このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください








山田郷
川之江八幡神社の歴史
総鎮守

「由   来」
 堆古天皇の6年九州宇佐八幡の本宮から八幡大神の御分霊を勧請し、山田井切山に伊予国山田郷鎮守として祀られたのが始まりです。
 当時、この地方一帯は山田郷といわれて、東予の文化の発祥地でした。その後、治暦元年伊予守源頼義が伊予の国司に任ぜられ、川之江町畑山(畠山、亀山ともいう)に社殿を造営したのが川之江八幡宮の起源です。 その後、火災にあい水利等の便利を考えて現在の亀島、旧宝積寺境内に社殿を新築、しかし嘉永4年社殿が焼失、安政5年に再建されました。これが現在の社殿で約200年前の建物です。

銅版画 「静謐の刻」(平成20年 高原斉 作 八幡神社藏)


「意   義」
 神意を慰め、五穀豊穣を祈願し、併せて災害排除、息災延命、天下奉平を祈る庶民の報恩感謝と祖先崇拝の念慮を込めた信仰から始まったものと考えられます。

八幡神社発刊の小冊子より掲載





川 之 江 八 幡 神 社 秋 季 大 祭 に つ い て

「行   事」
 川之江町の秋祭りは、以前は10月15日〜17日でしたが、昭和38年に市内統一されました。

海幸祭







陸幸祭

  10月13日  氏参り

     14日  幣帛 くへいはく)供進祭

     15日  神幸祭(しんこうさい)

     々  海幸祭(ふなみゆきさい)

     々  陸幸祭(りくみゆきさい)

             となっております。

 海幸祭(豊漁を祈願)は神輿(みこし)の渡御(とぎょ)です。 これは、以前は三軒屋(塩谷)から船にのって海上を航行し、太鼓台、関船は西濱、川原町の浜を隔年場所をかえて繰り返し迎えたものですが、現在は防波堤を築いた関係上、これが出来なくなり、築港から乗船し、且つ迎えるようになっております。
 その後、陸幸祭(氏子の部落をまわり、氏子が丈夫なようにと祈願)で町内をまわり八幡宮へ入ります。この陸幸祭に昔は太鼓台、関船、獅子舞、それに大名行列も出ていましたが、現在は大名行列はありません。

「神   輿」
 神輿は三体あります。 これは、神の三柱で
  主神 応神天皇 15代(西暦270年)
  配神 仲哀天皇 14代(西暦192年、応沖天皇の父)
   〃 神功皇后    (応神天皇の母)
をおまつりしており、現在のものは平成10年に新調されております。
お祭りの時は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の順に並びます。

八幡神社発刊の小冊子より掲載





「関   船」
 この関船は歴史的にも由緒あるもので、山内侯の参勤交替のとき川之江の港から乗船し鞆の津へ渡って本街道を上下したとき送り迎えに使った船を模したものとされています。現在は、八幡神社祭礼に奉納する仕儀となっております。
 その囃子船唄が実に悠長て情緒豊かなもので、伊勢音頭海老屋甚句からとったものです。

「太 鼓 台」
 太鼓台がいつごろからあったかというのは定かでありません。が、川之江村役用記の記述によると約200年位の歴史があると推定されます。下の資料は文化3年の役用記に書かれた祭礼行列の記述で太鼓台は「御輿太鼓」という名称で登場します。これが川之江八幡神社秋季大祭の太鼓台に関する記述の最古のものと考えられています。

文化3年(1806年)祭礼行列次第より


十五番 御輿太鼓 中須町、十六番 同川原町、十七番 同浦町、十八番 同西濱町、
十九番 同裏ノ丁、 ‥‥‥  三十四番 関船 と書かれてある。



 川之江村役用記より
  嘉永2年(1849年)8月7日
   祭礼申渡
     一、太鼓かき手覆ヒ昨年ノ通
        青 西浜、 黄 川原町、 赤 裏ノ丁(旭町)、 白 浦町、 
        黒 中須  相用可申侯事
     一、其余都者目立敷義 (すべてめたたしきこと)相成不申侯事(その他
       すべてをふくめて目立つようなことをしてはいけない)
     一、祭礼当日喧嘩口論理非不改双方共浜蔵入申侯(祭りの当日にケンカ、
       口論をして改めない時は、双方とも太鼓台を蔵の中へ入れてしまう)

  嘉永7年改メ安政元年(1854年)8月8日 
   祭礼申渡 
     太鼓外町ヨリ加勢一切不相成侯事
     芝居場並太鼓江贔(ひいき)トシテ弓張又は高張外町ヨリ遺候儀是又
     一切不相成事
     (太鼓をかきに他町からはきてはいけない。芝居、太鼓台へお花として提灯を出す
      ことはいけない。)

  慶応4年(1868年)7月
   祭礼行列次第
     壱番 幟、 弐番 志ゃんきり、 参番 鉾、 四番 幟、 
     五番 御神酒鈴、六番 念仏、 七番 山伏、 八番 白幣、 
     九番 金幣、 拾番 鼻高、 拾壱番 唐獅子、 拾弐番 大名、 
     拾参番 御輿太鼓 中須町、 拾四番 同川原町、拾五番 同浦町、
     拾六番 同西浜町、 拾七番 同裏之丁、 拾八番 同伊地(井地)、
     拾九番  別当宝積寺、弐拾番 神降、 弐拾壱番 御神輿、
     弐拾弐番 御神酒鈴、 弐給参番 馬、弐給四番 関船

     一、 狂言(芝居)当辰年番
       「新町上、新町下、農人町、古町上、古町下、山下町」(狂言に当っ
       た町は太鼓台をかかないことになっていた。太名行列は塩谷が担当し
       ていた)となっており、現在の順序は明治になって変ったものと思わ
       れます。

  そこで、現在の太敢台の順序と色別をみると、次のようになっております。
     一番 中須町(黒)、二番 川原町(白)、三番 西浜(黄)、四番 旭町(薄緑)、
     五番 井地町(空)、六番 農人町(赤)、七番 鉄砲町(橙)、八番 山下町(紫)
     九番 馬場町(薄紫)、十番 塩谷(桃)、十一番 二名町(柿)、十二番 栄町(緑)
     十三番 大門(黄)、十四番 新町(紫)、十五番 駅通(空)、十六番 東町(青)
     十七番 獅子舞(紫)、十八番 西新町(萌黄)、十九番 港通り(赤)、
     二十番 古町(臙脂)、二十一番 宮の谷(桃)、二十二番 天生津(緑)、
     二十三番 長持、番外 関船(紫)

八幡神社発刊の小冊子より掲載




「獅 子 舞」(中新奉納獅子舞)-市無形文化財
 天保の頃、宇摩郡長須村の庄屋に石川八左ヱ門という人がおりました。この人は職を弟に譲り自分は庄屋邸の東側に邸を構えたが、村の人はこの家を「東八」と呼びました。
八左ヱ門は才智に富み、広く商業を営んで財を成し、文武に励んで今治藩の郷士格でありました。 しかし、その子八太郎は生来病弱であった為、父は何とかして吾が子の病気平癒を神仏に祈願し、近郷の社寺に多額の寄進もしました。川之江八幡神社にも何か芸能を奉納しようと思い立ち、獅子舞を角石菊次に依頼しました。
 菊次は三豊郡生里(なまり)の生れで、ここは古くから獅子舞が伝承されており、菊次はこれを改変して独特の獅子舞を案出し、中所部落の青年に教え『東八奉納獅子』として毎年秋の大祭に奉納をしておりました。その後、八太郎も病気が快復し、成長して他郷に雄飛する様になり、明治30年頃中所部落に獅子舞を譲り、中所部落の秘芸として「中所奉納獅子舞」の名で伝えられ現在に至っております。

八幡神社発刊の小冊子より掲載





山 田 郷 総 鎮 守 川 之 江 八 幡 神 社 秋 季 大 祭
太鼓台奉納打合わせ会会議事項


一、太鼓台の運行にあたっては、連体責任を以て厳守運行し、絶対に違反行為のないよう努める。

二、太鼓台の奉納にあたっては、次の各係を置くものとする。
 (一)太鼓台役員 奉納部落より選出された者
 (二)太鼓台委員 奉納部落より選出された者(かき手)

三、太鼓台届出に関する件
 (一)警察への届出は 10月 日 午後 時〜 時まで

四、関船運行順位に関する件
 (一)関船は番外一番として常に御神輿に従い、順位は中須町太鼓台の前とする。

五、太鼓台奉納日時に関する件
 (一)10月13日、14日、15日の3日間とし、いずれも午前7時より午後9時までとする。

六、各太鼓台の車の装備は随意とする。

七、太鼓台間隔の件
 (一)太鼓台の棒先と棒先の間隔は10メートルとし、あまり接近しないように努める。

八、太鼓台昼食、夕食場所の件
 (一)各町内で十分協議し、所定の場所で行なうものとする。

九、太鼓台役員並びに太鼓台委員選出の件
 (一)各町内に於いて太鼓台役員並びに太鼓台委員を選出し、委員は役員の指導のもとに
    太鼓台を運行する。

十、神輿宮入り、並びに神輿との出合の際の太鼓台動作に関する件
 (一)神輿に対してはいかなる事情があろうとも、太鼓台は速やかに通路を開き、
    神輿を先に進行させること。

十一、夜太鼓の灯火に関する件
 (一)昔からの伝統を継承し、必ず提灯灯火を用いること。

十二、太鼓台の集合、並びに時間に関する件
 (一)10月15日には各奉納太鼓台は正午に川之江新港に集結し、神輿をお迎えすること。
 (二)10月15日の神輿宮入りの際には各奉納太鼓台は神輿に随行し、宮入りすること。

十三、太鼓台出合時の太鼓台の動作に関する件
 (一)太鼓台委員(かき手)は太鼓台役員の指示に必ず従い、空地に近い太鼓台より
    速やかに退避し、衝突・争いを避けること。
 (二)かき手の少ない太鼓台に出合った場合は、太鼓台委員(かき手)は、太鼓台役員の
    指示に従い、加勢し、動作を容易にすること。
 (三)自由行動・乱暴な言動は、厳に慎むこと。

十四、太鼓台委員(かき手)の動作に関すること。
 (一)如何なる場合にも太鼓台役員の指示によるが、遠隔地にあって連絡の
    取りにくい場合は太鼓台役員に代わって代行の者が事の解決に当たること。

十五、太鼓台運行に際しての人員の件
 (一)別に制限はしないが、事前に警察に届け出て、その人員を守ること。

十六、記章に関する件
 (一)太鼓台の運行に際して、太鼓台役員・太鼓台委員(かき手)は必ず記章を着用のこと。

十七、10月15日の神輿宮入りに際しての太鼓台の境内に於ける動作に関する件
 (一)事の如何にかかわらず、太鼓台は神輿の宮入りに随行し、宮入り終了後は必ず境内にて
    待機していること。

十八、胸章に関する件
 (一)胸章には部落名・氏名を記入し、警察の検印を受け、必ず着用すること。


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