このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
海 外 旅 行 記(1)
(中東と中央アジアの建造物と歴史を訪ねて)(その1)
(住人からのお断り)
月岡さんの原本は、ひとつの小冊子ですが、ホームページに記載するには、長いと思い、二つに分けました。(その1)(その2)をあわせて読んでください。
はじめに
ヨーロッパのキリスト教圏内の旅はほぼ行き尽くしたので、イスラム圏にでも行ってみようかと思うようになった。
まず、ピラミッドで有名なエジプトからと思っていたら、1997年にハトシェプト葬祭殿でのテロ事件が発生して行けなくなり、数年後に行くことになった。エジプトは欧米の観光客も多く、現地人も観光客慣れしていて、イスラム圏としての印象は薄かった。
その後、モロッコに旅をした先輩から「モロッコは良いよ」と言われたのでそれではと行くことにした。ここで、初めてイスラム圏に来たとの印象を受けた。
イスラム圏と云えば、一般に、治安が悪く、すり、掻っ払いなどの多い危険な国という印象を持っている人が多いと思う。私もそう思っていた。しかし、その後数々のイスラム圏諸国を訪ねてそのような危険な国々ではなく、親切で、人懐こく、安全な国であることを知った。
これまでに訪ねたイスラム圏諸国は中東のイラン、シリア、ヨルダン、レバノン、イエメン、カタール、中央アジアのウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、アフリカのモロッコ、チュニジア、エジプト、コーカサス地方のアゼルバイジャンとそれに東欧のアルバニアである。
いずれの国でも危険なことも不愉快な思い出もなく、好印象を受けた。特にイランでは日本人に対して好意を持っているようにも感じられた。これは、1951年にイランが実施した石油国有化政策に対して欧米がイランからの石油不買で対抗した際、日本では出光石油(株)がイランから大量の石油を購入して結果的にイランを助けたためとも言われている。
一般に、欧米の多くのマスコミは、イスラム世界はネガティブで、暴力的であるとの印象を与えているが、実際はそうではなく合理的な宗教をもち、寛容、穏やかで同胞愛をもち、誠実で、平和で社会正義を持つ人達の集団である。
一方、イスラム社会では欧米は搾取を目論む国で、これに対する怨恨、敵対の感情が広く見られる。テロはそれが極端な形で現れたものである。
これは18世紀頃からイギリス、フランス、ロシアの中東への侵入が始まって植民地化し、イスラム社会からの搾取が始まり、やがてアメリカも加わって現在まで続いていることに根源があるものと考えられる。
テロは欧米の民主主義社会の観点から見ると悪と見做され、特に外国人全てを対象にしたテロは最悪に違いない。しかし、イスラム教のジハードの面からみるとイスラム人に対して同情すべき点はあると思う。
以上のことを頭に浮かべながら本編を見て戴ければ幸いである。
また、一つに「イスラム圏の旅の思い出」と云っても膨大になる。そこで、本編は中東と中央アジアで特に印象が深かった主な建造物を中心にその歴史を交えて纏めたものを紹介したい。
なお、この旅行記は筆者が旅行した個所の記憶を留めておくために纏めたのが本音である。
本編の最終ページにイスラム教について簡単に触れておいた。
1.中東の3P
シリアのパルミラ、ヨルダンのペトラ、イランのペルセポリスの3大遺跡のアルファベット頭文字を取って3Pと称している。この表現は「中東の観光ハイライト3ヶ所全てを見ることは素晴らしいものである」ということから来ている。
パルミラとペトラは夫々ギリシャ語に由来した名称で、古代においてはギリシャの勢力がこの地にまで影響を及ぼしていたことを表している。これら3か所は勿論ユネスコの世界遺産に登録されている。
1.1 パルミラ
パルミラ遺跡はシリアの中央部の砂漠中に忽然と姿を現す。ここはBC1世紀〜AD3世紀にかけて栄華を極めた隊商都市で、古くから東西交易の中心であった。
現在、広大な土地に神殿、劇場、議事堂、教会、住宅、1,5kmにも及ぶ列柱通りなどの遺跡が見られる。
パルミラはギリシャ語のナツメヤシを意味するパルマに起源すると言われ、その名の通り付近にはナツメヤシのオアシスがある。このパルミラ都市は一時期にローマの属州となったが繁栄を保ち続けた。
3世紀末頃、時の王オダナイトの死後、妃のゼノビアが幼少の息子の摂政になって一時は小アジアからエジプトの一部まで支配下においた。しかし、やがてローマ軍との交戦で降伏勧告を無視するに及び戦に敗れて滅びた。
その後、支配者が替っても都市としての機能は持ち続けたが、オスマン・トルコ帝国時代になると急速に衰えて都市機能を失い現在に至っている。
写真1は遺跡の中で一際大きく目立つベル神殿で、その大きさには驚かされる。
ベル神殿
写真2は町の中心部の列柱通りと言われる所で、周りの建屋は崩れても柱だけは補修の手が加えられて残っている。廃墟の中には隊商宿、劇場、ローマ風呂、市場、一般住宅などの跡が見られ、当時の繁栄の様子を瞼の裏に思い浮かべることが出来る。
列柱通り
写真3は塔墓と云うもので、内部は結構立派で棺を引き出しに差し込むような造りになっている。身分の高い人の墓で、死後も家族と一緒に住みたいという願望だろうか。全部石で造られている。
塔墓
1.2 ペトラ
ペトラはギリシャ語で岩と云う意味で、実際、岩の中の都市である。ペトラには9,000年も前から人の集落の跡があり、歴史に登場してくるのはBC1,000年頃からである。BC6世紀には遊牧民族であったナバタイ人がここに定住し始めた。
2世紀にはローマ軍の侵入によりローマ風の町に造り替えられたが、4世紀になって大地震で破壊され、6世紀以降は人も住まなくなった。
11〜12世紀になって十字軍がこの地に砦を造ったが、その後再び廃墟となり忘れられた存在になった。世の中に再び知られるようになったのは19世紀になってからである。
この遺跡群を見て周るには相当な健脚が必要である。バスを降りてから遺跡の入り口であるシークと言われる砂岩の裂け目まで約2km、ここから約2kmのシークが続くと谷底のような広場に出る。
インディージョーンズに出てきそうな
さらに内部まで約3km、左右を見学しながら歩くと往復15km以上あろうか、1日中歩き通しである。途中、ラクダに乗ったり馬に乗ったりする人もいるが、それでは見学しにくいので歩きの人が多い。
こういう所には健脚の人達が来るようである。確かに、苦労しても見学する価値のある所である。写真4はシークの入り口から少し入ったところの写真である。
水道溝
シークの横には写真5に示したような岩壁に掘った水道溝が通っている。シークの両側所々には岩肌を刳りぬいて造った墓穴も掘られている。
シークを通り抜けるとぱっと目の前が開けた谷底のような広場に出て、写真6に見られるようなペトラの最高の見所エル・ハズネの景観が目に飛び込んでくる。神殿風の霊廟と言われており、宝物殿という説もある。高さ43m、幅30mで、BC1~AD2世紀頃のものである。
エル・ハズネ
写真6は赤色に写っているが、時刻による日の当たり具合で変化する色彩が面白い。すごく綺麗である。
エル・ハズネからやや広いシークの中を歩いて行くとやがて広場に出る。この両側の岩肌には写真7に見られるように無数の穴が掘られている。昔の住居跡だと思ったら墓穴と云う。これらの墓は庶民のもので、身分によってその規模が異なる。
一般人の墓穴
この墓群の反対側には写真8に見られるような「王家の宮殿の墓」と言われるものがある。内部の岩肌は自然の岩が7色の縞模様になっていて素晴らしく綺麗なものである。
王家の墓
墓の内部の地層
ここから奥はローマ遺跡群が延々と続く。昼食の場所はその奥にあるレストランなので歩かざるを得ない。
帰りは疲れたせいか見学は程々にして最短距離をたどってバスの発着所まで歩いた。足には自信のある小生も相当疲れた。
1.3 ペルセポリス
ペルセポリスはBC6~4世紀にアケメス朝ペルシャが栄華を極めた場所である。当時の首都は別の所で、ここは即位式、祭儀など重要な儀式を執り行う所であったと云う。このペルセポリスはBC330年のアレクサンダー大王による侵攻で廃墟と化してしまった。
ペルシャは7世紀にアラブ人の支配下になり、その後、東から来た民族に侵入されたりして数々の王朝が続いた。16世紀になってサファヴィー朝がイラン人の国家を起こし、「イラン」と云う言葉もこの頃から用いられた。この後、イラン人による王朝は変遷し、パフラヴィー王朝の1979年にホメイニー師による革命政権が取って代わった。ペルセポリスは古き良きペルシャの絶頂の時代を反映したものと言えよう。
ペルセポリスの全景(左端:ハーレム、中央:宮殿(左)と謁見の間(右) 右端:百柱の間)
写真11はペルセポリス遺跡の全景を近くの丘の上から写したものである。当時の栄華の様子を十分に思い偲ぶことが出来る。各種式典を行う所でありながらハーレムはちゃんと造っている。
宮殿、謁見の間などの外壁面にはペルシャ人高官、貴族、儀仗兵の様子や多くの近隣諸国からの貢献の様子などが彫られている。その中で一際目立つのが写真12のライオンが牡牛に食いついている場面である。ライオンはペルシャの王を、牡牛は敵を表しているという。
貢献に来た諸国の人々へ「お前さんも私に敵対するとこのようになるよ」との威嚇と、ペルシャの力を誇示したものであると云う。こうした彫刻はあちらこちらで見られた。
写真13は百柱の間にある壁の一部である。儀仗兵と思われる兵隊が彫刻されているが、面白いのは下部の色が上部と異なっていることである。これは下部の部分が長い間土に埋まっていて風化されていないためである。
写真11の遺跡付近の小高い丘には岩肌を刳り貫いた壮大な王墓が2個所あった。
2.モスク
イスラム圏で、モスクは日本のお寺と同様に各所でみられる。しかし、お寺や教会と違って僧侶、牧師に相当する人は居ない。モスクにはドームとミナレットが付き物である。モスクは何処のものも美しいが、最も美しく数多く見られるのはイラン国内のものと思う。モスクは一般にブルー系の柄模様を施したタイルを張ったものが多い。ところが、ローズモスクと言われるピンク色の柄模様のタイルを用いたものもある。また、廟のモスクで内部がガラスのモザイク貼りになっているものもある。
初期のモスクは装飾の無いレンガを用いた極めて簡素なもので、時代と共にこれに装飾を加えたものに移行し、更に、16世紀になると綺麗な装飾タイルに変わっていった。特に、モスク内にあって、メッカの方角に向かってお祈りするために設けられているミフラーブはどこでも最も美しい装飾が施されている。
写真14はイラン・エスファハーンのイマーム広場にあるイマームモスク(王のモスク)入口の夜景を写したものである。ライトアップされて素晴らしく綺麗である。
イマームモスクのライトアップ
写真15は同じくイマーム広場にある王族がお祈りするために造られたモスク内のミフラーブである。写真16,17はイラン・ヤズドの「金曜日のモスク」内部の壁に張られたタイルの拡大写真である。
王族の為のミフラーブ
タイルの拡大(一枚のタイルの上の文様)
タイル上の文様は一般に15〜20cm角位のセラミックスの上に描かれており、その1枚一枚の文様が異なっており、凄く手の混んだものである。
写真17はペルシャ文字のお祈りの文をデザインしたもので、これもすごく綺麗である。
写真18はウズベキスタン・サマルカンドのシャーヒィズンダ廟群にあるモスクの壁の一部である。テラコット造りという透かし彫りのように細工をしたタイルを使っており、その技術の精巧さには驚嘆する。
写真19,20は夫々サマルカンドにあるグルー・エミール・モスクとエスファハーンのイマームモスクのドームである。ドームには種々の文様の付いたタイルが張られている。前者のドームには襞が入っており、ブルーの柄の付いた正ちゃん帽のようで大変可愛い。ドームのデザインと色模様はモスクによって千差万別で、見ていてもすごく楽しい。
モスクのドーム
写真21,22はイランのシーラーズにあるローズモスク(本当の名はナシル・アル・モルク・モスク)の正面とその一部の壁を拡大して示したものである。素晴らしい美しさで、艶めかしささえ感じる。このようにカラフルなタイルを使っている例は王族の宮殿、別邸などでも見かけるがモスクではここだけのようだ。
写真23は、シーラーズのオレンジ公園の綺麗なタイルです。
写真24はシーラーズにある王族の廟内部の天井を写したもので、全てモザイクの総ガラス張りである。それは万華鏡の中にいるようで、その美しさと神秘さはそこに行かないと実感できないであろう。
オレンジ公園のタイル モスクの天蓋
3.イマーム広場
広場が建造物とは奇異に感じるであろうが、実際、広場を囲んだ素晴らしい建造物がエスファハーンにある。それがイマーム広場である。
イスラム圏の中でも町の一角を占める建造物としては最も規模が大きく素晴らしいものと思う。
エスファハーンはサファヴィー朝のアッバース1世が1597年に都と定めた所で、この広場はアッバース1世が16世紀末建造に着手し、その完成までには何十年も要したという。
その町の規模に対するアッバース1世の都市計画の意気込みが感じられる。
イマーム広場は510×163mの大きさで、これを宮殿、2つのモスク、回廊が囲んでいる。これらは単に建造物と云うより美術品と云っても良いであろう。全体の写真は航空機からでないと撮りようもない。
写真25は宮殿の高台からイマームモスク方面を、写真26は王族が使用するモスク付近を写したものである。
回廊の一階内部は両サイドが絨毯屋、工芸品屋などの並んだ綺麗な商店街になっており、2階は住居になっている。かって、この広場では観閲式、競技、公開死刑などが行われたという。
イマーム広場
イマーム広場の王族のモスク
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |