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雑誌「 住民と自治 」6月号に寄稿したものです。

合併した途端に財政破綻
新市建設計画を棚上げし、財政再建で大増税

昭和の大合併を資料にさぐる---千葉県館山市

目次

1、昭和二十九年に周辺六ヵ村を「急速合併」し、大規模な財政破綻
2、バラ色の新市建設計画は、合併推進のための作文?
3、地方交付税が大幅減、「算定替」は交付額を保証しない
4、財政破綻もう一つの理由 村長らの退職金と議員に慰労の金時計
5、財政再建のため、超過課税や都市計画税創設の大増税

資料

1、 昭和二十八年度最終予算及び昭和二十九年度以降の決算(表1)
2、 合併前後の地方交付税(表2)


1、昭和二十九年に周辺六ヵ村を「急速合併」し、大規模な財政破綻

市町村合併は住民にとって良いことなのかどうか、また良いとするならば、どういう合併をするのが良いのか、など住民がその是非を判断するにも拠り所となるものがありません。それを考えるにあたって、わが市の「昭和の合併」の歴史的経験から学ぶことが大事ではないかと、そんな思いで調べてみました。現在に共通する問題が多く、合併問題を考える貴重な資料になりました。


千葉県館山市は、房総半島の南端に位置する人口約五万人、面積約百平方キロメートルの地方都市です。昭和二十九年(一九五四年)五月三日に周辺六ヵ村を編入合併して、現在の市域となりました。 
昭和二十八年九月に県の指導で館山市長と周辺八町村の町村長らで「合併研究会」をつくり、十二月には館山市と六村の「合併協議会」に改組し、翌年三月の市議会や各村議会で、五月三日付で館山市に六村を編入合併する議決をしました。この館山市と六村の合併は、わずか半年余の短期間で実現したので、「急速合併」と言われました。


館山市や六村の各議会議事録などの記録では、「農村同士で」とか、「農漁村で合併すべし」とかの反対論が一部であったことがわかりますが、急速合併のもとで、それらの反対論は充分に論議されることなく合併の議決が一気にすすめられていきました。


しかし、現実には、国の制度についての充分な理解や六村との協議も不十分なまま、千葉県の指導にそって合併し、その結果、昭和二十九年度に館山市は「実質三千百万円の赤字」となり、財政破綻します。


当時の館山市一般会計の予算規模が二億二千万円ほどでしたから、三千百万円の赤字は、現在の予算規模(平成十四年度百七十一億円)でなら、およそ二十四億円になります。これは、館山市十四年度予算の市民税二十一億円をうわまわりますから、市民税を現行の二倍に増税してもなお穴埋めできないことになります。昭和二十九年度の三千百万円の赤字がいかに巨額の赤字であったのかがわかります。当時を知る業者は、市役所に納品しても代金がなかなかもらえなかったといいますし、市職員の給与も分割払いだったと聞きます。

注)(表1)の昭和二十九年度の一般会計の赤字額は、二千九十九万一千円であるが、これ以外に市立高校校舎増築のため「市立高校施設整備組合」をつくり、この組合が公募などで一千万円の資金集めを行なった。この一千万円を含めて「実質三千百万円の赤字」である。

2、バラ色の新市建設計画は、合併推進のための作文?

では、なぜ急いで合併したのか?当時の町村合併促進法では、「予算の範囲内で補助金の優先交付や起債の許可を与える」とされ、早く合併すれば、国の優先的な財政援助が得られると期待したのだろうと思います。現在も、合併特例法は時限立法で、特例債等の優遇策を受けるには、「平成十四年度は、正念場の年」(片山総務大臣の市町村長・議長への手紙)だと、内容よりもまず期限ありきで期限が強調されますが、当時とよく似ています。


合併直前の四月二十日に館山市と六村の合併後の「新市建設計画」がまとまります。各村の要望を取り入れたいわばバラ色の計画書で、各村長への合併合意への約束でもありました。千葉県知事にこの計画書についての意見照会がされますが、回答は、例えば、役所庁舎の整備は、「起債の承認は不可能、新築ではなく増築程度に止めるべき」と手のひらをかえしたような厳しい内容になっています。補助金の優先交付や起債の優先許可の期待は裏切られ「新市建設計画」は、館山市と各村の合併合意のための「作文」としての役割を果たしただけでした。そのうえ、館山市は一年後には財政破綻してしまい、「空手形」となった新市建設計画は、棚の奥にしまい込まれてしまったのです。合併に期待した「アメ」は、甘いどころか大変にがいものになりました。

3、地方交付税が大幅減、「算定替」は交付額を保証しない

昭和二十九年度の「実質三千百万円の大赤字」の原因はいくつかありますが、最大の原因は、地方交付税が大幅に減少したことでした。当時の合併財政計画と決算書を比較して明らかです。表2をご覧ください。
 合併前の昭和二十八年度の市及び六村の地方交付税(平衡交付金最終予算)合計額は、四千六百五十七万一千円で、合併財政計画では昭和二十九年度は五千百十一万八千円に増える計画でしたが、実際の決算額は三千四百九十二万一千円と、合併前よりも、額で千百六十五万円、率で二十五パーセントもマイナスとなりました。


当時の町村合併促進法では、合併してもいわゆる「算定替」で、合併前の旧市町村の地方交付税の合計が五カ年間は保証されるはずで、合併財政計画では、合併後五年間は、この「算定替」の制度で、地方交付税が減額にはならないと歳入計画を立てていました。しかし、昭和二十九年度に現実に配分された地方交付税は大幅に減額となったのです。


この「算定替」とは、地方交付税の算出方法であって、合併前の市町村の交付税額合計を保証するものではなかったのです。現在の合併論議でも、合併の特典として、この「算定替」で、十年間は、地方交付税額が保証されるかのようなことが言われますが、そういうことではないのです。

当時もこれが「国の約束破り」と問題になりました。自治庁の鈴木俊一次長(後に東京都知事)と茨城県代表との座談会で、理想的な合併例のモデルといわれた千代田村の村長が「交付税は約束では合併当時の調定額を五年間はくれるということだった。合併前の三村で二十八年には千百万円だったのが、二十九年には九百万円に、今年は八百七十万円になってしまった」と詰めよります。これに、鈴木氏は、「交付税は、合併前の状態を基礎にした計算でやるということで、額が同じだということではない。算定の方法が年々変わっているが、合併したために損するようにはなっていない」と応えています。(昭和三十年九月二十一日「朝日新聞」の「合併町村の表情険し」の記事より)


なにをカン違いしている。そもそも、合併しても交付税額をそれまでと同じにすると自治庁は保証していない。誤解しているのはそっちの方だというわけです。結局は、現実にはかなりの減額になったにもかかわらず、その理由はわからずじまいでした。これが昭和の合併の歴史的な経験でした。

昭和二十八年度最終予算及び昭和二十九年度以降の決算(表1)            (単位千円)

 28年度29年度30年度31年度
市税99,60299,896115,269127,629
歳入合計251,780213,143229,625255,590
歳出合計251,780234,135243,778234,533
歳入歳出差引0-20,991-14,15221,057

  
昭和二十八年度は、旧六村及び旧館山市の最終予算額の合計を計上。

合併した昭和二十九年度の市税は、旧村地域は従来のままとして不均一課税。
◎昭和三十一年度では、増税と徴税強化で税収を大幅に伸ばしつつ、経費節減をはかり歳出を圧縮した。さらに、表2のとおり、交付税が、再建財政計画の見込み額ではなく、合併財政計画に近い額に回復したので、大幅な黒字に転換した。


合併前後の地方交付税(表2)
① 合併財政計画額と②決算額及び③再建財政計画額   (単位千円)

 28年度29年度30年度31年度32年度33年度
①合併財政計画46,57151,11848,53948,53948,53948,539
②決算額 46,57134,92133,45247,86353,05462,549
③再建財政計画 34,92139,05337,58936,38136,381


二十八年度は、旧六村及び旧館山市の最終予算額の合計を計上。

合併財政計画は千葉県に提出した「町村合併票」(昭和三十年一月二十七日提出)に記載の数字より作成
二十九年度以降の決算額は、各年度の一般会計決算書より作成。
再建財政計画は、市議会で議決(昭和三十一年六月二十八日)した「財政再建計画書」より作成 


4、 財政破綻もう一つの理由 村長らの退職金と議員に慰労の金時計

財政赤字のもう一つの原因は、五月二日で消滅した旧六ヵ村から引き継いだ千百万円の一時借入金にあったと考えられます。この一時借入金は、議会に設置された財政問題調査特別委員会で、「違法な操作」として問題となり、その内容が、調査特別委員会の「中間報告」として、議会の議事録に記録されています。


旧六ヵ村から引継いだ一時借入金千百万円を、委員長は、「からくり借金」とよび、そのなかで、村長、助役、収入役の退職金の金額を具体的にあげて(合計で約四百万円になる)、事実を確認するため証人喚問の必要を指摘し、詳細を調査の上、次回に報告するとしていました。当時の四百万円は、現在の予算規模では、三億円相当ということになり、財政負担はかなりのものでした。

また、合併の翌年の昭和三十年には、合併時の市議会議員全員に「自治功労」として一万五千円の金時計を贈呈する議案を議会が承認しています。まさにお手盛りですが、当時の一万五千円は、現在なら百万円ほどですから、現代風にいえば、各議員に自家用車一台のプレゼントということになりましょうか。


合併当時の新聞では、「町村合併の副産物、お手盛り慰労大はやり 退職金や記念品 役得根性さらけだす」という表題で、「市町村合併にともなって辞職する首長、議員たちの間でお手盛りの退職金や記念品の贈呈がはやっている」と各地の実例が具体的に書かれています。特に慰労品は、どこでも金時計であり、議員は、「金時計がお好き」と揶揄されていました。(昭和二十九年五月十三日付の朝日新聞夕刊)

以下引用します。
金時計がお好き
 この一日、市になった岡山県高梁市に合併した旧巨滝村では、住民たちが「閉村式をやらせない」と騒いでいる。もとの村長、村議が一人三万円づつのお手盛りで“合併記念”の温泉旅行をやったうえ、全村議が腕時計を記念品として受け取ったと言うのが、その理由。旅行や腕時計は同村だけでなく、高梁市に合併した旧八町村が申し合わせでやったことが判った。


 また、先月発足の新潟県小千谷市では、最終議会で記念品代60万円の追加予算を可決、この四日、スイス製金時計を旧小千谷町議二十八人に記念品として贈り、「ゼイタクだ」「市民のふところも知らずに」と市民を怒らせている。


 金時計の例は、埼玉県北埼玉郡の川里町や栃木県那須郡の烏山町でもあり、烏山町では町民が反対しているが、同町小森町会議長は「もらうつもり」とガン張っている。また同郡議長会では、合併でやめる町村の議長に純毛三つ組背広一着を贈ることを決めたが、世論の反撃にあって、すでに洋服生地を受け取ったもののうちあわてて現物を返した議長もあった。この費用として議長会では、追加予算を組んで郡下の町村に五千円づつの要求をしたが、町村側にけられている。

八十万円の退職金
 佐賀県西松浦郡伊万里市と合併の旧大川村では、退職金の財源に村有林を売ることを議決、村内の猛烈な反対を押し切ろうとしている。
金額では、同県杵島郡旧武雄町の町長八十万円、助役五十万円、収入役三十万円、議長七万五千円、副議長六万円、議員五万二千円、栃木県旧小山町の町長七十万円、助役三十万円、収入役に十五万円、(中略)などは最高の部だが、市になった同県旧山鹿町の町長三十万円クラスが最も多く、十万円以下に至っては数え切れぬほど。


このとおりのことが館山市の合併でも行われ、それらは、現在に換算すれば、億円規模にもなる「冗費」であり、その財政負担はけっして小さなものではなかったのです。それらが財政状況をいっそう悪化させ、財政破綻の一端になったのでした。

5、財政再建のため、超過課税や都市計画税創設の大増税

昭和二十九年十一月には合併を強行した市長が辞任し、その後、新市長のもとで市財政の大規模な破綻状況があきらかになっていきます。財政再建が新市長の最大の課題になり、このため、「学校の窓ガラスが破れていても直さない」「道路は補修しない」などの極端な経費削減と、都市計画税の創設や市民税、固定資産税の超過税率課税による大増税、使用料など各種料金の最高限度額への引き上げなどを内容とする財政再建計画がつくられ、昭和三十一年度から実施されました。

このとき、都市計画事業のための目的税である都市計画税が、財政再建策として創設されました。目的税の趣旨を逸脱し、課税対象地域を辺地も含む市内全域とし、以来、現在まで、事実上、固定資産税の上乗せ税となっていますが、違法な重税として市民の批判の的となっています。


国や県の合併方針にそって館山市と周辺六ヵ村は合併したのですが、財政破綻を招いてしまいました。その失政のツケは、市民が大増税で負担しなければならなかったのです。この拙速な合併の失政の教訓を現在の合併論議の中でしっかりと生かすことが大事だと考えています。二度目の同じ失敗はあってはならないことと肝に命じています。

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