だったから、自分は死から遠い、と自惚れていた。





■17年前

 約 4年後の平成11(1999)年、筆者は山を出て、都内の某研究所に所属していた。所長から与えられた研究テーマはなんとも難しいものだった。調べれば調べるほど、究めれば究めるほど、難しさが増していった。大胆というよりもむしろ乱暴と呼ぶべき前提条件を置いてさえ、まともな出力を得ることができなかった。四苦八苦の末に研究成果をまとめあげ発表したのは、阪神・淡路大震災からちょうど 6年後のことだった。

 この研究は筆者の財産になったものの、一抹どころでない寂寥感もあった。筆者の研究論文は誰からも顧みられておらず、虚しさを覚えた。筆者の研究論文が参考文献とされることは当時なかったから、価値ある研究とみなされなかったことは、不本意ながら客観的に明白だったのである。

 そうはいっても筆者はまだ若く、野心は存分にあった。その熱は学位(博士号)取得へと向けられていった。





■10年前

 長く遠い道をたどり、紆余曲折を経ながら、平成18(2006)年夏、ようやく筆者は学位取得し、博士を名乗ることになった。筆者は小成を実現し、ささやかな満足感を味わえた。

 その冬、筆者は一転して恐怖を感じるようになった。人生の目的は一つだという。学位論文を著したことは、その目的に数えられてしまうのではないか、自分の人生はもうここで終わりなのではないか、ならばあとは死ぬしかないではないか、……という類の恐怖である。

 ところが、筆者は不惑を超えたばかりで、老いの坂を迎えながらも、すぐ死ぬ気配などなかった。死は筆者の妄想にすぎなかったわけだが、それでも死を初めて意識したことは、筆者にとって重みを持つ経験となった。





■5年前

 その後の筆者はみごとなまでに行き詰まった。右往左往、七転八倒。前の見えない閉塞した隘路をただただ逡巡していた。平成20・21(2008・2009)年度の筆者の為体はとくに酷かった。当時の出来事は公私とも思い出したくないほどだ。隘路を抜けた今では、行き詰まりの理由がよくわかる。加齢に応じた立場や状況の変化に順応し切れなかったのだ。

 そんな筆者の頬面を叩いたのは、かの揺れ。言わずと知れた、平成23年 3月11日(金)の東日本大震災である。

 高層階での激しい揺れ、東京湾をはさんで見えた二つの大火災、刻一刻と盛り上がってくる海面。判断と対応を間違えば死にかねない、という思いが募った。

 当日当夜の出来事は 「『帰宅困難』な夜を経験して」 にまとめたとおりである。体験記風の文章ではあるが、死傷の恐怖・危険に関しても触れている。

 結果として幸運にも筆者は無傷で済んだ。自宅にも損傷はなかった。その一方で、明日は今日の延長とは限らない、平和な日常が一瞬で崩壊するほどの大災害がいつの日か必ずくる、とも実感した。筆者の死生観は、根底から覆ってしまった。

 筆者と同様な価値観の変化は、少なからぬ数の人々に共有されていると確信する。東京都・神奈川県下でさえ震度5強の揺れを記録した箇所があり、強い地震動は人々の五感を掻き乱し、恐怖と警戒を惹起したはずだからである。





■いま

 マスメディアの軽薄な報道を見ていると気づきにくいが、東日本大震災の衝撃を受け、世の中の空気感は確実に変わってきた。筆者はある一つの事実を以て、それを確信する。前述した筆者の研究論文が、近年になり参考文献として其処此処で引かれるようになってきたのである。この事実こそが、時代の断面を示していると考えるのだ。

 阪神・淡路大震災による被災を問題意識とした筆者の研究論文は、十年以上の時を経て、先行研究の検索対象となり、ようやく世の研究者の目にとまりはじめた。そのきっかけが東日本大震災というあたり、めぐりあわせには「神の悪戯」の要素を感じてしまう。

 そして、日本社会は着実に「次の大震災」に備え始めている。それが首都直下なのか、東海なのか、南海なのか、というところまでは確実に読みがたくとも、「次の大震災」が必ずあると認識することは決定的に重要である。そして、現代日本人には無防備が許されなくなった。「想定外」という言い逃れが出来なくなったともいえ、事態の峻厳さはより顕著になってきた。

 筆者はすでに五十、知命であるべき年齢に達した。自分が死ぬことを意識しながらも、生き続けることに貪欲になったのは、皮肉というべきなのかどうか。

 もう一点付け加えると、十年以上を隔ててようやく見出される経験を経ると、むかし 播いた種が芽を出すこともある、人生の奇妙を実感せざるをえない。人生の報奨とは何 か、不可思議なものではある。





■Next two decades

 あと20年経つと、筆者は従心の歳である。そこまで至らずして死ぬ可能性も充分あるし、生を保っていても健康を損ねている可能性はさらに高い。

 「次の大震災」をいずれ避けがたいのであれば、せめてその厄災を最小化し、死生観がまたもや覆る事態の再来を避けなければならない。

 震災復興に関わる機会のなかった筆者の使命は、そこにあると信念するしかあるまい。微力であればこそ、もがき続けなければ、横道にずれていきかねない。

 Memento Mori ……「汝死を思え」という警句であるが、死を思うとはすなわち生を思うことであり、知命のうえ生を尽くしていくことにあると、筆者は信じる。









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