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第4章 結論


4.1 結論

 美濃町線の利用者数が減少し、とりわけ新関−美濃間が廃止に至るまで衰退した背景には、名鉄になんらかの失策があったからではないかと、筆者は予期していた。殊にモ600 投入数の過小と、新関における系統分割は、致命的な悪影響をもたらしたのではないか、との予見があった。

 しかし、検証の結果、上記の予見はことごとく否定された。確かに、名鉄の施策が最善だったとはいえない。しかし、それによる悪影響は強いものではなかった。

 美濃町線の利用者数減少の根本原因は、なんといってもモータリゼーションの進展及び深度化である。また、人口・商業の郊外化と高齢化は、モータリゼーションの進展・深度化を促進した要因と考えられる。

 これら3つの社会的条件の変化が、利用者数の減少を導き、美濃町線(あるいは全ての公共交通機関)の経営を圧迫したのである。

 

4.2 対策はありえたか

 上記の社会的条件の変化に対して、美濃町線は対応が可能であったか。

 郊外化や高齢化に対しては、独自の対応策を持ちようがない。どれほどサービス水準を上げようと、社会そのものの変化を押し止めるのは不可能である。

 モータリゼーションの進展・深度化にはある程度対抗できるかもしれないが、それにも限度はある。

 一定の需要が期待できる区間であれば、鉄道事業者は経営資源の積極的投入が可能で、その成果が利用者数の維持または増加につながるという、好循環が発生することもある。

 その一方、利用者数が少ない区間に対し、鉄道事業者が経営資源を割くことは難しい。サービス水準向上ができたとしても、利用者数が充分に増加しなければ利益を得られず、再びサービス水準を下げるしかないという悪循環に陥りがちである。

 この二者をわかつ要素は複雑でその境界はタイトである。それでも、昭和60(1985)年以降の美濃町線新関−美濃間は後者であると確実にいえる。利用者数減少→サービス水準低下→さらなる利用者数減少という、典型的な悪循環をたどり、結果として廃止に至ったのである。

 

4.3 あとがきにかえて

 以上の結論は当然すぎる、と受け止められるかもしれない。筆者もそれは否定しない。調査の末の結論が当然なる線で落着してしまい、しかも対策を見出しにくいという意味において、筆者は無力感にとらわれてもいる。

 しかし、当然であるからこそ、この問題は美濃町線のみに限られたものではなく、公共交通機関にあまねく係るものと、考えなければならないだろう。

 昭和30年代以降、モータリゼーションの進展に伴い、数多くの鉄道路線が消滅してきた。美濃町線はよく頑張ってきたが、新関−美濃間は力尽きてしまった。

 名鉄が廃止する方針を明確に表明した(平成12(2000)年 3月31日付交通新聞記事によれば秋を目途に廃止申請を出す予定で沿線自治体と協議を進めるとのこと)揖斐線黒野−本揖斐間や谷汲線なども、同様の状況に置かれているのだろう。利用者数は極微であるうえ、鉄道側に打てる対策はないに等しい。廃止は必然と考えるしかない。

 鉄道の廃止そのものは悪事ではない。鉄道を代替しえる交通機関があるならば、鉄道の存続にこだわるべきではない。しかし、この地においては、鉄道の廃止は公共交通機関の全廃に直結しかねない。

 交通需要の全てを自家用車に委ねることには危うさが伴い、社会的に妥当といえない。その一方で、公共交通機関の維持を名鉄一社に背負わすのは過重、といえるほどの深刻な局面に達しているのもまた確かである。

 なんらかの対策を考えていかなければならないが、それはまた機会を改めて論じたい。ただし、解を導けるという保証はないのだが。

 将来の議論において、美濃町線での事例検証を試みた本論によって、なんらかの参考に資する点が発掘されれば、筆者としてこれにすぐる幸せはない。

 

 

4.4 感情的なあとがき

 以上まで、冷静かつ客観的に記すよう努めてきた。しかし、筆者の心底にはどうしても割り切れない思いが残る。モ600 の投入が全ての蹉跌の根源ではないか、と。

 今年平成12年(2000)度中に、モ600 のうち5両が置換されるという。走行機器の経年はモ510 なみ、車齢も30年に達する。置換すべき時期に至ったことは間違いない。

 しかし、代替車の内容には愕然とした。新車も投入されるようだが、あわせてモ870 の複電圧化改造も行われる由である。

 筆者はモ870 に対して、正確にいえばモ870 の原型である札幌市A830に対して、格別の思い入れがある。同年の生まれであるし、故地を同じくするということもある。なによりも、美しい。日本の路面電車史上最も美しい車両であると、筆者は信じている。

 モ870 も今年で既に35歳。鉄道車両では既に老境である。そんなモ870 に複電圧化改造を施すとの報を耳にして、なにを今更、との感情が湧いてくる。どうせ改造するならば、その車両を十全に使いこなせる時期にするべきだったろう。昭和51(1976)年の移籍時点で改造しておけば、20年以上に渡る大活躍が期待できた。しかし、実際にはそうならず、朝夕ラッシュ時の輸送力列車と、その輸送力を持て余す区間列車に封じこまれてきた。

 札幌では、地下鉄の開業と路線網の大幅縮小があり、短期間の活躍に終わった。名鉄に移籍してからも、新鋭車モ880 に圧倒され、二線級の存在に長く甘んじてきた。かくして、モ870 の壮年期は、あっけなく過ぎ去ってしまった。

 ここで改造を受けたとしても、あと何年活躍できるというのか。モ510 のように還暦・古稀までとはいくまい。せいぜい10年というところだろう。老境に入ってようやく、真価を発揮できる働き場を得たというのは、モ870 にとって幸せなのだろうか。

 ことの発端は、やはりモ600 である。新岐阜直通運転というアイディアはよかったが、それを実現するための車両数があまりにも少なすぎた。複電圧車を新製するというハードに対する意欲は、ソフト(アイディア)のよさを具現化するものではなかった。その後の輸送改善策がちぐはぐなものとなった根源は、全てここに依拠すると断じてもいい。

 美濃町線の利用者数が減少した主な原因が、モータリゼーションの進展とさらなる深度化、高齢化、人口・商業の郊外化などであることに、疑いを容れる余地はない。当事者がどれほど努力しようとも、これを覆すことができたとは考えられない。

 しかし、それでも、「人事は尽くされてきたのか」と考えると、一抹の割り切れなさが残ってしまう。最善の人事を尽くして(輸送改善策を施して)おけば、天命(新関−美濃間の廃止)を待たずにすんだかもしれない。もっとも、これは検証のしようがなく、意味のない妄想と承知してはいる。だからこそ割り切れないのだが・・・・・・などと記していくと堂々巡りになるので、ここまでにしておこう。

 この項は、理知的ではない筆者の感情と理解して頂ければ幸いである。

写真−11 徹明町に停車中のモ870

 路面電車史上最も美しい車両であろう。連接車で輸送力も大きかった。ところが、極めて優秀で、かつ輸送力も大きいモ880 の陰に隠れてしまい、朝夕ラッシュ時の輸送力列車以外には、徹明町−日野橋間の区間運転が専らの働き場所だった。

 

 


謝辞


 「Rail&Bike」の主宰者柏熊秀雄様により、怠惰な筆者の意欲は励起された。この種の論文を記すのは実に5年ぶりのことであり、内容には不備な点が多いとはいえ、「書けた」ことには充分満足している。柏熊様には、本論を最初に公開する場をも与えて頂いたとともに、私自身では決してできない水準のレイアウトに仕上げて頂いた。これらのこと全てに対して、謹んで感謝を申し上げる。

 「街と鉄道」の主宰者小原輝昭様とは、ボード上で応答しただけではあるが、考え方に示唆を得ること大であった。5年前の論文(未公開/今後も公開の予定なし)では名鉄をおおいに批判した筆者であるが、小原様の考えに接して調べをやり直し、認識を改めるに至った。本論の質が以前より良くなっているならば、それは小原様のおかげである。

 「Rail&Bike」のボードに参加している皆様の書きこみからは、「常に見られている」という緊張感を得るとともに、有形無形の「表現者を応援する力」を感じることができた。ここから「いいものを書かねば」との使命感が生まれ、その成果が本論となった。皆様には謹んで感謝申し上げる。

 


参考文献


【史料・年鑑】

   (01)「国勢調査報告第6巻その2−21岐阜県(昭和60年・平成2・7年)」

                               (総務庁統計局)

   (02)「大都市交通年報(各年度版)」(運輸政策研究機構)

   (03)「平成10年度鉄道要覧」(運輸省鉄道局監修)

   (04)「名古屋鉄道百年史」(名古屋鉄道)

   (05)「岐阜のチンチン電車」(伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦)

   (06)「私鉄史ハンドブック」(和久田康雄)

   (07)「写真でつづる日本路面電車変遷史」(高松吉太郎)

   (08)「路面電車時代」(吉川文夫編)

 

【鉄道ピクトリアル】

 第223号(昭和44年(1969年)4月臨時増刊)『全日本路面電車現勢』より

   (09)「名古屋鉄道岐阜市内線」(岸義則)

 第319号(昭和51年(1976年)4月臨時増刊)『路面電車再見』より

   (10)「名古屋鉄道岐阜市内線」(西村幸格)

 第473号(昭和61年(1986年)12月臨時増刊)『名古屋鉄道』より

   (11)「輸送と列車運転の現況」(志甫裕)

   (12)「追憶・岐阜の電車(1)」(星山一男)

   (13)「追憶・岐阜の電車(2)」(小川勇・巴川亨則・水野照也)

   (14)「名古屋鉄道のあゆみ/その路線網の形成と地域開発」(青木栄一)

   (15)「私鉄車両めぐり[133]/名古屋鉄道」(吉田文人)

 第593号(平成6年(1994年)7月臨時増刊)『路面電車』より

   (16)「日本の路面電車現況/名古屋鉄道岐阜市内線」(藤井建)

 第609号(平成7年(1995年)8月)『函館・千歳・室蘭線』より

   (17)「名鉄モ700、750を称え、その足跡をたどる」(渡利正彦)

 第611号(平成7年(1995年)10月)『大手民鉄のローカル線』より

   (18)「大手民鉄のローカル線」(佐藤信之)

 第624号(平成8年(1996年)7月臨時増刊)『名古屋鉄道』より

   (19)「美濃町線・岐阜市内線の昨日、今日」(藤井建)

 

【鉄道ジャーナル】

 第116号(昭和51年(1976年)10月)『鉄道のサービスを考える』より

   (20)「路面電車再発見⑩/名古屋鉄道岐阜市内線・美濃町線」

                            (日本路面電車同好会)

 第164号(昭和55年(1980年)10月)『路面電車は生き残れるか』より

   (21)「路面電車この20年の軌跡」(越智昭・花房幸秀)

   (22)「80年代に生きる路面電車」(編集部)

 第171号(昭和56年(1981年)5月)『京阪神圏の鉄道(第1部)』より

   (23)「モ880形が大活躍する/名鉄美濃町線はパラダイス」(三浦衛)

 第345号(平成7年(1995年)7月)『JR対私鉄9年目に見る力の差』より

   (24)「大都市型鉄道に脱皮を図る名鉄」(種村直樹)

 第354号(平成8年(1996年)4月)『花開く乗入れ直通運転』より

   (25)「岐阜駅前通りから出発する名古屋鉄道タイムトリップ列車

        岐阜市内線〜揖斐線・谷汲線直通急行から足をのばして・・・・」(間卓麿)

 

【その他】

  (26)「日本の路面電車ハンドブック(1993年版)」(日本路面電車同好会)

  (27)「日本の路面電車ハンドブック(1997年版)」(日本路面電車同好会)

  (28)「路面電車ガイドブック」(東京工業大学鉄道研究部)

  (29)「路面電車と街並み/岐阜・岡崎・豊橋」(日本路面電車同好会名古屋支部)

 

 


執筆備忘録


美濃町線初訪問:昭和57(1982)年春(日野橋まで乗車)
美濃町線再訪問:平成 7(1995)年夏(全線乗車かつ沿線を自転車で踏破)
本稿原型の執筆:平成 7(1995)年夏〜秋
美濃町線再々訪問:平成10(1998)年秋(新関−美濃間を徒歩で踏破)
本稿の執筆:平成12(2000)年春〜初夏

 

 

 


以上

 

 



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