このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
第3章 苦難の道
南部縦貫鉄道の苦難の道は、開業後も続く。
昭和41(1966)年 5月 会社更正法の適用を申請
7月 上申請が認められる
昭和43(1968)年 5月 十勝沖地震により全線不通
8月 全線復旧及び野辺地−千曳間を国鉄より借り受け開業
昭和59(1984)年 野辺地の駅扱い廃止により貨物廃止
昭和61(1986)年 9月 野辺地町道との立体交差化工事により野辺地−西千曵間運行休止
12月 野辺地−西千曵間運行再開
平成 9(1997)年 5月 全線休止
現在に至る 参考文献(01)より
写真−14 坪を出発するレールバス
レールバスが七戸に向けて出発していく。車内は満員だったが、そのほとんどが「お名残乗車」のようだった。坪から乗車したのは、やはり体験乗車である筆者の妻のみだった。
南部縦貫鉄道の最盛期は、開業直後である。開業初年度及び翌年度は、少ないながらも定期外利用者がついていた。しかし昭和39(1964)年度以降、定期外利用者は急激に減少する。その一方定期利用者は増えているものの、定期外利用者の減少を補えるほどの水準ではない。
昭和41(1966)年、南部縦貫鉄道は会社更生法の適用を受けている。これは鉄道会社としては稀有な事例で、その原因が本業の業績不振というのはさらに珍しい。南部縦貫鉄道は、専ら副業の収益力に依存しつつ、会社経営の立て直しを図った。本業に明るい展望を描けなかった点、石灰石輸送に活路を見出した岩手開発鉄道と比べ、恵まれていなかったといえる。
苦難は重なって続く。十勝沖地震により、南部縦貫鉄道も被災した。この時、南部鉄道でも被害を受け、営業廃止に踏み切っている。南部縦貫鉄道においても、業績不振を鑑み、営業廃止するという選択もあったはずである。
ところが、南部縦貫鉄道は復旧するため努力した。そればかりか、東北本線の複線化・線路付替に伴う廃止区間を活用し、野辺地への直通を果たした。東北本線廃止区間の活用は、それ以前からの既定計画であろうから、これを実現させなければ諦めきれないという発想はあったに違いない。
写真−15 西千曳東方の風景
右手の線路は南部縦貫鉄道。左手の未舗装道路が、東北本線の廃止区間。
東北本線の廃止区間を活用し、野辺地への直通運転を行うことで、南部縦貫鉄道の利用者は増加した。しかしそれは一過的な現象に終わり、以後はごく低水準で推移した。
野辺地直通は、利用者の呼びこみにつながった。定期外利用者の伸び率は確かに飛躍的な水準であった。しかし、絶対数が少なすぎた。しかも、昭和45〜46(1970〜1971)年度に定期外利用者はさらに落ちこみ、それ以降、鉄道路線とは思えない低水準の輸送密度で推移している。
野辺地直通は、起死回生の策とはならなかった。以前より便利になったとはいえ、青森まで直通する列車があるわけではない。モータリゼーションが進展するなかで、優位性を獲得したとはいえない状況があった。
写真−16・17 西千曳(旧千曳)駅構内
ホームのつくりが安直なのは、西千曵−野辺地間でバス代行運転を行った名残である。もとの西千曵駅−−東北本線の旧千曵駅−−は草に埋もれ、近づきにくい。
運行本数に関しても優位性がなかった。南部縦貫鉄道は最盛期には13.5往復/日の運行本数を確保し、利便性提供を図るための努力はしていた。しかしその程度では、いつでも使える自家用車に対抗するのは至難であった。接続する東北本線の普通列車の運行本数も、さほど多くなかった点も痛かった。昭和40年代後半(1970年代前半)の地方ローカル鉄道のサービス水準は、国鉄・私鉄を問わず、一般的な利用者のニーズに応えられる存在ではなくなっていたといえるだろう。
その後、定期利用客は増加するが、これは天間林村内の通学輸送(小中学生)に負っている面が大きい。もっとも、利用者数が伸びても収益に結びつかない点が、南部縦貫鉄道の苦しさといえよう。南部縦貫鉄道の運賃は、短距離区間では極端な低水準に設定され、大手私鉄なみに安い。それは一方で、コストに見合わない運賃設定といえ、まして割引率が高い(小学生はさらに安価な)通学定期券とあっては、収益増にはつながらない。
写真−18 坪駅に掲示された時刻表と運賃表
近距離区間の運賃が極端に低く設定されていることがわかる。初乗りは 130円で、JR及び大手私鉄なみである。その一方で、自治体境を越えるあたりで急激に上がる運賃設定が採られている。盛田牧場前と七戸では 120円も違う。
定期利用客は昭和57(1982)年をピークとして、減少に転じる。ダイヤ設定に柔軟性を欠く点か、費用面か、どちらの要因が主とされたのか明確な資料はないが、天間林村では通学輸送をスクールバスにシフトしたのである。
この段階で、南部縦貫鉄道の使命は終わったといってよい。収益の柱となる需要もなく、通学輸送がスクールバスに転じた後は公共性という大義名分も掲げられなくなった。輸送密度は減少を続け、極微の域にまで達した。平成 7(1995)年の輸送密度はまったく信じがたい数字で、実に、定期 9人/km日、定期外30人/km日である。
国鉄大畑線の転換を企図したこともあったようだが、これは下北交通に阻まれた。仮に南部縦貫鉄道が大畑線を継承したとしても、規模が大きくなるだけで、収益力が向上するほどの展望はなかった。実際、下北交通大畑線は今年度(2000年度)一杯での営業廃止が確定的な情勢になっている。
写真−19 下北交通田名部駅
南部縦貫鉄道は国鉄大畑線転換の継承先に名乗りを上げた。経営状況の打開を図るためとされているが、成算がどれほどあったかは疑わしい。バス会社である下北交通が、自社エリア防衛のために大畑線継承に踏み切ったため、南部縦貫鉄道の企図は潰えた。そして、転換後15年余にして、大畑線は廃止される。
写真−20 JR東日本大湊線陸奥横浜駅
南部縦貫鉄道が国鉄大畑線継承に熱意を持った背景には、大湊線をも承継し、南部地方ばかりでなく、下北半島をも縦貫する鉄道網を構想したからといわれている。その意志は壮大であるにせよ、採算が確保できる事業といえるかどうか。
矢は尽き、刀は折れた。正念場を過ぎ、いつ鉄道の営業をやめるかが焦点となった。
レールバスは、規格がごく低い車両である。4軸貨車の台車にバスの車体とエンジンを据えただけと形容しても、大袈裟ではない。筆者も一度乗車したことがあるが、乗り心地の悪さには閉口した。かような車両が老朽化した線路を走っている状況では、事故の危険もあった。現状維持すら、難しくなりつつあった。
明るい未来に向かう道は閉ざされたに等しかった。それでも古びたレールバスは、毎日律儀に走り続けた。ただ、黙々と。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
平成 9(1997)年の 5月に、南部縦貫鉄道は廃止となる予定だった。ところが、廃止を惜しむ声があり、南部縦貫鉄道はそれに応え休止とした。休止申請は毎年更新され、今もなお休止は続いている。
休止(廃止)を決断するに至る前段階として、西千曳−野辺地間の国鉄清算事業団用地の買取問題があった。旧東北本線の路盤は、譲渡されたものではなく、借り受けであった。存続期間が法律に明記され改組を目前にした事業団は、南部縦貫鉄道に用地の買取を要請した。しかし、南部縦貫鉄道にその余力はなく、用地を買い取らないかわりに営業を廃止する予定だった(前述したとおり実際には休止)。
ところが、営業休止後、南部縦貫鉄道(あるいは沿線自治体)は用地を購入した。どのような展望があって、旧東北本線区間の用地を取得し、休止というモラトリアムを続けているのだろうか。
写真−21 七戸川橋梁付近の線路
枕木は割れ朽ちている。レールには筋が浮き出し、しかも輝きを発していない。七戸川橋梁も色が褪せている。タンポポの黄が映えるだけに、かなしい風景である。
ここまで老朽劣化が進んだ線路が、さらに休止期間を経て風雨にさらされ続けている。これを活用するためには相当な資金を投下する覚悟が必要だろう。
レールバス保存鉄道として生き残る道を模索している、といわれている。しかし、休止直前の熱狂があってさえ、輸送密度は 524人/km日しかなかったとの事実は大きい。定期列車だけではなく、続行運転を行ってこの数字である。当時の熱狂が永続したと仮定しても、営業を継続できる水準とはいえない。まして熱狂が冷めてしまえば、語るまでもない状態に戻ってしまうだろう。
東北新幹線へのアクセス鉄道として活路を見出そうとしている、という話もある。東北新幹線七戸駅は、在来線から離れた立地になるため、アクセス交通の計画は確かに重要であろう。しかし、アクセス交通は鉄道でなくてもよい。くりこま高原駅の事例のように、大規模駐車場を整備するという選択肢もある。
現在営業中の路線であれば、活用する手だてはまだあるかもしれない。しかし、長期に渡り営業休止中の南部縦貫鉄道を再び使えるようにするためには、かなりの投資を要するのではないか。投資に見合うだけの需要が見込まれればいいが、そうでない場合、歴史に学び自重することも必要であろう。このことは南部縦貫鉄道の当事者が最も深く強く認識しているはずである。
レールバスはよく走った。開業から休止まで実に35年間、鉄道車両としても充分に古い車両である。バス車両としてみれば骨董品に近い。その健闘は称賛に値する。レールバスを支えた南部縦貫鉄道の方々の努力には、並々ならぬものがあっただろう。無事故のうちに営業を終えられたのは、立派な功績である。
営業休止を続けているのは、見果てぬ夢を追っているのではなく、全国から広く愛され続けてきた鉄道の命脈を絶つに忍びない温情である、と信じたい。
写真−22 七戸駅に憩うレールバス
ヘッドマークが誇らしげである。
長年に渡る苦労の跡は、車体の内外に深く刻まれている。最後の日まで無事故を貫き、まったくなによりであった。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |