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  世間は連日の熱帯夜ってことで寝苦しい夜が続いているみたいだけど、 私にとっては暑かろうが寒かろうが大して関係ない。 この身体じゃあ汗もかかないし、 気温の変化にだって鈍感。 そりゃあ、 よっぽど熱いものや冷たいものに触ったりしたら反応するようにできてるけどさ、 季節の移り変わりみたいな微妙な感覚を肌で感じるなんてことはもうできないんだ。 夏に暑い暑いってうわ言のように言いながら団扇で体を扇ぐことも、 耳元をあのなんとも嫌な羽音を立てて飛び回る蚊と格闘することだって、 いざ二度とできないってことになると、 なんだかみんな懐かしい、 素敵な想い出のように思える。 生身の時は、あれほど不快だった、 蚊に刺されてたまらなく痒いって感覚さえもね。
 でもね、 一つだけいいことがあってさ、 私の身体、もうクーラーも必要じゃないし、 蚊に刺さされることもないから、 夜に窓を思いっきりあけることができるんだ。 そうして、 入り口のベニヤ合板でできた薄っぺらなドアも開けると、 夜風がすーっと通り抜けて、 窓にぶら下げてる風鈴がチリンチリン鳴るんだよ。 そうそう、 風鈴って知ってるかなあ? 今は、 もうほとんどなくなった習慣だけど、 昔は夏になると風になびいてチリンチリン涼しげな音を響かせる小さな鈴をぶら下げて、 その鈴の音で涼しさを感じてたんだって。 私の風鈴は、 二年前に入舸浦の昭和骨董市でやっと見つけた小さな宝物。 暑さも寒さも大雑把にしか感じない、 この機械の身体でも、 耳はちゃーんと聞こえる。 だから、 風鈴のチリンチリンっていう音でだけ、 私は夏なんだなあってことを感じることができるんだ。 それが、 たとえ機械の耳を通してコンピューターで処理された音であったとしても、 その音を聞いて涼しいって感じる私はやっぱりどうしようもなく人間で、 しかも日本人なんだなって思うよね。

  大学は、 いま夏休み。 今頃みんな、 きっとどこかに遊びに行ってるに違いないんだ。 でも、 私は・・・。 ちらっと、 壁にかかっているカレンダーを横目で見て憂鬱になる。 だって、 せっかくの夏休みなのに、 私のカレンダーはほとんど毎日バイトって書いた赤い字で埋め尽くされているんだもん。 こんな貧乏くさい生活感まるだしのカレンダーだから、 決して汚くはないけど長い歳月をへて白から黄色っぽく変色しちゃったウチの壁にかかっているのが全くもってよく似合うよね。 はは。
  今月、 こんなに生活がきつくなった原因は分かってる。 この前の検査入院で、 仮想空間体験を買うっていう予想外の出費をしちゃったからだ。 身から出た錆、 自業自得。 しょうがない。 私にはもう親はいないんだもの、 失ったお金は自分で働いて取り戻すしかない。 それにしても、 せっかくイソジマ電工から10万円もお見舞金を手に入れたのに、 それを残らず茜ちゃんへのプレゼントを買うのに使っちゃったこと、 今更ながらちょっぴり後悔している私なのだった。

  その時、 私の携帯が鳴った。 藤原からだった。
「もしもし、 裕子さん? この前話した夏休みの京都旅行なんだけど、 そろそろ休暇の申請をしなくちゃいけないからさ、 具体的な日取りを決めたいんだけど」
  ああ、 その話か。 そう、 確かに二人で行きたいねーって話してたよね。 入院検査を受ける前はね。 でも今は・・・。
「ごめん、 私、 行けなくなりそうだ」
「どうして? あんなに行きたいって話してたのに」
「お金がなくなっちゃったんだよう。 折角貯めてたのにさ、 誘惑に負けて、 つい高い買い物しちゃったんだよう。 ごめんね、 本当にごめんね」
  入院検査の時、 サポートコンピューターとの接続を切られて、 脳だけになって、 真っ暗なところに閉じ込められるのが嫌だったから、 仮想空間を買った、 なんて、 そんな生々しい話したくない。 特に好きな人の前では。 だから、 高い買い物をしちゃったなんて曖昧にぼかした言い方をしたんだ。 でもそれがよくなかったみたい。
「高い買い物ってなんだよ裕子さん。 俺と京都に行くよりも、 モノの買うほうが大切ってことなのかよ」
  藤原は、 多分私が何かとんでもなく高価な骨董品でも買ったって誤解してるんだろう。 電話越しの口調が非難めいてる。
「なんだよう。 私、 謝ってるじゃないかよう。 そんな言い方ってないよ。 私だって、 好きで高い買い物したわけじゃないんだ。 私だって、 できるなら藤原と京都行きたいよ。 藤原になんか、 どうせ、 こんな機械の身体の私の気持ちなんか分かるわけないよ」
   その時の私はどうかしてた。 機械の身体の私の気持ちなんか分かるはずがないなんて、 藤原が一番傷つくことを言ってしまった。 それから、 藤原と言い争いの口げんかになって、 ついには、 どちらからともなく叩き付けるように電話を切ったちゃったんだ。
  そして電話を切った後で、 ものすごく後悔して憂鬱になってるくせに、 自分から謝るほど素直になれなくて、 そのくせ携帯を握り締めて、 藤原からかけ直してくるのを待ってる私。 どうして私っていつもこうなんだろう。

  イライラの原因は分かってる。 今月は余計な出費がかさんでお金がなくなって、 追い立てられるようにアルバイトして日々の生活にあくせくしてるからだ。心に余裕がないからだ。 でも、 それはしょうがないよ。 もしも、 月々の検査費用が払えなくて検査に行けなくて、 突然身体が壊れたら、 生命維持装置に致命的な故障が発生したとしたら、 もうそれで私の魂はあの世行きだ。 そんなの嫌だもん。 たとえ、 全身機械じかけのこんな身体になっても、 やっぱり私、 死にたくないもん。 貧乏っていやよね。
  世の中お金が全てってわけじゃ決してないし、 もちろんお金で買えないものだってこの世にはゴマンとあるってことだって分かってるけどさ、 でも、 あればあるにこしたことはないよね。 清貧なんて言葉があるけど、 そんなの嘘っぱちだよ。 こんな言葉を考えたのはきっとお金持ちに決まってる。 清らかに貧しくなんてそんなのあるわけない。 正しいのは「衣食足りて礼節を知る」これだね。 お金がないと、 それだけで心に余裕がなくなって、 なんだか人間関係までぎすぎすしちゃうんだ。 うー、 どこかに、お金落ちてないかなあ。 竹やぶの中から1万円札がぎっしり詰まったボストンバックでも出てこないかなあ。 鼠みたいにお金が増えることってないのかなあ。

  明日は、 いつものようにしろくま便のアルバイトを入れている。 午前8時半には東八軒坊の事務所に集合しないといけないんだ。 だからホントは早く寝なきゃいけないはずだったんだけど、 でも、 ベッドに入っても、 藤原と喧嘩しちゃったことが頭の中でぐるぐる回っちゃって、 ちっとも寝付けなかった。 ようやく眠れたのは外がうっすら明るくなって早起きの小鳥の声が聞こえ始めた頃。 だから、 あまり気は進まなかったけど絶対遅刻しちゃいけないと思って、 サポートコンピューターの時計機能を目覚まし代わりに使うことした。

  朝の七時にサポートコンピューターからの機械的な刺激で無理やり叩き起こされた私の脳みそだけど、 当然のことながら睡眠不足で目覚めは最悪。 私の機械じかけの身体は疲れを感じることはないけど、 でも、 そんな私だって脳は生きてるからさ、 横になる必要はないにしても睡眠はやっぱり人並みには必要なんだ。 だから、 寝不足になったら、 どうしても頭がぼーっとしちゃうし、 イライラしたりする。普通の人なら目の下にくまができちゃったりして、 化粧も大変だろう。 でも、 洗面台の小さな鏡に映ってる私の顔は憎たらしいほど健康そうだった。
  私は朝の準備なんて髪をとかして、服を着るくらいしかすることはない。朝ご飯も、歯磨きも、トイレに行くことも、もう私には無縁なんだ。

  七時半きっかりに、 黒塗りのごっつい自転車にまたがって、 事務所に向かう。 本当はもっと女の子らしい、 可愛らしい自転車に乗りたいんだけど、 私の身体を支えれられるくらいの頑丈な自転車っていったら、 こんな業務用のまるでそば屋の店員が出前で使うようなやつしかなかったんだよね。 そんな話はまあいいや。 えと、 私の住んでる宮の橋からしろくま便の事務所のある東八軒坊までは電車の駅でいうと四つ。 距離にすると6kmくらい離れている。 でも、 交通費はなるべく浮かせたいから、 私はいっつも自転車で事務所に通っているんだ。 たかだか往復500円くらいの電車賃だって、 今の私には結構な金額だからね。
  宮の橋から星修大や八軒坊に行くには駅の名前にもなってる団子坂って坂道を越えなくちゃいけない。 電車はトンネルで抜けてるけど、 道路は細い二車線道路で、 かなりきつい急坂の峠道になっているんだ。 だから、 こんな道を自転車で越える人はあんまりいない。 でも、 私は機械の身体のおかげで疲れってものをしらないから、 こんな坂道どうってことはないんだ。 自転車に乗ってるというよりも、 バイクや車に乗るのと同じ感覚だよね。 電気の力で動いてるし。 はは。
  団子坂の頂上では視界がわっと広がって、 東京湾を見下ろす大パノラマになるんだ。 朝の東京湾に小さな船が何隻も停泊しているのが見える。 小さな船って言ったけど、 ほんとは遠くから見るからそう見えるだけで、 近くに行けばとんでもなく大きい船のはずなんだけどね。 家も車も船もなにもかも小さくて、 海ってとんでもなく大きいなあって、 ここに来るたびにいつも思う。 あの海の向こうに世界が広がっていて、 いろんな国があるんだ。 私もいつか行くぞ。 京都もいいけど、 外国にだって行ってみたい。 今はまだ私の身体では行ける国ってあんまり多くないけど、 科学はいつも進歩し続けているんだ。 いつかきっと、 私だっていろんな国に自由に旅行できる日が来るはずだよ。
  下り坂は団子坂下の喫茶店、 カティーサークのところまで信号もわき道もないから、 道の端さえ走っておけば車や人にぶつかる心配はない。 だから思う存分スピードが出せるんだ。 私は走り屋ってわけじゃないけど、 風を切って坂を下っていくのは本当に気持ちがよくって彼らの気持ちも分かるような気がするよ。 坂の真ん中くらいのところに、 丁度電車のトンネルの出口があって、 電車も私も時間通りだったら、 電車が甲高い警笛を鳴らしながらトンネルから出てくるから、 しばらく電車と並びながら走ることになる。 今日も案の定、 まるで私を待っていたみたいに電車がトンネルから飛び出してきた。 ライバル登場だ。 ふふふ。 やめておけばいいのに、 私、 いつも電車に負けないようにムキになってペダルをこぐんだ。 競争ってことになるとやっぱり陸上部の血が騒いじゃうからね。 下り坂の力も借りてるからしばらくは電車といい勝負をするんだけど、 結局負けて「あーあ」ってがっかりしてスピードを緩めるあたりが、 ちょうど団子坂下のカティーサークの前の交差点。
  私はさっき、 交通費を浮かすために自転車で通ってるって言ったけど、 実はもう一つ理由がある。 私は団子坂の景色が好きなんだ。 それから自分の足で走ることも、 自転車に乗って走ることも大好きなんだ。 たとえ機械の身体で、 汗をながすことも、 息が切れることがなくても。
  大学に通うのに、 営業所に行くのに、 毎日飽きるほど通ってるこの道だけど、 それでも、 いつもこの坂を越えるたびに、 今日も頑張らなきゃって身体に力が湧いて来るような気がするんだ。 どんなに気持ちが沈んでいてもね。だけど、今日は眠いなあ、やっぱり。

  今日の仕事は引越しレディースサービスっていって、 女性による女性のための引越しサービスなんだって。 だから、 メンバーは二児の母にして優秀なトラック運転手でもある野中さんと、 あと私と同い年の石塚さんと私っていう女性ばっかりの三人チーム。 気心の知れたいつものメンバーだから、 普段だったらトラックでの移動中とか引越しの合間の休憩の時とかに軽口をたたいたり、 冗談を言い合ったりして、 いつもうるさい私達なんだけど、 今日の私は仕事中以外はずーっと寝ていた。 荷物を運んでいる間は、 うっかり立寝しちゃって荷物を落とさないように緊張してるから、 その分のツケも休み時間にまわってきちゃうみたい。
  仕事自体は、 会社を辞めて田舎に戻るOLさんと、 逆に田舎から東京に出てきた女の子の引越しで、 当然二人とも一人暮しで家具もそんなに多くなくって楽は楽。 現場も星ヶ浦とか裏八軒とか近場ばっかりだったから、 四時前には仕事が終わって東八軒坊の事務所に戻ることができたんだ。 さあ、 帰って寝る、 今日はもう寝るんだ。 藤原に、 明日電話しよう。 ごめんなさいって私から謝ろう。
  そう思いながら、事務所のドアを開けた。 そしたら、 眠気なんか一気に吹っ飛んじゃうようなことが待ち受けてたんだ。
  
「ヤギーさん、 待ってましたあ!」
  私達が事務所に戻ったとたん、 今にも私に飛びつきそうな勢いで山本君が走り寄ってきた。 山本君はしろくま便のバイト仲間で、 私と同じ星修大の二年生。 学部は違うけど私の後輩だ。
「ヤギーさん、 あのですね、 お願いがあるんですけど」
  こいつが頼みごとをしてきたら、 それはお金のことって相場は決まってる。 なにしろギャンブル狂だからね。そのくせやたらギャンブルに弱くていつも金欠でひいひい言ってる。 この前も宝塚記念で絶対に間違いないって大勝負して大負けしてるんだ。 だから、 彼女に捨てられるし、 こんな夏の暑い盛りにアルバイトする破目になるんだよ。
「うー、 お願いってなにさ。 金なら貸さないよ。 アイフノレにでも行けば。 でも、 ご利用は計画的にね」
  あんたに貸したら、 そのお金帰ってこないからね。 それに貸す金もない。
「ははは、 いや、 そういうわけじゃなくってちょっと一勝負してくれないかなあと思って」
「勝負て何の勝負なのさ?結局のところギャンブルなんじゃないの?」
「腕相撲」
  妙に真面目まじめくさって何をいうかと思ったら、 腕相撲だって。 私、 思わずプっとふきだしちゃった。
「腕相撲って、 あの腕相撲でしょ? 私と山本君とやるの?」
  私、 ついうっかり鼻で笑っちゃった。 こういっちゃ悪いけど、 山本君かなりひよわ。 最初しろくま便に入ってきたときは、 こいつすぐ音をあげて逃げ出すかなって思ったんだけど、 根性は意外にあって、 アルバイトはそこそこ続いてるし、 体つきも以前に較べたらがっしりしてきてるような気がする。 それでもあんた、私には勝てないよ。 だって私の身体は機械仕掛けだよ。 もちろん、 私の義体は一般生活用に出力がかなり抑えられているけど、 でもそこらへんの男よりかは、 多分、 力、 強いよ。 しろくま便のみんなだって、 私がサイボーグだってことは知らないけど、 女なのにかなりの力持ちってことは知っているはずだよ。
「ヤギーさん、 違います。 俺とやるんじゃありません」
  山本君、 私に笑われて男としてのプライドを傷つけられたのか、 ふてくされたようにいった。
「こいつが山本の言うヤギーなの? こいつが?」
  突然、 私達の間に割ってぬーって割って入ってきたのは熊みたいな体つきの男だった。 着ているしろくま便の作業服も多分一番大きいサイズなんだろうけど、 それがはち切れそうなくらいピチピチになっちゃってる。 それくらい、 いかつい上半身をした男だ。 レスラーのサブ・ポップを間近で見たらこんな感じなんだろうか。 目の前のサブ・ポップは、 ぎょろっとした、 だるまみたいな眼で私を見て、 そして馬鹿にしたようにヤニだらけの黄色い歯をにっとむき出して笑った。
「山本が、 いくら腕相撲が強くってもヤギーさんには敵わないって言い張るからよ。 じゃあ、 勝負してみようかってことになったのよ。 だから、 どんな筋肉女が出てくるのかって楽しみにしてたら、 こんな細っこい眼鏡のねーちゃんときたもんだ。 お笑いだな。 まるで。 ここは学校か?」
  サブポップは威圧するように一歩前へでた。 同じだけ後ずさりしてしまう私と石塚さん。
「誰なのこの人」
  私は石塚さんにこっそり聞いた。
「猪俣さん。 最近転勤でこの営業所にきた社員だよ。 いっつも女性社員を馬鹿にするから、 私、 この人嫌いだ」
  ひそひそと私の耳元で答える石塚さんの声は震えている。
「私も、 大嫌いなの」
  野中さんは、 私達の後ろの一番安全な場所から、 わざと猪俣さんに聞こえるように言った。 猪俣さんが野中さんをギョロ眼で睨みつける。 野中さんも負けずに睨みかえした。 私の後ろからだけどね・・・。
「ヤギーちゃん、 やっちゃいなさい。 ヤギーちゃんなら勝てるよ」
  そう言って、 野中さんが私の背中を押した。 いつの間にか、 私達の周りに人だかりができていた。 スポーツ新聞を熱心に読みふけっていた営業の小林さんとか、 暇そうに爪を切っていた飯田さんとか、 パソコンゲームをやっていた事務の鈴木さんとか、 それから、 いつも電卓をたたいてばかりのケチ所長まで、 これからおこる面白いショーを見逃すまいとやってきたんだ。 そして口々にどっちが勝つか、 ああだ、 こうだ言い合ってる。 みんな暇なの? 暇なんだね。 なんなのこの会社は・・・。 私はみんなに押されるようにして、 いつの間にか、 猪俣さん人と机を挟んで向かい合うカッコになっちゃったよう。 私、 まだやるなんて一言も言ってないのに、 どうしてこうなっちゃうんだろう。
  いざ向かい合うと、 猪俣さんはホントに山みたいに大きくて、 身長165cmの私の頭のてっぺんは、 猪俣さんの首のところまでしかない。 横幅だって、 私の三倍はありそう。 私達って、 ホントに同じホモ・サピエンス・サピエンスってやつなの? 身体のほとんどが機械の私だってありえないけど、 猪俣さんだってありえないよ。 うら若き女の子と、 和製サブ・ポップを対決させようとするしろくま便の社員はもっとありえない!
「山本、 分かってるな?」
  私の目の前の猪俣さんは、 自信満々といったふうに右腕の袖を捲り上げると、 山本君に向かってあごをしゃくりあげた。
「分かってます。 猪俣さんが勝ったら10万円、 そのかわりヤギーさんが勝ったら俺が10万円もらいます」
  山本君は蒼ざめた顔で唇をかみしめた。 それを聞いた、 まわりのみんながざわついた。 誰しも、 この勝負にそんな大金がかかっているなんて思ってなかったんだ。
「馬鹿なやつだな、 相変わらず」
  小林さんが手に丸めていたスポーツ新聞で、 冗談めかした調子で山本君の頭をポンって軽くたたいた。 でも誰も笑わない。 金額を聞いたとたん、 みんな緊張して、 何もしゃべれなくなっちゃった。 ゴクリって誰かが唾を飲み込む音が聞こえてくるような、 そんな雰囲気になっちゃった。
「ちょちょちょ、 ちょっとまってよ。 山本君。 なにそれ、 この勝負、 そんな大金がかかってるの?」
「ちょちょちょ、 ちょっとしたギャンブルですよ。 ちょっとした。 大丈夫、 ヤギーさんが勝てばいいんです。 落ち着いてください」
  そういう山本君は、 足がガタガタ震えているし、 目線もキョトキョト落ち着かない。 ギャンブラーはポーカーフェイスが基本じゃないの? だからあんたは駄目ギャンブラーなんだよ。
「金がかかってなきゃ、 こんな馬鹿げた勝負なんてしねえよ。 やる前から勝負はみえてらあな。 さあ、 こんな茶番はさっさと済ませようぜ」
  猪俣さんは腰を落として身構えた。 それでも、 私より背が高いんだ。 こんな人に勝てるわけないじゃないかよう。 私はただ腕相撲するだけだと思っていたんだ。 こんな大金がかかってるなんて思っていなかったんだ。 いや、 そりゃあ、 私だってそんじょそこらの男よりは強いと思ってるけどさ、 こんな腕の太さがふくらはぎくらいあるような化け物に勝てるとは正直思えない。 チラっと救いを求めるように山本君を見た。 もしも私の身体に血がかよってたとしたら、 きっと私だって山本君みたいに蒼ざめちゃっているはずだ。
「ヤギーさんなら勝てる! そうだ、 ヤギーさんが勝ったら、 1万、 いや、 えーと5千円あげる」
  山本君は私と目を合わせると力強くうなずいた。 違う、 分け前がほしいとか、 そんな意味であんたを見たんじゃないよう。 もうどうなっても知らないからね。 負けても私が悪いんじゃないからね。
  でも、 負けるわけにはいけない。 私が負けたら山本君、 十万円こいつにとられちゃうんだ。 そしたら山本君が可哀想だし、 この男の懐に十万円が入るのはもっと悔しい。 頑張って、 私の身体。 醜い機械の固まりなんていってごめんなさい。 あなたは私の大切なパートナーだよ。 私は目をつぶって祈るように義手をぎゅっと握り締めた。

  ちょうどその時、 作業服の胸ポケットの中で私の携帯電話が「新しい愛のカタチ」の軽快な着メロを流しながらプルプル震えた。 あまりの間の悪さに周りのみんながどっと笑う。 猪俣さんはいまいましげに舌打ちした。 おかげでそれまで張り詰めていた空気が一気に緩んじゃった。
  こんな時に一体誰だろう。 藤原かな? 私は苦笑いしてみんなに頭を下げながら電話をとった。
「もしもし、 お姉ちゃん、 アタシだよ。 アッカだよ」
  電話の主は藤原ではなく札幌に住んでる茜ちゃんだった。
  茜ちゃんは、 私と同じ全身義体のサイボーグで小学校五年生。 この前の入院検査の時に知り合ったんだ。 ずいぶん辛い思いをしてきた可哀想な子なんだけど、 今日の声はなんだかとっても弾んでる。
「お姉ちゃん、 お姉ちゃん。 私、 お姉ちゃんからもらったギターでこっそり練習して、 新曲を作ったんだよ。 それから、 友達と二人でバンドも組んでみたんだよ。 全部お姉ちゃんのお陰だっけさ。 お礼がいいたくって電話しちゃった。 ぎゃはは」
「そうなんだ、 茜ちゃん。 よかったね。 本当によかったね」
  私が茜ちゃんにプレゼントしたエレキギター、 使ってくれたんだね。 一緒に歌ってくれる友達もできたんだね。 わざわざ、 私に伝えてくれてありがとう。 茜ちゃんの元気な声を聴いて、 私、 嬉しくてなんだか胸が一杯になっちゃった。 でも、 小悪魔な茜ちゃん、 私の感傷を打ち砕くのも忘れない。
「そうそう、 CDも作ったから、 なんならお姉ちゃんのサポートコンピューターに曲ごとインストールしてあげようか? そしたら一日中ずーっとアタシの素晴らしい歌を聴いてられるっけさ。 ぎゃはは」
  茜ちゃんはコンピューターを自在にハッキングして操れる不思議な女の子。 例え遠くに離れていても、 私のサポートコンピューターを乗っ取って、 CDのデータを入れることなんて簡単なことだろう。 だから、 ゼンゼン冗談に聞こえない。
「・・・それってずーっと頭の中で音楽が鳴りっぱなしってこと? それは気が狂いそうだね。 勘弁してほしいかな、 はは」
  と、 思わず尻込みしてしまう私なのだった。
 そこまで話したところで、 周りのシラーっとした目線に気がついた。 みんな、 今、 そんな世間話をするより、 さっさと勝負しろって目で私のこと見てる。 私、 つい、 嬉しくって、 思わず周りに人がいるってことを忘れてた。 人に聞かれたら、 私が義体だってバレちゃうようなこと、 話してないよね。
「ごめん、 茜ちゃん、 今取り込み中なの。 またあとで、 私からかけ直すからね」
  みんなの無言の圧力に負けて、 あわてて、 いったんは電話を切った私だけど、 そこで、 ある考えがひらめいたちゃった。 茜ちゃんはサポートコンピューターを自由に操れるんだ。 私の身体を動かせるくらいだもの。 だったら、 もしかしたら・・・この勝負、 勝てるかもしれない!

「すみません、 ちょっと、 トイレに行ってきます。 私、 緊張しちゃって、 ははは」
  さっきから勝負を待ってるみんなには悪いけど、 ちょっと茜ちゃんと内緒話をすることにした。 ところで、 女子トイレってどこだっけ? 私、 当然のことながら、 トイレなんて行ったことないから場所が分からないんだよね。 ははは。
「ヤギーちゃん、 ここでトイレに行ったことないの?」
  私がまごついていると野中さんが苦笑いしながら、 親切に二階の端にある女子トイレまで連れて行ってくれた。 そして去り際に、 私の肩を軽くたたいて励ましてくれたんだ。
「しろくま便の女性代表として頑張るんだよ。 女を舐めてるやつに女の力を見せつけてやりなさい」
  なんだか山本君のお金以外にも、 いろんなものを背負って闘うことになりそうだ。 ははは。

  トイレのドアを閉めて一人になった私は、 すぐに茜ちゃんに電話した。
「ハイハイお姉ちゃん。 新曲のインストールでしょ?今やるの?」
  茜ちゃん、 とっても嬉しそう。
「ちちち違うの違うの。 茜ちゃん、 あのね。 茜ちゃんの力で、 義体の出力制御のプロテクトの解除ってできるの?」
「ぎたいせいぎょのぷろてくとのかいじょ? ああ、 あれでしょ。よく車を持ち上げたりするときにするやつだ。 できるよ。 そんなの簡単だっけさ」
  茜ちゃんはこともなげに言った。
  私達の義体は本来150馬力くらいの出力はあるんだ。 義体の人が普通に暮らすには、 そんな力、 必要もないんだけど、 なぜそんな出力があるかって言うとさ、 警察とか自衛隊とか宇宙開発事業団に入るときに、 義体に大掛かりな改造をしたり、 換装したりしなくて済むからなんだ。 義体の製造には国からの補助金が出ているのは周知の事実。 国が命を助けてやるんだから、 いざってときは国のお役に立ちなさいってわけ。 だから、 普段生活する分には余計な力が出せないよう出力制御がかかっているんだ。 そして、 出力制御の解除のパスワードなんて、 本当なら義体の使用者当人にだって明かされないもののはず。 だって、 義体の人が勝手にスーパーパワーを出してたら危険でしょ。 でも、 スーパーハッカー西田茜にかかったら、 その程度のパスワードを解くことなんてお茶の子さいさいみたいだね。 だけど、 茜ちゃん、 よく車持ち上げたりする時に使うって、 いつもそんなことしてるのかい!
「じゃあ、 お願い。 今すぐ私の出力制御のプロテクトを解除して」
  今のままじゃ、 私、 多分、 というか間違いなく腕相撲に負ける。 私がいくら強いって言ったって、 せいぜい並みの男性より強い程度。 サブポップばりの腕の太さの猪俣さんには勝てるわけない。 でも、 出力制御が解除されるなら話は別だ。 いくら猪俣さんが腕相撲が強いっていったって、 大型トラックには敵わないでしょ。 義体の出力制御を解除した私なんて、 人間っていうよりもむしろ機械だもん。 力で人間が機械に勝てるわけがないよ。
  ホントはこんなのすごく嫌だよ。 私は人間であって機械じゃないもの。 こんな化け物みたいな力、 出したくない。 それに、 反則だし卑怯だよね。 そんなこと分かってる。 でも負けて10万円取られちゃう山本君のことを考えると他人事には思えない。 やっぱり私のかわいい後輩だの。 山本君、 一生懸命頑張ってるもの。 ちょっと、 馬鹿だけど、 ね。
「前、 お姉ちゃん人のサポートコンピューターを勝手にいじったら駄目だって怒ったっけさ」
「うー、 今日はいいんだ。 今日だけなんだ。 私を助けてよう。 お願いだよう」
「お姉ちゃん、 150馬力なんかになって、 いったい何がしたいの? 自衛隊のサイボーグ部隊にでも入隊するの?」
「う、 腕相撲に勝ちたい・・・」
  仕方ない、 恥ずかしいけど、 正直に答えた・・・。
「腕相撲だってさ。 ぎゃはははははーっ! 腕相撲だって。 ハイ、 国民のみなさん聞いてますかー。 みなさんの血税が補助金としてジャブジャブ投入されてる全身義体の特殊能力を、 この人、 腕相撲なんてくだらないもののために使おうとしてまーす。 ぎゃーははははーっ!」
 茜ちゃん、 笑いすぎ。 でも笑うのも無理ないよ。 私だってくだらないと思うもの。 こんなことに10万円も賭けるなんて、 山本君ってホント馬鹿。 でも、 茜ちゃん、 ずいぶん難しい言葉知ってるね。
「お姉ちゃん、 相変わらず面白いね。 じゃあ、 はじめるよ」
  電話越しにパソコンをたたくパタパタという音がした。
「おねがい」
「ちょっと頭がいずいかもれないけど我慢してね」
「っ!!」
「はい、終わり。 これでお姉ちゃん、 150馬力になったさ」 
  ちょっと、 頭の中にチリっと軽い刺激というか違和感を感じただけ。 なんだかとってもあっけない。 格好いい変身ポーズもないし、 服だって作業服のままだけど、 これで八木橋裕子22歳、 150馬力のスーパー 女子大生に変身ってこと? なんだかゼンゼン実感湧かないんだけど・・・。
  そのときだった。 パキパキってプラスチックが砕ける音がした。 気がついたら私の右手のなかで携帯電話がペッチャンコになっていた。 もともとは、 電子回路のなにかだったんだろう細かい部品が私の手のひらから、パラパラと床にこぼれ落ちていった。 私、普通に携帯電話を握ってただけだよ。なにも力を入れていたわけじゃない。 それで、 携帯電話を握りつぶしちゃうって、いったいどういうこと? でも、私の疑問に答えてくれるはずだった茜ちゃんとは、私が携帯電話を壊しちゃったせいで連絡がとれなくなっちゃったんだ。どうしよう。どうしよう。


  トイレから出るためにドアノブを回す、 そんなの当たり前のことだよね。でも、私がドアノブを握った瞬間、 金属製のドアノブが、 みかんみたいにぐしゃっと潰れちゃったんだ。 そして、 その拍子に、 どこか歪んだのか、 ドアノブ全然回らなくなっちゃって、 あげくポッキリ折れて取れちゃった。
  なんなのこれ! このままトイレに閉じ込められるわけにもいかないから、 自分の力も忘れて、 ちょっと焦ってドアを押した。 そしたらバキって音がして、 ドアが蝶番ごとはずれて前に倒れちゃった!
  私のせいじゃない。 私は、 何もしてないよ。 ただ普通にドアを開けようとしただけなんだよう。 それでこのありさま! 私、 自分が恐くなった。 義体の力に恐くなった。 150馬力っていう力を出すことがどういうことなのか、 甘くみすぎていたかもしれない。 もう勝負に勝つのは分かってる。 いくら強くたって人間が機械の力に適うはずないんだ。 今の私が恐れているのは、 うっかり猪俣さんの手を握りつぶしちゃうこと。 もし、 猪俣さんを怪我させちゃったらどうしよう。 私、 もうここにはいられなくなっちゃうよ。 
  一階に下りた私をみんなの盛大な拍手が迎えてくれた。 本当なら舞台に登場したヒロインみたいな気分が味わえたのかもしれないけれど、 今の私、 とてもそんな気になれない。 みんなは気付かないかもしれないけど、 私はヒロインじゃなくて悪役だ。 それも正々堂々真剣勝負を挑んできた相手を後ろからピストルで撃ち殺すような一番卑怯な悪役なんだ。 でも、 もう後戻りはできない。
「やっと来たか。 逃げ出したかと思ったぜ」
  猪俣さんはやる気満々といった風に指をポキポキならしている。
「さあ、 じゃあヤギー、 位置について」
  はりきって審判を買って出た小林さんに促されて、 再び猪俣さんと机を挟んで 向かい合った。 私は、 なんだか申し訳なくって、 猪俣さんの顔を見れずにうつむいたまんま。 でも、 猪俣さん、 きっと余裕しゃくしゃく、 子ウサギをいたぶるライオンみたいな気持ちで、 私のことを見ているだろう。 この子ウサギとライオンの体重が、 実はほとんど同じくらいってこと、 みんなが知ったらどう思うんだろう。
「用意」
  小林さんが芝居がかったポーズで右手を上げた。
  私の細い棒切れみたいな腕と、 猪俣さんの丸太みたいな腕が組み合う。 猪俣さんはグローブみたいな大きな手で私の手のひらを握った。 けど、 私は手をひらいたまんま。
「どうした、 眼鏡の姐ちゃん。 なんで手を握らないんだ。 それじゃあ力が出ねえだろ。 なぜ、 全力を出さそうとしねえんだ? 全力を出せ、 例え負けるかもしれなくても全力でいくんだ」
「うー、 大丈夫です。 私はこっちのほうが力が出るんです」
  手を握らないほうが力が出るなんて、 そんなことあるんだろうか。 でも、 無理やりにでもごまかすしかない。 猪俣さんの手を握るなんて恐くてできない。 それに、 どうせ猪俣さんの手は私よりずーっと大きいから、握ろうと思ったところでほとんど握ることなんてできない。握らなくてもたいした違いはないよ。
  それにしても、 例え負けたとしても全力を出せなんてことを言うなんて、 猪俣さん、 思ったより悪い人ではないのかもしれない。 そんな人を相手に、 騙すようなまねするなんて、 私は、 なんて卑怯なだろう。 私、 どうすればいいんだろう。
「ヤギー、 頑張れヤギー!!」
  野中さんが叫んだ。
「ヤギーさん、 ヤギーさん、 ヤギーさん、 ヤギーさん」
山本君がうわごとのように、 祈るみたいに私の名前を繰り返し呼んだ。 私も心の中で祈った。 どうか何事もなく終わりますように。
「はじめ!!」
  小林さんの手が勢いよく振り下ろされた。

  小林さんの合図と同時に私は思いっきり鼻息を荒くして、 ううーってうなった。 でも、 それはただ力を入れているふりをしているだけ。 演技してるだけ。 無表情のままあっさり勝ってしまうのはやっぱり不自然だからね。
  猪俣さんはきっとすごく力を入れているつもりなんだろう。 だって、 顔が真っ赤になって、 腕だってびくびく震えているもの。 もしも私が生身の身体だったら、 一瞬で倒されてるよね。 それどころか身体ごとひっくり返されて、 ぶざまに地面に転がってるような気がする。 でも、 今の私は違う。 ほんのちょっと腕に力を入れているだけなのに、 猪俣さんがどんなに頑張ってもびくともしないんだ。 か細い棒切れみたいな腕だけど、 しっかり根を張った大木と同じなんだ。 だって、 今の私は150馬力だもの。
  そんなことする必要もないのに力を入れてるふりなんかして、 そのうえ、 冷静に猪俣さんを観察しているなんて、 私ってなんて嫌な人間なんだろう。 ああ、 今の私は人間じゃないか。 150馬力の化け物か。 ごめんなさい。 猪俣さん、 本当にごめんなさい。 私、 腕相撲しながら申し訳ない気持ちで一杯だった。
  私の細い腕が猪俣さんの太い腕を押す。 机に向かって、 確実に。 怪我をさせないように、 ゆっくりと、 ゆっくりとね。勝負は、本当にあっけなくついた。
「勝者は、 ええ、 ヤギー?」
  小林さん、 驚いて勝ち名乗りを上げる声が裏返っちゃった。 ケチ所長も、 営業の飯田さんも、 事務の鈴木さんも、 みんな目をまんまるにして、 口をあんぐりあけて驚いてる。 まさか私が勝つとは思っていなかったんだろう。
「きゃー、 ヤギー、 すごいよすごいよー」
  石塚さんが私に飛びついた。
  野中さんは
「どうだあ! 女の力を思い知ったか!」
  と自分のことのように得意げ。 ホントは女の力じゃなくて機械の力だけどね。
「十万円十万円十万円十万円」
  山本君は興奮のあまり金額をうわごとのようにつぶやきながら、 意味もなくうろうろ彷徨っている。
「信じられねえ」
  私に負けた猪俣さんは、 自分の腕を見つめながらポツリとつぶやいた。 それは、 そうだろう。 猪俣さんみたいな体格の人が、 私みたいな女の子に腕相撲で負けるなんてことなんて考えられないもの。 私なんかに負けることなんて百に一つもないと思っていたに違いないんだ。 それなのに、 私に負けちゃって、 きっとプライドだってズタズタになっちゃうよね。 私は、 猪俣さんに何か声をかけようとしたけど、 こんなとき何て言ったらいいのか分からなくて、 結局おし黙ったままだった。
  そしたら猪俣さん、 私に向かって、 歯をむき出してニヤっと笑ったんだ。
「信じられねえ。 すごい女の子がいたもんだ。 これだけ簡単にやられると逆にスカッとするわ」
  私、 猪俣さんが、 こんなの認めねえ、 とか言って怒鳴りちらすんだとばかり思っていた。 って言うか、そうされたほうがまだ良かったんだ。 こんな爽やかに負けを認めたら、 私、 自分がますますみじめになっちゃうよう。
「山本、俺、お前に十万円は払わねえよ」
  突然の猪俣さんの言葉に山本君の顔色が変わった。
「そんな、 猪俣さん! 約束が違います!」
  血相を代えて詰め寄る山本君を猪俣さんは手で制した。
「安心しろ。 俺も男だ。 約束は約束だ。 ちゃんと10万円は払う。 但し、 この眼鏡の姐ちゃんにだ」
  突然のことに、 私、 びっくりした。 なんで私なの。 なんで、 なんでだよう。 いきなりそんなこと言われても、 私、 困っちゃうよう。
「はっきりいってこの勝負は俺と姐ちゃんの勝負だ。 俺と山本のじゃねえ。 だから、 十万は姐ちゃんに渡さないと俺の気がすまねえ。 山本は十万円ほしけりゃ、 この眼鏡の姐ちゃんからもらうんだな」
「ヤギーさーん」
  今度は私に泣きついてくる山本君。
「そんな、 私、 十万円なんて、 う、 う、 受け取れません」
  私、 言い切っちゃった。 十万円! 十万円だよ。 猪俣さん、 私があれほど欲しかった十万円をくれるって言ってるんだよ。 正直、 グラっとこなかったって言ったら嘘になる。 ホントは私、 喉から手が出るほど欲しい。 十万あれば藤原と一緒に京都に行って、 あんなことも、 こんなこともできるよね。 アルバイトなんかしないで、 ジャスミンや佐倉井とカラオケに行って楽しく騒げるよね。 でも、 こんな卑怯なやり方で手に入れた十万円に何の価値があるんだろう。 こんな十万円で遊んで、 私、 ホントに楽しいの? そんなはずないよ!
「それに、 もし私が負けたとしても猪俣さん、 山本君からお金を取らなかったと思う。 私、 そんな気がする」
「どうしてそう思うんだ? 俺がそんなにいい奴だってか?」
「うー、 なんとなく、 です」
 そう、 なんとなくだけど、 私そう思ったんだ。 この人、 見かけは恐そうだし、言葉遣いも丁寧ってわけじゃないから誤解されやすいだけで、 根っこはいい人なんじゃないかと思うんだ。 で、 なければ私なんかに腕相撲で負けて、 素直に負けを認めたり、 お金は私に払うって言ったりするだろうか? もし、 私が負けたとしても、 『山本、 ほんの冗談だよ、 おめえ、 本気にしてたのかよ』って笑いながら言ったんじゃないだろうか?
「受け取れよ。 勝負は勝負だ。 姐ちゃんが金を受け取れないっていうなら、 別に姐ちゃんからそのまま山本に渡してやったってかまわねえんだ。 とにかく、 俺はひとまず、 姐ちゃんに渡してえだけなんだから。 くだらねえこだわりかな?」
  猪俣さんは、 財布から一万札を外見に似合わず几帳面に数えて十万円分抜き出すと、 私の目の前に置いた。
  どうしよう。 私がまごついていると、 いままで黙って様子を見ていた野中さんが突然口を開いたんだ。
「私もヤギーちゃんにはお金をもらう権利があると思うな。 でも、 ヤギーちゃん、それじゃあ受け取りづらいんでしょ。 貴女そういう性格だもんね。 それに猪俣さんも、 いくら勝負に負けたっていっても十万円出すのはきついでしょ。 無理しなさんな」
  野中さんはみんなを見回して言葉を続けた。
「この中で誰かヤギーちゃんに助けてもらったことがない人っているの? 少なくとも私はいつも助けてもらってる。 いつも人よりずっと重い家具を一人で運んで頑張っているよね。 現場にヤギーちゃんがいるだけで、 私達、 仕事を早く片付けられるよね。 ヤギーちゃんには人の二倍は働いてもらって、 所長だって人件費が浮いて助かってるでしょ。 引越しレディースサービスだってヤギーちゃんがいるからこそ成り立っているんでしょ? 私達、 みんないつの間にか、 ヤギーちゃんのお世話になっているんだよ」
  みんな、野中さんの話にしきりにうなずいている。 でも、 野中さん、 それは違うんだ。 そんなの当たり前のことなんだ。 だって私は機械の身体で、 どんなに働いたって、 ただ電気を使うだけで身体は疲れやしないんだから。 私が重い荷物をたくさん運ぶなんて、 そんなの当たり前のことなんだ。 みんなが、 自分の身体を使って、 汗を流して一生懸命働いているのに、 私だけ機械の力で楽をしているだけ。 私なんて、 みんなが思ってくれるほどには偉くない。 みんなのほうが、 ずっとすごいよ。
  でも、 そんなこと、 今、 この場で言える訳ない・・・。
  野中さんは、 さらに続けてこんな提案をした。
「だったらこうしましょう。 みんなで、 お金を出して、 それをヤギーちゃんにカンパしよう。 別に大金を出してっていってるわけじゃないの。 少しづつでもこれだけの人がいれば、 結構な金額になるでしょ。 ああ、 いっつも残業代を出してくれない所長は、 申し訳ございませんがなるべく多めにお願い致します」
  所長は苦笑いしながらも、 かまわないって言ってくれた。 いつも残業代を一切出さないことで有名な、 あのケチ所長がだよ。
  小林さんも
「いまのショーの見物料って考えれば安いもんだよ」
  なんて冗談めかして言いながら、 五千円を野中さんに渡した。 それから飯田さんも、 鈴木さんも、 石塚さんも、 みんな・・・。 どうして? どうしてなんだよう。 どうしてそんなことしてくれるんだよう。 私、 分からないよ。 ゼンゼン分からないよ。
「猪俣さんは申し訳ないけど勝負に負けたってことで一万円くらいは出してあげてよ」
  野中さんは、 私の前に置きっぱなしの十万円をつかむと、 一万円だけ抜いて、 残りを猪俣さんに返した。
「それは助かるな。 正直十万円はチトきつかった。 野中のねえさん、 恩にきるぜ」
  猪俣さんは苦笑いしながら、 お金を財布に納める。 みんなが、 どっと笑った。 それから・・・。
「山本君は、 うーん、 山本君から取るのは可哀想ね。 今回は勘弁してあげるわ」
「て、 いうか、 俺十万円・・・」
「あら、 山本君、 何かご不満でも? 山本君なんて一番ヤギーちゃんの世話になりっぱなしなんじゃない?それこそ十万円分くらいは。 デートに遅れそうになってトンパチ(東八軒坊)駅までおんぶして運んでもらったこともあるなんて話してなかったっけ? いいじゃない、 そういった、 今まで受けてきたいろいろな恩を今日返せたと思えば」
  野中さんにそうたしなめられて、 山本君恥ずかしそうな顔をして黙り込んじゃった。 野中さんは、 そうやってみんなからお金を集めた、 財布から出てきたばかりの皺だらけのお金を私の手にぎゅっと押し付けてくれた。 しろくま便で三日間働いてやっともらえるくらいの金額が集まっていた。
「ヤギーちゃん、 今日休憩時間中ずーっと寝ていたよね。 頑張っているのは分かるんだけど、 なんだかちょっと疲れているみたい。 思い切って、 ゆっくり三日間くらい休みなさいよ。 このお金でぱーっと遊んでさ。 いまのままじゃ彼氏とデートする時間も、 友達と遊ぶ時間もないでしょ。 そんなに毎日張り詰めて働いてたら、 なんだか疲れちゃう。 たまにはリフレッシュも必要だと思うな。 ね、 所長、 いいでしょ? 私がその分働くことはかまわないから」
  野中さん、 そう言ってにっこり微笑んだ。 野中さんだけじゃない、 石塚さんも猪俣さんも小林さんも所長も、 他のみんなも。
 私、 友達が、 みんな楽しく遊んでるのに、 どうして私だけが働かなくちゃいけないんだろうって、 ずっと思ってた。 私だって、 カラオケは大好き。 みんなで楽しく遊んで騒ぐのは大好き。 藤原とだって、 ずっとずっと一緒にいたいよ。 でも、 こんな身体のせいで、 いつもお金のことばかり考えてなきゃいけない。 遊ぶことだってあまりできない。 私は世界一の不幸せものなんだってずっと思ってた。 でも違ってた。 一緒に働いている人達が、 こんな暖かい人達で良かった。
  でも、 私、 やっぱりこのお金を受け取ることはできない。 素直に受け取れば、 みんなが喜んでくれるってことも分かってる。 でも、 私には、 このお金を手にする資格がないってことは自分が一番よくわかっているんだ。 このお金を手にするって事は、 自分に嘘をついちゃうことなんだ。 だから、 ごめんなさい。 みんなの気持ちはホントに嬉しかった。 私は不幸せなんかじゃない。 世界一の幸せものかもしれないよ。 それで充分です。 野中さん、 猪俣さん、 みんな、 有難う。 本当に有難う。 
「皆さん、 有難うございます。 でも、 すみません。 やっぱり私、 このお金受け取れません」
  私は結局、 千円とか五千円とか一万円札がまぜこぜになった皺くちゃのお札を机に置いて、 みんなに向かってすみませんって頭を下げようとしたんだ。 そうしたら、 私が手をついた瞬間、 机がぐにゃってあめみたいにひん曲がっちゃった。 そして勢いあまって、 私は転んで、 ひん曲がった机の上に倒れちゃったんだ。 ・・・うかつ。 どうしよう。

  私、 ずいぶんみっともなく転んじゃったから、 普通だったら、 みんな大丈夫なのって心配してくれながらも、 きっと、 あきれてくすくす笑ったりするはずなんだ。 でも今に限っては、 誰もクスリとも笑わない。 私のせいで場が凍っちゃった。 しょうがないから「私って馬鹿ですよね。ははは」って、 自分で自分を笑ってから、 まわりを見回してみたけど、 やっぱり誰も笑わない。 誰も私に声をかけてくれない。 ただ強張った顔で黙って私のことを見つめるだけ。 みんな気がついちゃったんだろうか。 私が機械仕掛けのお人形さんだってこと、 分かっちゃったんだろうか・・・。
  ・・・そうだよね。 大の男の子に腕相撲で勝っちゃう女の子くらいだったら、 まだ可愛げがあったかもしれないよ。 まだね。 でも、 鉄でできた机をぐんにゃりひん曲げちゃうのは、 可愛い女の子には絶対できないよね。 それどころか、 どんなに屈強な男にだってできないよね。 人の皮を被った機械にしかできないことだよね。 私、 何かみんなに向かって言い訳しようとしたんだけど、 やっぱりやめた。 だって、 今更何をどう言いつくろえばいいんだろう。
「姐ちゃん、 大丈夫か」
  ようやく猪俣さんが、 ひっくり返った私に手を差し伸べてくれた。 でも声が擦れてるんだ。 やっと絞り出してるみたいな声なんだよう。 無理して優しくしてくれているんだろうか。
「いいです、 自分で立ち上がれますから」
  私何も考えずに、 差し伸べられた手を見て、 つい反射的にそんな言葉を口にしちゃった。 無意識のうちに猪俣さんの優しさを冷たく拒絶しちゃったんだ。 きっと普通の女の子だったら、 こんなとき素直に男の人の手を借りているんだろう。 でも、 私はこんな身体になってしまってもう長い年月が過ぎてしまった。 優しさを素直に受け止められる身体ではなくなってしまってから、 余りにも時間が経ちすぎていた。 私の身体は機械仕掛けだからとても重いんだ。 だから、 立ち上がるのに人の手を借りることなんてできやしない。 だって、 そんなことしたら私の身体のことばれちゃうもん。 義体になりたてのころそうやって何度かバレそうになってヒヤヒヤして、 そうこうするうちに私は自然に、 今みたいなときに男の人の救いの手を拒絶するようになっちゃったんだ。 私は悲しいよ。 無意識のうちに機械の身体っていうことが頭の中に染めつけられて、 男の人の当たり前の優しささえも反射的に拒絶するようになってしまった自分が悲しい。 それに、 私が猪俣さんの手を握ったら、 猪俣さんの手を潰しちゃうかもしれない。 だって、今の私は150馬力の機械だから。 猪俣さん、 いいんです。 私は貴方を騙した卑怯な機械女なんです。 そんなに優しくしてくれなくてもいいんですよ・・・。
   立ち上がってあらためて机を見る。 真ん中からぐにゃりとくの字に曲がった机は業務用のごっつい鉄製。 これ、 私の仕業なんだ。 冷静に考えて、 人間の力で、 こんなふうに曲げることなんてできっこないよね・・・。 目の前のちょっと前まで机だった鉄の塊を見て、 私は150馬力って力を軽く考えすぎていたことを後悔するばかり。 もう全てが遅いんだけどね。

  みんなが、 恐る恐る私と、 壊れてしまった机の周りに近寄った。
「こ、 この机、 古くなっていたのかもしれないね」
  野中さんがなんだかひどくあわてたように言った。
「そうそう、 古い机だったら、 自然に壊れることだってあるよ」
  と言ったのは石塚さん。 この二人がそんなふうに言ってくれるなんて思ってもみなかった。 だから、ひょっとしてうまくごまかせるかもしれないって一瞬期待したんだけど、 でも、 やっぱり甘くなかった。
「いや、そういう問題じゃないだろ、コレは」
  小林さんはしゃがみこんで、 見事に折れ曲がった机の足をつついた。 他の男の人達も、 私と机を交互に興味深そうに見比べている。 みんなの眼が、 お前がやったんだろって言ってる。 ひょっとしたらそういうつもりはないのかもしれないけど、 私にはそうとしか受け取れない。 やめて、 やめて、 やめてよ、 みんな、 そんな眼で私を見ないでよう。 お願いだよう。
私はみんなの視線に気おされるように後ろに下がった。 気がついたらすぐ後ろが壁だった。
「ひょっとしてヤギーさん・・・」
  山本君が恐る恐る口を開いた。
「実は超能力者だったとか?」
  山本君の間抜けな問いに、 ようやく何人かが軽く笑った。 でも、 私は笑う余裕なんてないし、 山本君の質問ともいえないような冗談じみた問いかけに答えることもできない。 山本君の眼だってまともに見ることができないで、 ただうつむくばかり。 本当に超能力者だったらどんなにいいだろう。 だって、 超能力者だって、 生身の人間だもの。 身体は普通の人と変わらないもの。 でも、 私は・・・。 私は・・・。
「相変わらず馬鹿だなあ。 もっと現実的なことを考えろよ。 例えば——」
「ヤギーちゃんがなんだっていいじゃないか! ヤギーちゃんはヤギーちゃんだ! やめよう、 こんな話つまらないよ! もうやめよう!」
  野中さんが、 叫ぶようにそう言って、 無理やり小林さんの声をさえぎった。
  その時だ。
「痛いっ!」
  いきなり私の右足の付け根からポンって何かが弾けたような音がした。 同時に右足から針で刺されたみたいな鋭い痛みを感じて、私は思わず悲鳴を上げた。 それきり私の右足は力を失って、 バランスを崩してた私は床に倒れこんだ。

”右足駆動モーター損傷”
  大きく地面のタイルを映しこんだ義眼の視界の中に目障りなほど真っ赤な文字が表示される。サポートコンピューターから流れた警告文だ。 起き上がろうとして、 右足が全然動かないことに気がついた。 何が起こったんだよう。 私の右足、 いったいどうしちゃったっていうんだよう。
  それでも、 私は残った左足と両手を使ってなんとか身体を起こそうとしたんだ。 そうしたら、 今度は右手の付け根から、 さっきと同じようなこもった破裂音がして、 右腕に激痛が走った。 作り物の身体のくせに痛覚だけはやけにリアルに身体の中の電線を走って私の脳を苛めるんだ。 やっと上半身だけ起こしたっていうのに、 また私は痛さに呻いて、 下手糞なあやつり人形みたいにぶざまにうつぶせに地面に倒れた。 右腕ももう動かなくなっていた。
”右手駆動モーター損傷””バッテリー残量50%・節電モードに移行””義体体温異常上昇”
 私のサポートコンピューターは容赦のない冷静さで、 私の視界の中に真っ赤な文字を送り込む。 コンピューターからの情報なんだもん、 きっと、 今の私の身体に起こってること、 正確に伝えてくれているんだろう。 でも、 その情報を受け取る私はただの凡人の脳みそなんだよう。 そんなに一度にいろんなこと言われても、 私馬鹿だもん、 何がなんだかわからない。 何をすればいいのか分からないよう。 なんで、 そんな早く節電モードになっちゃうの? 義体体温異常上昇って何なのさっ! 私の身体どうなっちゃうの。 もう、 どうしていいのか全然分からないよう。 きっと、 慣れない150馬力なんか出したからだ。 普段の何十倍もの出力を無理やり出したから、 身体中がおかしくなっちゃったんだ。 こんなことなら、 義体の説明書、 嫌がらないでよく読んでおけばよかった。 こんな身体のくせにメカに弱い私だから、 いざってときどうすればいいのか頭が混乱するだけで、 さっぱり分からないよ。 どうしよう。 このまま身体が壊れて、 私死んじゃうんだろうか。 嫌だ、 嫌だ。 私死にたくない! 藤原、 助けて! 松原さん、 助けて! とにかく病院に行かなきゃ。 とにかく病院に・・・。
まだ動く左足と左手で、 なんとか壁にもたれるように立ち上がった私。 もうみんなにどう思われているか、 どう見られているかなんてことを気にしてなんかいられない。とにかく外に出て病院に行く、 頭の中はそればっかりだった。 こんな状態で外に出てもそのあと府南病院までどうやって行くつもりだったんだろうね。 馬鹿だよね、 私って。 でも右足も右腕も動かない不自由な身体で気ばかり焦っているものだから、 びっこで二三歩も進まないうちに、 また前のめりに倒れちゃったんだ。
  私はもう恥も外聞もなく、 かろうじて動く左手と左足だけで、 必死に事務所の出口に向かって芋虫みたいに這いずった。 着ている作業服も顔も髪の毛だって、 きっと床に落ちてる砂埃で、 汚れちゃっただろう。 でもその時は、 必死だったから薄汚れてみっともないなんて気にしている余裕はなかったんだ。
「ヤギーちゃん! 大丈夫? 大丈夫なの?」
  私の様子を見かねた野中さんが、 血相をかえて駆け寄って、 私の身体を抱き起こそうとしてくれた。 だけど、 私の身体に触れたとたんびくっとして手を引っ込めた。 自分じゃよく分からないけど、 普段の何十倍もの力を出しているんだもの、 きっと排熱量だって半端じゃないんだろう。 義体体温異常上昇っていうからには、 人間だったらとてもありえないような高熱を出しちゃってるに違いないんだ。
「ヤギーちゃん、 すっごい熱だよ。 どうしたの。 ヤギーちゃん、 どうしちゃったの?」
「右手と右足が動かなくなっちゃったんだよう。 義体の体温が異常に上がってるんだよう。 もう私何がなんだかわからないよ。 私、 早く病院に行かなきゃ」
  あわてすぎて、 思わず義体の体温なんてまずい単語を口走ってしまう私。
「ヤギーちゃん、 病院ってどこに行けばいいの? 普通の病院じゃ駄目なんでしょ」
  普通の病院じゃ駄目、 そういったときの野中さん、 とても悲しそうな顔だった。 きっと野中さんは私の正体を薄々気がついてはいたんだ。 そして多分石塚さんも。 でも今まで黙って気がつかないふりをしてくれてたんだろう。 さっき二人が私を庇ってくれたのはそういうことだったんだね。
「ふ、 府南病院です。 あの、 野中さん、 ひょっとして私の身体のこと知ってたの?」
「ふふふ、 せっかくの美人さんも泥だらけじゃ台無しだよ。 府南病院だね。 よし、 行くよ! ヤギーちゃん安心して。 私がヤギーちゃんを病院に連れて行ってあげる。 すぐ車を出すからね!」
  野中さんは私の問いかけには答えるかわりに、 砂埃で汚れた私の顔をハンカチで拭いて、 ずり落ちちゃった眼鏡もちゃんともとの位置に戻してくれて、 子供をあやすみたいに優しくそう言ってくれた。 それではっきり分かったよ。 野中さんは、 私のこと知っていた。 でも、 いままで全然知らない振りをして普通に接してくれてたんだね。 有難う。 本当に有難う。
「俺が車まで運ぶ」
  いままでずーっと黙って事の成り行きを見守っていた猪俣さんが、 突然のっそりと近寄って、 私の身体を持ち上げようとして、 あまりの重さに顔をしかめた。 それでも、 さすがは猪俣さん、 結局は、 あの丸太みたいな太い両腕で私を抱え上げちゃったんだ。
「姐ちゃん、 ずいぶん重たいんだな」
「ごめんなさい・・・」
「いちいち謝らなくてもいい。 つらいか? 頑張れよ」
   猪俣さんは、 両手に抱えた私を見下ろしながら、 そう言って私のこと励ましてくれたんだ。 つらいのは私じゃない。 私は右手と右足が動かないだけで、 身体の痛みなんかとっくに消えてる。 本当につらいのは120kgの私の重い身体を両手で抱えている猪俣さんじゃないか。 私はあなたを騙したんだよう。 なのに、 なんでそんなに優しいんだよう。 私困っちゃうよ。
「猪俣さんごめん。 ヤギーちゃんを私のトラックに運んで! 山本君もぼおっと突っ立ってないで猪俣さんを手伝う!」
  野中さんの叱咤に山本君、 弾かれたように動き出して、 猪俣さんを手伝って私を支える。 コラ、 山本、 それはいいんだけど、 どさくさにまぎれて変なところは触るなよ。 いくら機械の身体だって、 やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしいんだからね。
「ヤギー、 頑張って。 大丈夫だよ。 病院に行けば、 きっとすぐよくなるよ」
  石塚さんは、 私が猪俣さんと山本君に抱えられて、 しろくまトラックに運ばれる間中、 私の動かなくなった右手を握り締めて、 ずーっと私を励まし続けてくれた。 石塚さんも、 私のこと知っていたんだよね。 これからも、 今までどおり、 恋の悩み相談とかできるよね。 
  私は、 トラックの後部座席に運びこまれて寝かさせられた。 山本君は私が寝たおかげで座るスペースがなくなっちゃったから、 前の座席と後ろの座席の間にしゃがみこんだ。 前の補助席には巨漢の猪俣さんが陣取った。
  「さあ、 思いっきり飛ばすよ! みんな、 しっかりつかまってるんだよ」
  野中さんは思い切り良くドアをしめると、 いつものように威勢よく腕まくりをしてから、 ハンドルを握り締めた。 そしてアクセルを勢いよく踏み込んだんだ。

「ヤギーちゃん、 具合はどうなの」
  トラックが高速道路に入って、 ようやく一息ついた野中さんが、私に言った。 もちろん前を見ながら、 だけどね。
「右腕も右足も壊れちゃったから全然動かないけど、 痛みはもうないです。 どうせ痛みなんて一瞬でひいちゃう、 にせものの痛みですから。 身体も安静にしていれば、 これ以上体温が上がることはないみたいです」
「そう、 良かった」
  そう、 壊れた右手と右足は動かないままだけど、 トラックの後ろの座席で横になって身体を動かさないでじいっとしていれば、 もうさっきみたいには体温が上がらないことに気がついて、 私はちょっとほっとしたんだ。 無理に身体に力を入れずにじーっとしていれば、 今より義体の状態が悪化することはなさそう。 つまり力の加減をうまくコントロールする術さえ知っておけば、 こんな馬鹿げた怪我は避けられたんだろう。 きっと 、茜ちゃんならそのへんのところは上手くやれてるはずなんだ。 でも、 150馬力の身体を生まれて初めて体験する私に、 力の加減をコントロールすることはやっぱり無茶な話だよね。 で、 常に身体に負荷がかかりっぱなしになってこんなことになってしまったんだろう。 ああ、 馬鹿だなあ、 私って。
 そうやって、 気持ちが落ち着いてくると、 今度は自分の身体のことが、 みんなにバレちゃったっていう別の恐怖が心の奥底から湧き上がって来た。 もうすでに知っていたらしい野中さんや石塚さんは別として、 私の身体が機械ってことがバレて、 それでも他のみんなが今までと同じように私に接してくれるなんて、 とても考えられない。 機械女だって思われながら、 みんなの好奇の目線を浴びながら働くことなんて私にはとても耐えられそうにないよ。 でも、 今日のこれまでの私の不自然な行動とか言動を考えれば、 もうごまかすことのできるレベルなんてとっくに越えちゃっているのは明らかなんだ。 何も言わずに曖昧にごまかして、 後で人からひそひそ後ろ指を差されながら働くよりも、 ここで自分の口から堂々と告白して、 もう二度としろくま便には行かない、 みんなには今後一切会わない。 そうしよう。 そうしたほうがいいんだ。 私は覚悟を決めた。 お別れです。 今まで本当に有難う。
「もうみんな、 私の身体のこと分かっちゃいましたよね?」
  みんな何も答えない。 一様に黙り込んだまんま、 車内にはトラックのエンジンの音が空しく響くだけ。 みんな気を遣ってるつもりなのかもしれないけど、 でも、 何も答えてくれないってことは分かっちゃったって言ってることと同じなんだよ。
「私の身体はみんなとは違うんだ。 外見は同じに見えるかもしれないけど、 私の身体は全部機械なんです。 機械仕掛けのお人形さんなんですよ。 だから、 どんなに働いたって疲れることなんかないし、 猪俣さんに腕相撲で勝てたのだってそのせいなんです」
 こうやって告白するのは何度目だろう。 今まで、 身体のこと隠していて、 でもそれがばれて、 自分で自分の事をこんなふうに言わなければならないのは、 本当につらいことだ。 覚悟は決めたって言っても、 何度やっても慣れそうにないよ。 ホント。
「機械仕掛けのお人形さんって、 ヤギーさんロボットだったんだ。 だから、 いつも一人で重いものを持ち運べるし、 どんなに運動しても疲れなかったんだ。 俺のこと、 トンパチまで背負って走っても平気だったんだ」
  山本君だけは、 本当に何も気がついていなかったのかなあ、 今はじめて気がついたっていうふうに、 私の顔をまじまじと見て、 そんなこと言うんだ。 しかも言うにことかいて、 私のことロボット呼ばわりかい。 悪気なんて全然ないから憎めないんだけどさ、 ホントに馬鹿だよね。 コイツ。
「違うよ、 山本君。 私はロボットなんかじゃない! ロボットなんかと一緒にしないでよう。 身体は機械かもしれないけど、 それでも私、 やっぱり人間なんだよう。 八木橋裕子っていう女なんだよう。 戸籍だってちゃんとあるんだからね」
 もう今更、 プライドも何もないんだけど、 ロボットと間違えられるのだけは嫌だったから、 私、 とても悲しくなった。 でも、 よくよく考えたら山本君が勘違いするのも無理はないよ。 いくら私はロボットと違って脳みそがついてるっていったって、 そんなの自分だけが知っていることで、 私の外見に使われている技術は基本的にはロボットと一緒なんだもの。 それに最近は人工知能も発達しているから、 ロボットの中にはほとんど人間と変わらない反応をするやつもあるっていうし。 どっちかっていうと暗いイメージが先行して、 触れてはいけないもの扱いされているサイボーグと違って、 ロボットは明るい話題と結びつきやすいし、 マスコミもさかんに取り上げるし、 結構いろいろなところに進出してきているから、 全身義体のサイボーグよりずーっとメジャーな存在だよね。 義体メーカーのギガテックスだって、 世間的には義体メーカーっていうよりロボットメーカーとしての認知度のほうが高いくらいだしね。
「全身義体のサイボーグってえやつだな。 そういう人もいるってことは知ってたが、 実際に会ったのはお姐ちゃんがはじめてだ。 俺は普通の女の子に腕相撲で負けたんだと思って、 ちょっとショックだったんだが、 それを聞いて安心した」
  猪俣さんは驚くよりむしろ感心しているようだ。 猪俣さんにとっては自分を力で負かす女の子はちょっと興味深い存在なのかもしれない。 でも、 私は化け物だってはっきり言われているみたいで、やっぱりつらい。 猪俣さんが、 そんなつもりで言ってるわけじゃないって信じていてもやっぱり悲しい。 改めて自分が、 人間からは遠くかけ離れた存在みたいに思えてくる。 それで、 ついやけになって、 言わなくてもいいことまで言っちゃうんだ。
「そうですよね・・・。 私は普通の女の子じゃないですよね・・・。 私の身体で人間の部分は脳みそだけで、 他は全部機械ですもん。 手も足も身体も頭も髪の毛もなにからなにまでぜーんぶ作り物だもん。 身体だけじゃないです。 こうやってみんなに話す私の声だって作り物だし、 私の眼に映る風景だって、 私が聴く音だって全部作り物。 コンピューターが作ってるものなんです。 こんな機械人間なんて滅多にいないですよね」
「すまん、 ごめんな。 もっと、 お姐ちゃんの気持ちを考えてものをいうべきだった」
  猪俣さんは優しい人だから、 私の気持ちを察して黙り込んじゃった。 私の言葉は自分を傷つけるばかりでなく、 猪俣さんまで傷つけちゃった。 ごめんなさい。 悪いのは私なのに。 猪俣さんを騙していたのは私なのに。
「いいえ、 猪俣さん。 私のほうこそ謝らなくちゃいけないんです。 私、 今日の勝負、 インチキしました。 山本君が賭けに負けたら可哀想だからって、 義体の出力を悪いことをして限界まで上げたんです。 そんなことしたら私が勝つに決まってますよね。 猪俣さんは自分の身体一つで勝負を挑んだのに、 私ってなんて卑怯だったんだろう。 だからバチが当たったんだと思います。 無理やりに、 普段出さない力を出したから、 きっと身体のあちこちに無理がかかってこんなことになっちゃったに違いないんです。 自業自得ですよね。 それなのに、 私が悪いだけなのに、 猪俣さんや野中さんや山本君までこんなことに付き合わせてしまって、 本当に申し訳ないです。 ごめんなさい、 みんなごめんなさい」
「そんな、 そんな、 そんな。 ヤギーさん。 ヤギーさんがこんなことになっちゃったのは俺のせいじゃないですか。 俺が猪俣さんと腕相撲で賭けをしたからじゃないですか。 俺が負けたら可哀想だからって、 ヤギーさんを無理させちゃったんじゃないですか。 なんで、 ヤギーさんが謝るんだ。 悪いのは俺だ。 これで、 ヤギーさんに何かあったら、 俺、 どうしたらいいんだよ」
  山本君、 泣いてるの? 男がそんな簡単に泣いていいの? それも私なんかのために。 こんな機械女のために。 あきれたよ。 馬鹿だね。 本当に馬鹿だね・・・。 だから、 私は山本君を安心させるために笑ってあげた。 私はどんなに悲しくても涙なんか流さず笑っていられるから。
「ははは、 山本君、 私の身体の事を心配してくれてるの。 なら大丈夫だよ。 私の身体なんて壊れた部品を取り替えればすぐ元通りになるんだから。 それが、 機械仕掛けの身体の便利なところだよ。 はは。 それに、 義体の出力を上げたのだって、 私が自分で勝手にやったことだから山本君が負い目を感じることなんてないんだよう。 なんか私、 自分と山本君がだぶっちゃってさ、 山本君も、 私と同じで、 こんな夏休みでもバイト三昧。 他のみんなは遊んでるっていうのにね。 だから他人事に思えなくてさ、 つい助けたくなっちゃったんだ。 私が負けたら山本君が十万円とられるって知っちゃったら、 どうしても腕相撲で負けたくなかったんだ。 馬鹿だよね、 私って。 ははは」
「ヤギーさんは馬鹿じゃないよ。 優しすぎるんだよ。 どうして俺なんかのために、 俺なんかのために」
「ははは、 私のこと優しいなんて言ってくれるんだ。 いっつもあんたのこと苛めてたような気がするけど。 嘘でも嬉しいよ。 でもさ、 山本君、 もう私の身体が普通の人と違う機械ってわかっちゃったしさ、 今までみたいに大学の先輩とは思ってくれないよね。 薄気味悪い機械女ってことになっちゃうよね、 きっと。 これは、 もう絶対そうなんだ。 だから、 私達、 もう会わないほうがいいんだよ。 私はしろくま便に行かないほうがいいんだ。 そのほうがお互いにとっていいんだよ」
  野中さんはもちろんだけど、 猪俣さんも山本君も、 とっても優しくて暖かい人達なんだと思う。 だけど、 私は恐かった。 みんなの優しさを信じて裏切られることが恐くて、 優しさに素直に身をゆだねることができない臆病者なんだ。 だって、 今まで人を信じて、 裏切られる、 そんな思いを度々繰り返してきたから、 だから、 こんなときでも、 つい思ってもいないようなことを口走ってつまらない意地を張っちゃうんだ。 本当はみんなを信じてたいくせに。 こんなこと言っても、 私も、 周りの人もみんな傷つくだけなのに・・・。 私は馬鹿だ。 馬鹿で、 ひねくれ者で、 強情っぱりだよ。
「ヤギーさん・・・ヤギーさんのこと薄気味悪いだなんてなんて、 そんな・・・。 もう来ないだなんて、 そんな・・・」
  ほら、 山本君を傷つけた。
「猪俣さんも本当のこと言ってくれてかまわないよ。 私なんて、 半分死んだ亡霊みたいなものなんだ。 ほとんど死んじゃって、 魂だけの存在になっちゃってるくせに、 機械の力を借りて未練たらしくいつまでもこの世にしがみついてるだけだもん。 別に気味悪がってくれてもかまわないよ。 もう慣れっこだからさ。 はは」
「よせ。 そんなふうに自分を傷つけるのは、 やめたほうがいい・・・」
  ほら猪俣さんも傷つけた。
 いいんだ、 これで、 いいんだよ。 あとでみんなに裏切られて死にたくなるより、 ここで別れてもう二度と会わないほうが私は楽なんだ。 これでいいんだ。 本当に。 ホントに。 ホントかな?

「ヤギーさんって彼氏がいるんですよね。 よく休憩中に彼氏の話をしてくれますよね、 そりゃあもう、 うざいくらいに」
  唐突に山本君、 そんなこと言い出すものだから、 私びっくりした。 藪から棒になんなのさ。
「う、 うざくて悪かったねえ。 な、 なんでいきなりそんな話するんだよう」
「俺、 その彼氏が羨ましいよ。 ヤギーさんの彼氏は幸せものですよね、 きっと」
「な、 な、 な、 いきなり何言うんだよう。 山本君、 あんた、 まさか義体フェチなんじゃないの?」
  私が機械の身体だってことを知っちゃったくせに、 私の彼氏が羨ましいってどういうこと? 彼氏が可哀想なら分かるけどさ。 山本君が、 まさか私に好意を抱いているなんて思いもよらなかったから、 私、 山本君って義体フェチなんじゃないかって思っちゃったよ。 どうも、 お相手が機械の身体だっていうだけで興奮する義体フェチって人種もこの世の中にいるらしい。 かくいう私も昔、 そんな手合いに引っかかって酷い目にあったことがあった。 思い出したくないから詳しくは言わないけどね。 だから山本君もご同類じゃないかって、 つい疑っちゃったんだ。 でも、 山本君、 そんな私の言葉なんか耳に入っていなかったみたいに、 黙りこくっているだけ。 そして、 時折、 何かを言おうとしては、 思い悩んだように頭をかかえてまた黙り込んじゃう。 山本君、 一体何を話そうとしているの? 何を迷っているの?
  ようやく思いつめたように口を開いて、 うつむきながらもポツリポツリと話しはじめた山本君の言葉に、 私はびっくりした。
「俺、 今、 ヤギーさんがもうしろくま便に来ないってなんて言ってショックなんです。 だって俺はまだヤギーさんに会いたいもの。 ヤギーさんの元気な姿がみたくて、 ヤギーさんと楽しく話がしたいから、 今までこのアルバイトを頑張ってこれたんだ。 あの、 俺、 ヤギーさんのことが好きなんです。 ヤギーさんには彼氏がいて、 俺のことはただの後輩としか思っていないってこともよく分かっています。 俺のこといろいろ優しくしてくれたり、 何かと面倒を見てくれたりするのも、 同じ大学の後輩として、 なんでしょ。 でも、 そんなこと分かってるけど、 それでもやっぱり俺はヤギーさんのことが好きなんです。 ヤギーさんはとっても魅力的な人だと思います。 先輩として、 だけでなく人間として、 女性としてもです。 別に、 ヤギーさんがどんな身体だからとか、 そういうことは関係ないんです。 だって俺がすきなのはヤギーさんの身体じゃなくて心だから。 優しくて暖かいヤギーさんの心が好きだから・・・」
  そこまで一息で言ったところで、 照れ隠しをするみたいに付け加えた。
「やべー、 どうしよう。 俺、 告っちゃったよ。 すげー恥ずかしいなあ、 やっぱ。 でも、 俺の言ってることは俺の正直な気持ちですよ」
  そう言いながら、 山本君は真っ赤な顔をして、 照れくさそうに自分の頭をポリポリ掻くんだ。
「や、 や、 山本君。 いきなり何を言い出すんだよう。 私が好きだって? 私なんてそんな山本君が思ってるみたいに立派な人間じゃないんだよう。 前の山本君の彼女みたいに色白で小柄で可愛らしい女の子じゃないんだ。 私は・・・、私は・・・」
 機械の身体のお人形さんなんだって言おうとしたんだけど、 後の言葉が続かなかった。 思っても見なかった人から突然告白されて、 私、 すごく混乱してるんだ。 頭がくらくらして眩暈がした。 もちろん、 私は藤原のことが大好きで藤原のことを裏切る気もないけれど、 それでも男の人に告白されたっていうことで、 子宮も卵巣もない女性らしさのかけらもない機械の身体のくせに、 女としての本能が、 私に残された女性としての心が告白されたことを喜んでいる。 うきうきしているんだよ。 山本君は、 私のことが好きだって言ってくれた。 全てを失った私にたった一つだけ残された、 私の人間として心が好きだって言ってくれたんだ。 山本君。 私、 山本君の言葉を信じていいの? 私を人間ってみてくれるの? でも、 私、 恐いよ。 山本君の言葉を信じるのはやっぱり恐いよ。
「別に俺の告白に答えなくてもいいですよ。 結果は分かってるし、 答えを求めているわけじゃありませんから。 でも、 ヤギーさんが悲しむのは、 俺にとっても、 とても悲しいことなんです。 誰だって好きな人が悲しんでいたら、 悲しくなりますよね。 ただ、 そのことだけ分かって欲しくて言ったんです」
  私が言葉を続けらずに黙りこくってしまったら、 山本君は静かに、 優しくそう言ってくれたんだ。 なんで、 なんで私なんかが好きなんだよう。 そんなこと言われても、 私、 困っちゃうよう。
「これは面白いことを聞いちまったな」
  猪俣さんが、 後ろを振り向いてニヤっと歯をむき出した。
「いっ、 猪俣さん、 ここだけの話ですよ。 みんなには内緒ですよ」
  山本君はひどくあわてて、 猪俣さんに言う。 今更、 こんな人前で告白したのが恥ずかしくなっちゃったんだろう。 ハンドルを握っていた野中さんがくすりと笑った。
「安心しろ、 他の連中には言わねえよ。 だって、 俺もお姐ちゃんに惚れちまったんだからなあ」
  猪俣さんはそういって口を大きく開けて、 猪俣さんらしく豪快に笑うんだ。
  猪俣さんまで何を言いだすんだよ。 みんなおかしいよ。 私は人形なんだ。 機械女なんだよ。 目を覚ましてよ。 私のことが好きなんて、 そんなことあるわけないんだ。 一時の気の迷いなんだよ。 どうせ。
「ずるいよ・・・」
  そう、 みんなずるいよ。 そんなこと言って、 私を期待させて、 いつも裏切るじゃないか。 一時、 高揚した気持ちで勢いにまかせて言った言葉で私を迷わせないでよ。 私、 そんな、 真剣な、 優しい、 真摯な言葉を聞いたらみんなの言う事信じちゃうじゃないか・・・。 私はもう辛い思いをするのは嫌なんだ。 だから、 お願いだから私を期待させないでよ。
「みんなずるいよ。 みんな、 とても優しいよ。 なんで、 そんなに優しいんだよ。 私、 そんなふうに優しくされたら困っちゃうじゃないか。 みんなのこと信じちゃうじゃないか。 今みんなが言ったこと、 本気にしちゃうじゃないかよう。 ねえ、 山本君、 私を見てよ。 山本君が見ている私は、 私の幻なんだよ。 本当の私は、 ただの脳みその塊、 それが分かってるの? それを承知の上で言ってくれてるの? ほら、 見てよう」
  私は左手で腰のカムフラージュシールを無理やり剥がして、 内臓されているコンセントプラグをずるずる引き出した。 そして、 プラグを山本君の鼻先につきつけたんだ。
「これ、 なんだか分かる。 コンセントだからっ! 私の身体は電気で動いてるんだからっ! 可笑しいでしょ。 絶対ひいちゃうよね。 こんな機械仕掛けの身体なんてさ。 薄気味悪いでしょ。 山本君も、 猪俣さんも、 私のことが好き、 私の心が好きって言ってくれて、 私とても嬉しかったよ。 例え嘘でも、 社交辞令でも私は嬉しかった。 でも、 目を覚ましてよう。 外見はこんなふうに普通の人間そっくりなんだけど一皮むけば醜い機械の固まりなんだから」
  私、 そうして自分の機械の体を晒せば山本君も目が覚めると思ったんだ。 でも、 山本君は私がどんなに嫌われよう、 嫌われようって仕向けても、 全然あきらめてくれないんだ。 私の事、 嫌ってくれないんだよう。
「俺は、 嘘なんて言ってません! ヤギーさん、 なんで俺の言うことを信じてくれないんだ! ヤギーさんが別に俺のことが好きじゃなくたってかまわない。 そんなことは、 分かってるし、 どうでもいいんだ。 でも、 何で俺の言うことを嘘だって決め付けるんですか? どうして俺の言うことを信じてくれないんですか? どうして、 そんなふうに自分を傷つけなきゃいけないんですか?」
   山本君は鼻先にちらつかせたコンセントを叩き落して、 私の肩を掴んで、 私の目をじいっと見て、 そして、 そう叫びながら泣いたんだ。 男の癖に、 本当に泣き虫だよね。 山本君は。 でも、 声を抑えて泣いている山本君を私は笑えなかった。 私には山本君を笑う資格なんてこれっぽっちもないんだ。 山本君は本気なんだ。 そして、 自分のつまらない殻を捨てて、 捨て身で私を励ましてくれている。 それこそ恥も外聞もなく。 それにひきかえ、 私は一体何だろう。 他人を信じず、 自分も信じず、自分の心に嘘をついてまで私が守ろうとしているものって一体なんなんだろう? それにどんな価値があるというのだろう。 私は目の前の山本君に較べて自分がひどくちっぽけな人間になったように感じた。

「ヤギーちゃん、 いい加減にしなさいっ!」
  トラックのハンドルを握ったまま何も口を挟まないで、 今まで私と山本君や猪俣さんとのやり取りに、 じぃーっと耳を傾けていた、野中さんが突然怒りだした。 普段の野中さんからは想像もつかないくらい恐い声だったから、 私は思わずびくっと身体を強張らせた。
「誰が、 いつ貴女のことを薄気味悪いなんていった? 山本君も猪俣さんも、 そんなこと言ってないでしょ。 自分を卑下するような言葉はヤギーちゃんの口からは聞きたくない。 確かにヤギーちゃんの身体はヤギーちゃんの言うように機械かもしれないけれど、 私は、 そんなこと全然気にしていない! 山本君も猪俣さんも、 そんなこと全然気にしていないじゃない。 私にとってのヤギーちゃんは、 ちょっと意地っ張りなところもあるけれど、 頑張り屋の可愛い子だよ。 まかされた仕事は一生懸命こなす責任感の強い子だよ。 いつも明るく元気な子だよ。 私はいつもそういうヤギーちゃんを見てきたんだ。 そしてこれからも見たいと思ってる。 山本君だって、 猪俣さんだって、 そういうヤギーちゃんが好きなんだよ。 自分を卑下するヤギーちゃんは本当のヤギーちゃんじゃない。 私はそんなヤギーちゃんは見たくない!」
「でも、 でも私はやっぱり機械の身体だから。 みんなとは違うから・・・」
「うるさいっ! 卑下するなって言ってんだろうが!」
  野中さんは運転中だから、 ハンドルを握って前を向いたまま。 でも、 私は面と向かって怒鳴られたみたいな有無を言わせぬ迫力を野中さんから感じて、あわてて言葉を飲み込んだ。 小林さんが、 野中さんは昔は男も震え上がったようなヤンキー娘だったんだって話してたことがあったけど、 やっぱりその噂本当だったんだね。
「ヤギーちゃん、 ごめんね。 でもね、 これからする私の話を聞いて欲しいんだ。 そしてよく考えてほしいの」
   すぐにいつもの優しい野中さんのじゃべり方に戻った。 そして静かに話し始めたんだ。 自分のこと、 昔のことを。
「ヤギーちゃん、 私ね、 小さい頃弟がいたの。 弟は生まれた時から身体に重い障害があって、 普通の子供みたいに自由に身体を動かすことができなかったの。 ずーっと寝たきりだったのよね。 だから、 お医者さんに勧められるままに義体化したんだ。 親としては辛い決断だったかもしれないけれど、 このまま一生寝たきりですごすかもしれない、 それだっていつまで生きられるか分からない、 そんな一生よりはずっといいと思ったんだろうね。 私は素直に嬉しかった。 まさか、弟と駆けっこしたり、 喧嘩したりできる日が来るなんて思ってもいなかったからね。 弟と二人で日が暮れるまで遊んで、 夕食までに帰らなくって親に叱られて、 それでも毎日が楽しかった。 弟と遊べることが楽しかった。 弟の身体は機械かもしれないけど、 そんなこと全然思わなかったよ。 だってこの世でたった一人の私の弟だもの。 どうしてそんなことが思えると思う?」
  野中さんは、 そこまで一気にしゃべり終えると深いため息をついたんだ。 野中さんにそんな過去があるなんて、 今まで全然知らなかった。 そうか、 野中さん、 弟が義体だったから、 ケアサポーターでもない普通の人なのに私の行動を見て私が義体だって気付いたんだね。 そして、 気付いても、 気が付かないふりをしてごく普通に接してくれたんだね。
  野中さんは淡々と言葉を続ける。
「でもね、 そんな日も長くは続かなかった。 ある日、 弟は死んじゃったのよね。 生命維持装置の故障だって。 ついさっきまで元気にしていたのに、 本当にあっけなく死んじゃったんだ。 昔の義体は信頼性が低かったのかもしれないね。 そういったことがあった後で、 イソジマ電工、 イソジマ電工って知ってる?」
「は、 はい、 私の身体はイソジマ電工製ですから」
「そう、 じゃあ、 丁度よかった。 そのイソジマ電工の技術者の人だろうね、 毎日のようにウチに線香を上げに来ていた。 弟を助けられなくて申し訳ない。 今後、 同じようなことを二度と繰り返さないって言って泣いてたんだ。 その時はこのおじさんなんでこんなことするんだろうって思ったんだよ。 今更おじさんが来て、 線香を上げて、 いくら泣いたところで弟の命は戻ってこないじゃないかって思って腹をたててさえいたんだ。 子供って残酷だよね。 でも、 今、 こうしてヤギーちゃんが、 たとえ機械の身体だったとしても、 毎日明るく元気に働いているのを見てると、 今更だけど、 イソジマ電工のその技術者が泣きながら言った誓いの言葉は嘘じゃなかったんだなって思えるの。 私の弟の死や、 他のいろいろな悲しみを乗り越えて技術が進歩して、 助からないはずの命が助かって、 そして今ヤギーちゃんがここにいるんだもの。 だから弟の死は決して無駄じゃなかった。 弟の人生は短かったかもしれないけど、 それはそれで価値があるものだったんじゃないかって今は思えるんだ。 だから私はあなたに自分のことを亡霊みたいなものだとか、 魂だけになってるくせに未練たらしくいつまでもこの世にしがみつているとか、 そんなふうに卑下してほしくないんだ。 そんなこと言ったら弟が救われなくなっちゃうよ。 私は、 明るく元気なヤギーちゃんが見たいんだ。 ヤギーちゃんはちゃんとこうして立派に力強く生きてるじゃないか」
  野中さんは言った。 私を励ますように、 力強く! それで分かったよ。 私の言葉は自分自身や山本君や猪俣さんを傷つけていただけじゃない。 野中さんまで傷つけて、 野中さんの死んじゃった弟さんを悲しませて、 イソジマの技術者さんの誇りまで踏みにじっていたんだ。 私が今生きているのは当然の権利じゃない。 私がこんな身体になっても普通に暮らせるのは、 義体にかかわった全ての人達の想いがあったからこそ、 もう二度と同じ悲劇を繰り返さないというみんなの誓いがあったからこそ、 なんだ。 ただ普通に生きていられる、 それだけでも充分素晴らしいことなんだよ。 生きていたからこそ、 藤原と出会えて未来に希望がもてるようになった。 これからも生きていれば、 たくさんの素晴らしい出会いがあるかもしれない。 でも、 自分が傷つくことばかり恐れていたら、 そんな素晴らしい出会いも台無しにしちゃうかもしれないんだ。 せっかくみんなが私のために命をくれたっていうのに、 そんなことばかり考えていたら勿体無いよ。 もちろん、 私のことをただの機械だって思う人もいるかもしれない。 でも、 いいんだ。 そう思いたい人には思わせておけばいい。 だって、 私には私を人間だって認めてくれるたくさんの人がいるってことが分かったから。 藤原がいて野中さんがいて、 タマちゃんだって松原さんだっているじゃないか。 山本君も猪俣さんも私の身体のことを知っているのもかかわらず、 私のことが好きだと言ってくれた、 私の心が好きだと言ってくれたじゃないか。 みんなが私に勇気をくれんだ。 だからもう恐くなんかない。 思い切って今までどおり働いてみよう。 そうしたら、 私の中で何かが変わるかもしれない。
   藤原はいつも言っている。 世の中そんなに悪いやつばかりじゃないって。 私、 今まで藤原の言葉、 半信半疑だったけど、 今初めて藤原の言葉を信じて見ようって思ったんだ。
「ヤギーちゃんはまだ学生だし、 アルバイトだからね。 そりゃあ、 いつかはうちには来なくなるよね。 だから、 いつかお別れになるのは仕方がないけれど、 でもどうせ別れるなら、 こんな形ではなくて、 ちゃんと笑顔でお別れしたい。 私はそう思うよ」
  野中さんは最後にそう言ってにっこり笑った。
  野中さん、 有難う。 私もそう思います。 だから私は精一杯の笑顔で答えたんだ。
「はいっ! 分かりました。 私、これからもしろくま便にお世話になりますっ!」

  私、 安心しちゃったのかなあ。 そう言ったとたん、 寝不足の頭に睡魔がどっと襲い掛かってきて、 いつの間にか眠りこけちゃった。 次に目が覚めたら、 府南病院の見慣れた病院のベッドの上だった。 やわらかい朝の光がカーテンを通して、 エアコンのほどよく効いた(あんまり室温分からないけどさ)室内に差し込んでいた。 いつの間にか朝になっちゃってたんだね。
「裕子さん、 目が覚めたね」
  聞きなれた声が聞こえる。 ふと、 横を見ると見慣れた藤原の人懐こい顔がニコニコ笑ってた。
「藤原、 来てくれたんだ! どうしてここが分かったの!」
  びっくりして飛び起きた。 そしてすぐ義体に検査用のコードがささりっぱなしってことに気が付いて、 恥ずかしくなって、 またあわててふとんの中にもぐりこんで顔だけ出す私。 あ、 右手、 ちゃんと動いてる。 右足も。 あ、 服はしろくま便の作業服じゃなくて、 いつも検査の時に着る白くてぶかぶかのかっこ悪い服を着てる。 私がぐっすり寝ている間に修理終わったんだね。
「裕子さん、 イソジマ電工への緊急連絡先を俺の携帯番号に変えただろ。 忘れたのかい? 昨日何度も裕子さんの携帯に電話しても繋がらなくて、 どうしたのかと思ったら、 イソジマ電工の松原さんって人から電話があって、 裕子さんが怪我をしてアルバイト先から府南病院に運び込まれたって言うじゃないか。 俺、 びっくりしちゃって、 心配になって、 すぐこっちに来ちゃったよ」
「じゃあ、 藤原、 昨日からずーっとここにいてくれたの?」
「こんなのなんでもないよ。 不規則な生活には慣れてるからね。 それに、 俺もここでちょっとは寝たしね。 まあ、 なんにしても裕子さんの怪我、 たいしたことなくてよかったよ」
  そう言う藤原の眼は真っ赤だ。 きっとほとんど寝てなんだろう。 寝ないでずーっと私のそばにいてくれたんだね。 有難う、 藤原。
「昨日のことだけど・・・ごめんね、 藤原。 機械の身体の私なんか理解できないなんて、 私、 藤原にひどいこと言った。 私のこと一番理解してくれる人に、 ひどいこと言っちゃったよ。 私が悪かった」
「いいんだ。 そんなこと、 もういいんだ。 裕子さんが無事だったらどうでもいいんだ。裕子さんのアルバイト先の野中さんって人から事情は全部聞いたよ。今日は裕子さん、人助けで大活躍したんだって?裕子さんらしいや。お疲れ」
  藤原は私の頬っぺたを優しく撫でてくれた。
「私、 また身体壊しちゃった。 きっと、 すごい修理費を取られちゃうよ。 せっかく京都に行こうっていっていたのに、 だからアルバイトも頑張ってたのに、 それどころじゃなくなっちゃったね。 ごめんね、 私の身体がこんなだから、 普通の人みたいに放っておいても自然に治る身体じゃないから、 すぐ入院することになって、 お金もかかって、 デートの時間もろくに取れなくなっちゃうんだよ。 私は、 ホントは藤原と一緒にいたい。 藤原といろんなところに遊びに行きたいのに。 ごめんね。 本当にごめんね」
  私は自分が恨めしかった。 藤原はこんなに優しくしてくれるのに、 その優しさに何一つそれに応えられない自分が悔しかった。 でも、 そうやって落ち込む私の目の前で、 藤原は一通の封筒をちらつかせたんだ。 なんだろう?
「そうそう、 お金といえば・・・。 ねえ、 裕子さん。 野中さんって女の人がこんなものくれたよ。 裕子さんに渡してくれだってさ」
  恥ずかしいから毛布を被りながらだけど、 よっこらしょって、 上半身だけ起こして、 藤原の差し出した空色の封筒を受け取って、 中を開いてみた。 そうしたら、 千円とか二千円とか五千円とか、 いろんな種類のお札が合わせて三万円くらい入っていたんだ。 これって、 昨日、 私が断ったみんなからのカンパじゃないか。 封筒の中にはお金と一緒に小さなメモ用紙が入っていた。 メモ用紙には裏表をびっしり使ってこんなことが書かれていたんだ。


  八木橋裕子様

  夕方みんなから集めたお金、 ヤギーちゃんは受け取らなかったけど、 でもやっぱり渡します。 これはしろくま便のみんなの気持ちです。 ヤギーちゃんいつも頑張ってるのに、 これくらいしか返せなくて逆に申し訳ないくらい。 身体のほうは、 すぐ元通りになるいってお医者さんは言ってたけど、 でも明日と明後日と、 ヤギーちゃんは休みだって所長には言っておきました。 ヤギーちゃんがいない分も私達で頑張るので気にしないでゆっくり休んでください。 たまには何もかも忘れて彼氏や友達と遊ぶといいよ。では、 休み明け、 元気にアルバイトに来ることを心待ちにしております。 しろくま便は、 いつでもあなたを待ってるよ。
                                              野中明美

追伸
  ヤギーみたいないい女は滅多にいないぜ。 もっと自分に自信を持ったほうがいいな。
                                              猪俣茂樹

さらに追伸  
  現実のギャンブルにも弱くて、 恋のギャンブルも弱い俺って駄目人間ですか? でも、 勝負は時の運。 負けるときもあれば、 勝つときもあるっていうのが俺の考えです。 ヤギーさんのこと、 まだあきらめてませんから。
                                              山本直行



   私の眼から涙が溢れたんじゃないかと思った。 いや、 そんなの幻覚に決まってる。 私の眼は涙なんか流すはずはないんだ。 でも、 まだ自分の身体を持っていた遠い昔、 うれし涙を流した感覚が蘇って、 まるで涙を拭くみたいに、 眼をこすらずにはいられなかった。 だって、 この三万円はただの三万円じゃないよ。 みんなの愛と優しさが、 全部つまっているんだ。 私にとってはどんな宝物よりも価値のあるものなんだ。

「裕子さんがアルバイトしているしろくま便の人はみんないい人達だよね。 熊みたいにごっつい人がいてさ、 姐ちゃんを幸せにしてやるんだぞって握手を求められた。 ちょっと手が痛かったけどね」
  藤原は右手をさすりながらわざとらしく顔をしかめた。 ああ、 猪俣さんだ。 いかにも猪俣さんらしい挨拶の仕方だよ。
「それから、 ちょっとやせた俺ぐらいの年の男もいるでしょ。 彼は、 僕は負けませんから。 あきらめませんからって言ってたな。 一体何をあきらめないんだろうね。 何言ってるのかよく分からなかったな。 裕子さん、 心当たりある?」
  山本君、 そんなこと言ったんだ。 馬鹿だね。 相変わらず馬鹿だねえ。 私、 山本君に告白されちゃったんだ。 そして励まされたんだ。 でも、 安心してよ、 私が好きなのは藤原だけだから、 なんてバカ正直に言うのも恥ずかしいし照れくさいから、 藤原の問いかけはわざと聞こえないふりをして、 かわりにこんなこと 言っちゃった。
「ねえ、 藤原。 キスしてよ」
  そうしたら、 藤原、 笑いながら、 私の頬っぺたにそっと口付けしてくれたんだ。 ああ、 もう、 じれったいなあ。
「うー、 そういうのじゃなくて、 もっとちゃんとしたやつ」
  私はふてくされて頬っぺたを膨らましてすねてみた。
「ここで?」
   藤原は周りを見回して苦笑いした。
「気にすることないよう。 どうせ個室だし、 誰も見てないよう」
  私は、 両手を広げて目をつむった。 お陰で私を覆っていたふとんが身体から落ちて、 全身コードだらけの身体が丸見えになっちゃったような気がするけど、 もうどうでもいいや。 藤原相手に繕ってもしょうがないもん。 目をつむった私の唇に藤原の唇が触れたのを感じる。 私の顔に藤原の息がかかる。 私は藤原の頭をぎゅっと抱いて、 藤原も私の身体を抱きしめてくれて、 それから舌と舌がふれあって・・・。 あー、 私、 幸せだよう。 この時間がずーっと続いたらいいな。

  突然ノックの音がしたから、 びくっとして藤原と顔を見合わせた。 藤原は、 あわててベッドのそばの椅子に座った。 全くもう、 こんなときに無粋なんだから。 いったい誰だよう。
  松原さんだった。
「お取り込み中悪いですが、 今回の治療代金の報告に参りました」
  妙に馬鹿丁寧な松原さんの口調で、 いきなり現実に引き戻された。 そうだ、 きっと今回の義体の修理費用だって、 結構な金額のはずなんだ。 せっかくみんなからもらった三万円じゃあ、 なんの足しにもならないくらいに・・・。
「今回の八木橋さんの怪我ですが、 何らかの原因によって義体の出力制御のプロテクトが解除されたため、 体内で使用する電気の電圧が急激に上昇し、 駆動用のモーターが過負荷状態になって焼ききれたものです。 本当はあってはならないことですが、 ごくごくまれにサポートコンピューターのバグにより出力が強制的に開放されてしまうことがあります。 弊社としても自社製品は充分気をつけて管理しているつもりですが、 今回このような事態が起こりまして、 使用者に多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」
  私はびっくりした。 だって、 今回身体が壊れたのは、 私のせいなんだよ。 なんでイソジマ電工が、 松原さんが謝るんだろう。
「え、 え、 え、 だって、 私の身体が壊れちゃったのは私が茜ちゃんに連絡して勝手に義体の出力を上げたからで・・・」
「会社側の—」
  松原さんは大声で私の言葉を覆い隠した。
「会社側の公式見解としては西田さんは弊社の一義体所有者にすぎず、 なんらの特殊能力も保有しておりません。 ですので、 西田さんが義体の出力制御のプロテクトが解除するなどということはありえないことです。 今回の件とは何ら関係ありません。 今回は弊社のミスということで規定により弊社で入院費を全額負担、 また別途お見舞い金を支給させていただきます」
「ええっ! 入院費用がただになったうえにお金までもらえちゃうってこと?」
「八木橋さん。 前回の茜ちゃんの一件で、 うちの会社の対応に腹が立たちませんでしたか? 私は自分がないがしろにされたみたいで、 ものすごく悔しかったんです。 だから、 今回は初めて会社に楯突かせてもらいましたっ! 茜ちゃんの能力は、 イソジマ電工と自衛隊の間の極秘事項で、 公式には茜ちゃんは、 ごく普通の弊社の一ユーザーってことになってますから、 そこのところの矛盾をついて部長と直談判して、 お金もらってきましたっ! 私はイソジマ電工の社員ですけど、 八木橋さんのケアサポーターでもあるんです。 たまには、 会社の営業ばかりじゃなく、 あなたの助けになるようなこともしないといけませんよね」
  そう言うと松原さんは、 会社からのお詫びの書類を私の目の前で広げて、 胸を張った。 まるで、 裁判にでも勝ったみたい。 まるで、 その書類に「勝訴」って書いてあるみたい。 どうだっ! ていう松原の心の声が聞こえてきそうだよ。 ホントに。
  それは、 つまり・・・、私と藤原はしばらく時間が止まったみたいに見つめあった。
「藤原、 京都・・・、行けるね?」
「うん。 良かったね裕子さん」
「やった、 やった、 やった! 京都京都京都だよう! 藤原と京都だよう!」
  松原さんの目の前だっていうのに、 私、 我を忘れて興奮して、 気が付いたらベットから飛び起きて、 藤原に抱きついていた。 コードがあちこちにささりっぱなしのみっともない姿だけど、 そんなのかまうもんか。 だって、 嬉しいんだもん。 松原さん、 すごいよ。 私のために頑張ってくれたんだね。 私、 何てお礼を言っていいか分からないよ。 やっぱり松原さんはすごいケアサポーターだ。 私の担当が松原さんでよかった。
  うかれる私の横で、 松原さんは、 わざとらしく咳払いをした。 それで我に返って、 私はあわてて藤原から離れる。
「まだ続きがあります。 今のが会社の公式見解です。 続きまして私の私的見解です」
  松原さん、 ニヤっと、 ちょっと意地悪そうに笑うんだ。 彼女がこんな顔することめったにないよ。 なんだろう? ちょっと緊張して、 松原さんを見つめる。 松原さんは思いっきり息を吸い込むと、 マシンガンみたいに私に向かってまくしたてたんだよう。
「ゴルァ、 このメガネザル! いったい何度私に迷惑をかけたら気がすむんかい!慣らしもなしに出力をよりによって最大まで上げたらどうなるか分かりそうなもんですけどねえ。 馬鹿じゃないの? 脳みそ膿んでるんじゃないの? ちゃんと義体の説明書読んでんの? あんたのせいでねえ、 せっかくの私のデートがだいなしですから。 だいなし。 分かってる? 理由はどうあれ、 あなたのやったことは犯罪ですから。 本来刑務所行きですから。 今回は大目にみますけど、 次からは会社が許しても私が許しませんからね。 もしも次に同じことやったら私の権限でサポートコンピューターと脳の強制遮断二日間の刑ですっ! 覚悟してくださいっ!」
  ひー、 すみません。 もうしません、 ごめんなさい。 許して、 許して。 許してよう。 冗談めかして言ってるけど、 眼が恐いよう。 松原さん本気だよう。

  いつものように、 宮の橋から自転車をかっ飛ばして8時半きっかりにしろくま便東八軒坊事務所に到着。 でも、 今日の私、 いつもと違ってちょっと緊張している。 今日は、 休みが終わって三日ぶりのアルバイト、 腕相撲事件のあとはじめてのアルバイトなんだ。
「お早うございまーす」
  元気よく挨拶しながら事務所に入ったんだけど、内心はびくびくもの。みんな私の事どう思っているんだろう。
「おう、 ヤギー、 久しぶり。 休みはどうだった? 彼氏は毎晩元気だったか?」
  タバコを吸いながらスポーツ新聞のエロ記事を熱心に読んでいた小林さんが真っ先に私に気がついて声をかける。
「うー、 小林さん、 その質問は直球ストレートでセクハラです」
   小林さんのセクハラ発言はいつものことで、 残念ながらもう慣れっこになってしまってこのくらいでは動じなくなってしまった。 ケチ所長はちらっと、 私を見ただけで何事もなかったかのように電卓と格闘している。 飯田さんは、 軽く私に会釈しただけで、 机の上の鏡と睨めっこしながら、 髪をなでつけるのに一生懸命だ。 そんなヘアスタイルを気にするほどふさふさした髪でもないのにね。 鈴木さんは相変わらずパソコンゲームに熱中していて私が入ってきたことにも気が付いていない。 いつもの、 ごくごく当たり前の事務所の光景だ。
 野中さんと、 石塚さんは壁に貼り付けている地図と睨めっこしていた。 引越しレディースサービスの打ち合わせだろう。 全く、 この会社で、 まともに仕事をしているのは女だけなんだろうか? 私は苦笑しつつも二人のところに向かった。 私も打ち合わせ、 聞いておかなきゃ。
「さて、 今日の仕事のスケジュールは」
「えー、 今日の現場は遠いですよ。 ちょっときついかもしれません。 えと、 午前中は天后宮」
「ああ、 入舸浦の中華街があるところでしょ。 詳しい場所は分かる?」
「住宅地図はコピーしてます。 完璧」
「さすがイッシー、 ちゃんとナビってね」
「それから、 午後は二ノ橋です」
「うわっ、 それって全然逆方向じゃない。 ついてないわね」
  野中さんは腕組みしながら渋い顔をした。
「あの、 野中さん、 石塚さん、 私・・・」
「なーに、 ヤギーちゃん」
  地図と睨めっこしていた野中さん、 私のほうを向いてにっこり笑った。
「ううん、 なんでもないんです、 なんでもない」
  私、 なんであんな事件があった後なのに、 みんな私に何も言わないのか、 普通に接してくれるのか不思議になって、 そのことを聞こうと思ったんだ。 でも、 やめた。 そんなこと聞くだけ野暮だよね。 あきれるくらい、 いつもと変わらないしろくま便の日常。 いつもと同じ顔ぶれで、 いつもと同じことを話をして、 いつもと同じくだらないギャグがとんで、 いつもと同じ笑いが沸き起こる。 なんて変化のない、 つまらない会社なんだろうね。 ふふふふ。 嬉しいよ・・・。 私、 とても嬉しいよ!
「そう、 じゃあ、 ヤギーちゃん、 今日も張り切って頑張りましょうか」
「はいっ!」
  八木橋裕子22歳。 今日も元気にバイトを頑張るぞう 。

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