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第2章 南部縦貫鉄道の存在意義
南部縦貫鉄道の旅客輸送密度の推移は図−2のとおりである。
図−2 南部縦貫鉄道及び岩手開発鉄道の旅客輸送密度の推移
参考文献(05)
これはなんとも凄い数字というしかない。
最も成績が良かった昭和38(1963)年でさえ、定期・定期外あわせ 246人/km日という低水準にとどまっている。定期外の利用者は、昭和40年代後半(1970年代前半)から後、極めて低水準で推移している。最末期の平成 9(1997)年には、廃止(結果的に休止)を惜しむ利用者が押し寄せ、わずか35日間の営業で史上最高の数値を記録しているが、それでも 524人/km日に過ぎない。
南部縦貫鉄道は、旅客輸送にはまったく期待していなかった節がある。その状況証拠はいくつかある。
写真−7 盛田牧場前の風景
粗末なホームと待合室が、盛田牧場前の全てである。どれほどの利用者数が期待されていたのだろうか。
第一点は、東北本線との接続駅が当初千曵であったことである。千曵は東北本線の中では小駅である。旅客輸送の接続駅としては中途半端な立地で、ここと同じような接続駅は既に廃止された別府鉄道の土山(山陽本線)及び野口(旧高砂線)くらいしかない。とはいえ、貨物輸送を主とするならば、とにかく線路がつながり貨車が直通できれば充分なのである。
第二点は、沿線人口の少なさである。過疎とまではいかないにせよ、この鉄道の駅勢圏人口はごく少ない。いくら本数を増やし、速度を向上したとしても、使う人数が限られていては、努力しても成果を得るのは至難といえる。
第三点は、七戸駅の立地である。七戸は沿線最大の市街地であるが、駅の位置は市街地から 1kmほど離れており、利用者の呼びこみは難しい状況にある。あえてそうしたというのは、旅客輸送に重きが置かれなかったためと考えるのが自然であろう。
第四点は、レールバスが採用されたことである。旅客輸送に期待をかけていれば、新車であれ中古車であれ輸送力の大きな車両を導入したであろう。輸送力が小さいレールバスを導入したということは、旅客輸送量はその程度と認識していたことにほかならない。
写真−8 天間林を出発するレールバス
南部縦貫鉄道の旅客輸送の主力であり続けた車両。定員は少なかったが、輸送力はそれでも過剰気味であった。
最末期は老朽劣化の進行が著しく、トラブルを予防するため、乗車人員に厳しい制限を課していた。レールバスが無事故で走り終えることができ、なによりである。
写真−9 西千曳に進入するキハ104
国鉄のキハ10を輸送力列車対応として購入したもの。実際にはほとんど出番がなかったとされている。
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南部縦貫鉄道は、専ら天間林産の砂鉄輸送を期待していた。旅客輸送はその余録にすぎないとさえいえる。しかし、砂鉄の輸送量にしてもどの程度期待されていたか、疑問符をつけざるをえない。天間林駅構内の広さを見る限り、さほどの輸送量が見込まれていたとは考えにくいのである。
しかも、砂鉄輸送の荷主になるべき「むつ製鉄」は昭和40(1965)年に挫折している。南部縦貫鉄道には、需要の太宗と呼べる存在が、客貨を通じてついになかった。
写真−10 天間林駅構内
かつての交換駅・貨物取扱駅であり、構内はそれなりに広い。しかし、筆者が見聞する限りの比較において、標津線や興浜線と同程度の規模しかない。造作としてはごく狭小な部類に属する。どれほどの貨物輸送量が期待されていたか、この広さから推して知るべしであろう。
図−3 南部縦貫鉄道及び岩手開発鉄道の貨物輸送密度の推移
参考文献(05)
(対数グラフなので南部縦貫鉄道と岩手開発鉄道ではオーダーが異なる点に注意)
南部縦貫鉄道とよく似た性格を有する鉄道として、岩手開発鉄道を挙げることができる。図−2に示されているように、岩手開発鉄道の旅客輸送量は南部縦貫鉄道なみに少ない。しかし、岩手開発鉄道には石灰石輸送という大黒柱があった。図−3からわかるとおり、岩手開発鉄道の貨物輸送密度は、南部縦貫鉄道とは二桁違いの大きさである。
鉱石輸送には輸送コストを運賃に転嫁しにくい難しさが伴うため、岩手開発鉄道の経営が安泰とは必ずしもいえないが、これほどの貨物を運んでいるという社会的意義は重い。この岩手開発鉄道にしても、貨物輸送の収益力を削ぐとして、旅客輸送には早々に見切りをつけている。
南部縦貫鉄道が、なにを運ぶつもりでつくられたのか、如何なる展望があって頑張ってきたのか、常識の範囲で理解するのは至難である。
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酷な表現になるが、南部縦貫鉄道は明確な目的を持たない鉄道である。「むつ製鉄」の砂鉄輸送にしても泥縄のにおいがする。まちづくりに、あるいは地域の開発に、南部縦貫鉄道をどのように位置づけるか、展望があったようには思えない。
現場レベルでどれほど努力しても、遺憾ながら結果は伴わなかった。しかし、このことを責めるわけにはいかない。地域レベルでの計画性・戦略性の欠如は、現場レベルの努力をむなしくさせることを宿命づけていた。
地方鉄道というカテゴリーにおいて、最低限の社会基盤として鉄道を整備する時代は、昭和初期に既に終わっていた。戦後の地方鉄道整備は、そのほとんどが需要追随型であり、まず鉄道をつくってから需要を育成するという思想−−需要開拓型鉄道/これは北海道において顕著であった−−は過去のものとなっていた。
南部縦貫鉄道は、最も遅れて世に出た需要開拓型鉄道である。うまくいかなかったのも当然といえる。
時代は既に転換していた。地域開発計画における鉄道の地位を明確にして初めて、成功の見込みが得られる時代に変わっていた。南部縦貫鉄道のような事業を、沿線自治体のみで遂行しようという点に根本的な無理があった。しかし、これは後知恵の結果論であろう。十和田市や五戸町と比べ、「鉄道がない」という点に関して遅れをとっていた沿線自治体は、焦燥に駆られていたのかもしれない。
鉄道とは所詮一個の道具である。道具である以上、実用の役に立たなければならない。そして、南部縦貫鉄道は役に立ったことがない。大量集約高速輸送という、鉄道としての特性は発揮されたことがない。
役立たないのに存在するとは、要するに装飾品である。南部縦貫鉄道は、実用品よりもむしろ装飾品に近い。装飾品ならば、装飾品でもよい。しかし、鉄道を装飾品として扱うためにはそれなりの仕組みが要る。
なんのために鉄道をつくるのか、いかにしてその鉄道を大きく育てていくのか。計画の最初にあるべき展望が欠けていた、とみなすのは冷酷に過ぎるだろうか。
写真−11〜13 野辺地三景
三点とも以前の上司S様より頂戴した写真で、昭和54(1979)年頃の撮影。
朝の通学時間帯だろうか、レールバスには多数の学生が乗車し、賑わっている。ホームの脇に積まれた手荷物、機関車が入れ換えている有蓋車に背後の無蓋車、いずれも今ではほとんど目にすることのできない風景である。
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