このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

地名に残る「住吉」のこと

 古代では、「那古の海」は、大阪市住吉の海岸を指す枕言葉だったということは前回書きました。「那古の海」と詠えば、それだけで大阪住吉の海岸を普通に思い起こすほど、一般的な地名になっていたということだと思います。

 大阪住吉には、住吉大社がありますが、住吉社は、航海の神とされ、古代では、遣唐使が出発に先立って航海の安全を祈願するために必ず参拝した神社です。当時の航海は、港湾である「津」から「津」へと渡っていくのですが、津のあるところには、この「住吉社」があったようです。

 大阪市住吉地域(那古の海)からの移住者によって、「那古」という地名がもたらされたとしたら、長い航海の果てにたどり着いたこの地にふるさとの航海神である「住吉社」も祀ったのではないかと考えてみました。しかし、現在の那古には、住吉神社はありません。

 調べてみると「住吉」という小字地名は残っていました。辻地域の辻堂のある小高い土地の小字そのものが「住吉」でした。ここにはイチョウの大木があります。かつてここに住吉神社があったのではないでしょうか。



(辻堂東側の宅地分譲地の看板に所在地の字が「住吉」と記されている)

辻堂は、「辻」の微高地に建つお堂で、現在はそのお堂「薬王院」を中心にお墓となっています。「辻」という地名のとおり、その地名がいわれた当時は、物や人々が行き交う「辻」で、そこの小高いところに「住吉社」があったのではないか。また、この近くに都と安房国の府中を結ぶ「津」があり、かつては、この辻地域が那古の中心で、安房国府中の海の玄関口だったのではないかと思いました。

なお、さらに三芳村府中の平久里川沿いの土地の小字にも「住吉」があります。住吉社自体は歴史のなかでなくなってしまっても地名にはその記憶が残されるのでしょうか。

いずれの「住吉」地名も現在は内陸に入ったところで海とは離れた土地ですが、元禄大地震の隆起(4メートル規模)以前には、海辺に近い土地であったと思われます。

 那古という地名をもたらした人々は、住吉社ととも現在の大阪南部住吉からきた開拓者たちで、古代安房の国づくりの中心となる府中や港津をつくった人々なのではないでしょうか。地名から触発されたわたしの推理ですが、現地に立ってみるとそんな気がしてきますから不思議です。地名は歴史の記憶の「缶詰」ではないかと思います。    (終わり)

(現在の辻堂に残る大木・大きなイチョウの木もあります

↑ 古木の残る辻堂の入口           周囲から目立つ大きなイチョウの木 ↓



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