このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

第1章 名古屋鉄道前史

 

■名古屋鉄道の源流

 クイズです。

 名古屋鉄道の路線のうち、最も早く開業した区間はどこでしょう。

 このクイズに正確に答えられる方がいれば、たいしたものだと思います。現在の路線網からでは、想像すらつかない区間が、名古屋鉄道の始まりでした。

最初の設備
 会社は業務運営の体制も整い、まず笹島〜県庁前(久屋町※)の敷設工事を行った。続いて那古野村に変電所等を設け、本社事務所もそこに設置した。
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   ※引用者注:のちの栄町

開業時の模様
 建設工事は明治31年 3月に終了、試運転を行った後竣工検査も合格して、 5月 6日の午前 9時から開業した。28年 2月 1日開業の京都電気鉄道に続いて、わが国で第2番目の電気軌道である。
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 名古屋鉄道は、名古屋市内の路面電車がその原型だったのです。開業当時の社名は名古屋電気鉄道といいました。路面電車が原型という大手私鉄は決して珍しくありませんが、しかし、開業初期の路線がまったく残っていないというのは極めて稀な事例でしょう。

 後にも記しますが、名古屋電気鉄道は、名古屋市内の軌道路線を全て名古屋市に売却してしまいます。そして、名古屋市電は全廃されてしまい、名古屋鉄道は原型を失うことになってしまったのです。

 

 

■路線網を拡大するために

押切線の敷設
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 会社は方針を変更して押切線を先に建設することとなり、32年 4月に当初計画の笹島〜枇杷島間の路線を変更して柳橋分岐とするように改め、市会諮問の結果承認を得た。変更の理由は名古屋市の道路建設計画に沿うためと推察され、
    名古屋電気鉄道株式会社の柳橋(西区西柳町)より押切町に至る線路は
   明治34年 2月開通したが、これよりさき同会社ほか42名は那古野町〜菊井
   町〜押切に至る延長 746間・幅員 6間の道路新設方を出願し、これが容れ
   られるをまって同32年 4月16日工事に着手、翌33年11月 2日に至って竣成
   した。もとより名古屋電鉄が軌道建設のため、沿道関係地主等の協力をも
   とめ実施されたものであるが、街の開発として敷設せる私設道路としてお
   そらく顕著なものであったろう。
        「名古屋都市計画史(上)」名古屋市建設局(昭和32年 7月)
と評価されている。
 なおこの私道は43年11月28日に名古屋市に寄付採納され、市道に編入された。・・・・・・・・
 その後名古屋市内線敷設のパターンとなった建設費分担により市の道路事業改良事業とタイアップする方式は、早くもここで採用されている。・・・・・・・・

 

 名古屋電気鉄道が、路線建設を進めるにあたって苦労したことが、よくわかる記述です。名古屋市内の道路は幅員が広いことで有名ですが、それは江戸時代からの流れではありません。明治の昔は、まだまだ狭かったのです。そういう道路に軌道を建設するためには、用地を買収して道路幅員を広くしなければなりません。

 名古屋電気鉄道は路線建設を円滑に進めるため、道路新設にまで手を出したのでしょう。これは企業として当然の選択です。ところが、この手法が後々自らの足を引っ張ることになろうとは、当事者は誰も想像しなかったでしょう。

 公営の路面電車であれば、なんら問題なかったはずです。路線建設と道路の新設・拡幅は一体的に行われたはずです。民間企業たる名古屋電気鉄道が道路事業に関与したため、名古屋市との関係に歪みが生じることにつながったといえます。

 なぜなら、本来道路事業とは、市が税金をもとに行うべきことだからです。道路事業の資金をどこに求めるかという点において、税金以外の選択肢を示したことは、名古屋電気鉄道にとって予期せぬ失策となってしまいました。

 名古屋鉄道(名古屋電気鉄道)と名古屋市との長年に渡る攻防は、ここから始まったといってよいでしょう。

 

 

■経営の主導権をめぐる攻防

報償契約の締結
 名古屋電鉄の経営が文字どおり軌道に乗るとともに社会から注目され、批判や改善要求も起こってきた。その最大の課題は市営論であった。すでに明治36年 9月には大阪市がわが国最初の市営電車を開業しているが、大都市の近代化に伴い交通機関に対する論議は急速に高まってきた。
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 さらには交通政策の立場から、国政上の大問題となっていた鉄道国有化が39年から40年にかけて実行され、その起こした波紋は地方における市内電車市有化の議論にもつながっていく。
 ・・・・・・・・名古屋市から報償契約の交渉が提議され、・・・・・・・・市側が例証としたのは東京市の報償契約であり、毎期利益金の一部を報奨金として納付を求めるものであった。会社は過去に道路建設改良に多額の負担金を支出し今後もその必要が見込まれるから、報奨金は二重負担であるとして極力これに反対した。
 しかし市の要請は名古屋電燈・名古屋瓦斯にも向けられ、各社とも道路を占有するという立場と、公益事業の性格から消費者としての市民感情を考慮すれば、市の要請を拒否するわけにはいかないとする態度は共通していた。
 さらに会社が配慮しなければならないのは、この頃名古屋市内における電気軌道企画の続出であった。・・・・・・・・後発企業が会社の好成績に刺激されて新規参入を狙う形勢となっていた。会社としては名古屋市と敵対することは不得策であり、逆に報奨金納付と引換えに、市内電気軌道の独占的地位を獲得する途を選択した。
 報償契約に関する第2の問題点は市営化の予約と、実行方法の協定であった。
 会社にしてみれば、発起以来苦心惨憺して築き上げた市内路線を市に移管するのは耐えられぬところであったが、・・・・・・・・
 会社は決算純利益の 3/100を市に納付する義務を負ったが、その代りに市域内に関しては独占権を名古屋市が保証した。また25年後には、市に対して市内電鉄事業を譲渡することを約定するの止むなきに至った。
 こうして報償契約は(明治)41年 2月21日に仮契約が締結され、 6月 1日に本契約の調印を終わった。
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 日露戦争を境として、鉄道の国有化が主張されるようになりました。全国一貫輸送体系を構築するという大義名分の一方、不況に喘ぐ民間鉄道の株主連が、保有する株式を高値で買い取ってもらいたいという下心を持っていたことは否めません。

 名古屋の場合はどうでしょうか。

 名古屋電気鉄道には事業を売却しなければならない必然性はありません。しかも、自ら道路新設・拡幅にまで手を砕いてもいます。「発起以来苦心惨憺して築き上げた市内路線を市に移管するのは耐えられぬ」というのは、まさに本音でしょう。

 しかし、名古屋電気鉄道には、市道を借用している(占有している)という弱みがありました。占有の許可を取り消されれば、路線網は寸断されてしまいます。並行する道路に競合他社の路線が参入してくれば、自社路線の収益力が落ちてしまいます。

 名古屋市は、高邁な信念に基づいて公営化を図ったのでしょうか。そのやり方の強引さを見ると、強い意志が秘められているようにも思われます。軌道・電気・ガス事業が収益的であることが確認できたから、その経営の主導権を自らの手におさめよう、と。

 名古屋電気鉄道には大迷惑な話だったでしょう。報償契約の重さは、利益の一部の納付ではありません。これは新税の導入によっても実現できる事柄です。最も痛いのは、25年後の事業譲渡予約です。この条項があるがゆえに、市内路線の経営は、純然たる営利事業からBOT(Built Operation and Transfer:民設民営/一定期間後の公有化)に転じてしまいました。

 最初からBOTであれば、名古屋電気鉄道も身構え、それなりの対応をとれたでしょう。ところが、営利事業からBOTへの転換ですから、打撃は大きかったはずです。

 それでも、名古屋電気鉄道には前述の弱みがあり、報償契約を結ぶ道を選択しました。このような契約をまとめたことは、間違いなく名古屋市の功績です。しかし、民営企業にとって複雑な思いが残る契約であったことは、否めないでしょう。

 

 

■公共公益と株主利益をめぐる攻防

報償契約の締結(承前)
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 会社は当面の安定を確保したが、事業の前途が限定されたため設備拡張には消極的となった。しかしその後の名古屋市の発展による新規路線開設の要請が急増するに伴い、会社の態度は著しく不誠意であるとの非難を浴びるようになり、いわば独占の義務というべきものの意外な反響に苦しむこととなった。

営利性と公共性の相克
 報償契約締結後・・・・・・・・築港電軌を計画し・・・・・・・・会社と競願になったケースが現れた。
 ・・・・・・・・県・市は工事分担金として25万円の寄付を会社に求めた。経営者は競願排除の立場からこれを受諾する意向であったが、大株主会は・・・・・・・・株主の利害を損うものとして反対を唱えた。彼等は臨時総会の開催を要求し、その席上で役員の説得を退けて会社の方針を修正し、熱田駅〜白鳥〜築港間に道路改修費 3万円を寄付すると決議した。これでは県・市は予定の道路改良は不可能となるので、市当局は報償契約を援用して軌道敷設を強要するとの態度を示し、あるいは築港電軌は同路線に名古屋電鉄を上回る 4万円の寄付を申し出るなど事態は紛糾した。
 結局会社は江川線全体に13万円を寄付し、軌道を敷設することで落着したが、ここで示された公共性と営利採算との矛盾はその後も尾を引くのである。報償契約で予約された25年後の市営化は会社の経営方向を強く拘束するとともに、高配当を要求する株主層と、市当局をはじめ市民層の批判にある程度対応して利益の消費者還元を図ろうとする経営者との意見不一致は次第にエスカレートしてゆく。
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 民営企業は誰に奉仕すべきか、これは永遠の課題です。いつまでも答は出ないでしょう。顧客に対してか、従業員に対してか、それとも株主に対してか。これには一般論などなく、個別の事例に応じて考えていくしかないでしょう。

 名古屋電気鉄道の場合、いくらなんでも、株主の声が強すぎた。明治時代の常識だったかもしれませんが、株主が経営に干渉しすぎとの観が否めません。まして鉄道は公共事業であり、一般の営利事業とは色あいが違うのですから。

 株主の要求には、しかし、一理あります。25年後の事業譲渡時に、自分の所有する株式が適価で引き取られるのか。保証はまったくありません。いわばリスクだらけです。短期的に高配当を求める心理に追いこまれるのは、仕方ない面もあります。

 他の鉄道ではこれほどの対立があったのか。おそらく名古屋電気鉄道が最も激しい事例だったでしょう。なぜそのような対立が発生したかといえば、その原因は報償契約に求めざるをえません。

 前例が少ない契約なので、契約条項の吟味は難しかったでしょう。しかし、結果として、名古屋電気鉄道は迂闊でした。「市域内の独占権保証」など不要だったのです。「名古屋電気鉄道が同意しない他社路線の参入を名古屋市は認可しない」だけで充分だったのです。この一項を挿むだけで、展望の不透明な事業拡大から解放されるのですから。

 事業譲渡予約、市域内独占権。この二点をもって、報償契約において、名古屋電気鉄道は名古屋市に完敗したといえます。

 

 

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