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「館山市の文化財」(発行館山市教育委員会)には、次のように記されています。
大巌院四面石塔 附 石製水向
元和10年(1624年)に雄誉霊巌上人が建立した玄武岩製の四角柱の名号石塔です。
総高は、219cmあります。
北面にインドの梵字(ぼんじ)、西面に中国の篆字(てんじ)、東面に朝鮮のハングル、南面に
日本の和風漢字、と日本に仏教が伝わってきた国々のことばで「南無阿弥陀仏」と名号が刻
まれています。これは、阿弥陀如来の救いの慈悲の光が遍く世界を照らしていることをあらわ
しています。 (「館山市の文化財」より)
ハングル文字が刻まれた、朝鮮や
韓国にも あまり例がないといわれる
大変珍しい石塔ですが、 なぜ、房総
半島の南端のこの地にあるのか?
まだ研究が十分されていませんが、
地元では、 日本と朝鮮の友好善隣の
願いが込められた「平和祈念」の石塔
ではないのかと推察しています。
日韓国民交流年の今年(2002年)3月、
この石塔の前で、日韓交流・交歓の広場
がもたれました。
写真は韓国の歌舞の披露
◎通信使は、善隣友好の使節
朝鮮通信使の「通信」の意味は、「信」(よしみ)を通わすという意味で、信義・信頼を通じ合うとい
う意味です。通信使とは、信頼しあえる友好善隣の使いという意味になります。
しかし、この「通信使」は、江戸時代の最初の三回は、「回答兼刷還」使でした。朝鮮国王の国書
を携えてくると共に日本に連行された朝鮮人を連れかえる役割をもった使節でした。
この刷還(さっかん)とは、秀吉の朝鮮侵略でたくさんの朝鮮人が日本に連行されましたが、この人
たちを連れて還るという意味です。
◎現代の「拉致」問題と「刷還」
朝鮮国にとって、日本国と本当に信(よしみ)を通じ合う仲となるには、不法な侵略で連行された
たくさんの朝鮮人を日本政府(徳川幕府)の責任で朝鮮に帰国できるようにすることだったのだと思
います。現在と立場は全く逆ですが、朝鮮国と日本国の関係修復には、当時も「拉致」問題の解決
は避けて通れない課題であったのです。このため、朝鮮通信使は、江戸時代には12回ありました
が、始めの三回は、「回答兼刷還」使だったのです。
◎元和10年(1624年)、家光の将軍襲職の慶賀に朝鮮通信使
四面石塔が建立された元和10年(1624年)は、家光が将軍になり、寛永に改元されました。
12月には朝鮮通信使が家光の将軍襲職の慶賀に三回目の「回答兼刷還」使としてやってきました。
この朝鮮通信使の一行と共に、帰国することになった人々やその関係者が、両国の永遠の「友好・
善隣」の願いを込めて建てた石塔だったのではないかと考えられます。
この時の朝鮮通信使が最後の「回答兼刷還」使となりました。
◎学術文化の交歓で安定した日・朝関係に
朝鮮通信使の一行は、外交官だけでなく、その随員には絵師や儒学者など総勢500人程からなり、
道中では日本の学者・文人との交歓が盛んに行なわれました。江戸時代を通じて、日本と朝鮮の両
国関係の安定と学術文化の交流に多大の役割を果たすことになりました。
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