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海 外 旅 行 記(1)

(中東と中央アジアの建造物と歴史を訪ねて)(その2)

4.橋

は建造物には違いないが、エスファハーンの町中を流れるザーヤンデル川に架るハージュ橋スイ・オ・セ橋の景観は我々の想像を超えている。

写真1示したハージュ橋1666年に完成し、水門の役割もしている。橋の両側の上部は2階建てのテラスになっている。上部層も歩いて渡れるようになっている。

ハージュ橋

時の王様はこのテラスで宴を催していたと云う。青色系の化粧タイルも張ってあり、素晴らしく綺麗でかつ壮観である。

写真スイ・オ・セ橋を写したもので、長さ300m14mである。アッバース11606年に完成したものである。スイ・オ・セ33の意味で、橋の上部のアーチが33あることからこの名がついた。このアーチの下はテラスになっている。上記2つの橋はいずれもわれわれの想像規模を超える橋で、見事と言うほかはない。

スイ・オ・セ橋

なお、車両は通れない。夜はライトアップされて、また別の素晴らしい景観に接することが出来る。

5.城

イスラム世界にも種々の城があるが、ここではキリスト教世界の1つの城とイスラム教世界の2つの城を紹介しよう。

5.1 クラック・デ・シュバリエ

この城は十字軍11世紀末から中東に侵攻して来た時に築城して残したものである。シリアの中西部、ダマスカスの北約150㎞の所の小高い山の上にある。写真にそれを示したが、中東にこのような良い状態で残されている西洋風の城は少ない。城壁は2重になっており、美しい城である。ここからの展望は素晴らしい。

十字軍12世紀末にはイスラム軍の反撃態勢が整うに従い撃退されている。この撃退劇に活躍したのが後にアイユーブ朝11711252)を樹立したサラディーンである。サラディーンの勇敢で礼儀正しい騎士道はヨーロッパでも評判となり、当時のヨーロッパ騎士道のお手本にもなったと云う。

5.2 アレッポ城

この城はシリア2番目の都市であるアレッポにある。天然の丘を利用した堅固な城である。写真はそのゲート付近を写したものである。
このゲートは深い堀をはさんで手前と奥との二重の堅固な厚い石組で出来ている。その石組は剃刀の刃も通さないほどの見事なものである。
ペルーで見たインカ帝国の精巧な石組を思い出させる。内と外のゲートを挟んだ堀の上にはアーチ状の橋が架けられている。内部には宮殿、住居、モスク、円形劇場、などがあって広い。

アレッポBC3000年頃から東西の交通の要所になっており、BC10世紀頃には神殿が建てられていた。その後この地の重要性が高まって築城され、その後何度も改築されて堅固な城となり、十字軍、モンゴル軍、ティムール軍などの侵略にも耐え抜いた。現在の形のゲートは16世紀に造られたものであるが、その威容はいかにも難攻不落といった風格を持っている。城の上から一望できるアレッポの町の景色は素晴らしい。

5.3 キズ・カラ

キズは「乙女」、カラは「城」の意味で、写真はその全容を示したものである。この地一帯のこうした遺跡群はトルクメスタンの南東部地方のメルブと云う所にある。キズ・カラには大小あって、写真は大のものを示した。これは67世紀のもので個人の邸宅であったと言われている。個人と云っても相当な勢力者のものであろう。

当時、ここで奴隷の娘を侍らせて頻繁に宴会を開いていたと云う。こうしたメルブ一帯の建造物は、当時この地の支配者であったホルムズ王が侵入してきたモンゴル軍に敵対したため、完膚なきまで破壊されたと云う。
この城は小キズ・カラと一緒に珍しく残ったものであり、壁の厚さは23mはあろうか、結構頑丈なものである。内部は土の山になっているが、古代のモスクの跡がわずかに残っている。千数百年経っているとはいえ、当時の繁栄を偲ぶことが出来る。他の付近の建造物は土の山になっている。

 

6.六分儀

六分儀と云えば天体観測に欠かせないもので、我々が通常見るのは携帯用のものである。ところが、ウズベキスタンサマルカンドにあるウルグベク天文台にある六分儀は馬鹿でかいものである。写真はそれを示したもので、高低差44m、弧の長さ63mもあって、立派な建屋の中に収まっている。


内部は階段になっていて、下り上りが出来る。これは20世紀になってロシア人によって発見されるまで土に埋もれていたと云う。この六分儀は時の王ウルグベク1424年に建造させたものである。彼は為政者であったがいろいろな分野の学者でもあり、特に天文学に通じていたと言われている。
イスラム人15世紀にはすでに精密な天体観測を行っており、この六分儀で観測した一年の時間は現在のものと1分も違っていないと云う。

 

7.摩天楼

いきなり、「イスラム圏にも摩天楼がある」と云っても信じがたい人が多いであろう。実は古くから存在している。古き良き時代の産物であろう。

写真7,8はそれぞれイエメンの首都サナアと、そこから500kmほど東に位置した砂漠の中の都市シバームにあるビル群である。

7.1 サナアの摩天楼

 旧市街にあって、高いもので7〜8階建ての美しい重厚な石造りのビル群からなっている。古いもので築400500年、イエメンの最盛期の良き時代の頃のものである。この町に対して“アラビアの真珠”、“64のミナレットを持つ町”、“1000万個の窓を持つ町”などと様々な呼び方がされている。

当時イエメン商業都市として栄え、サナアは最も強大な力を持っていた。因みにサナアの意味は「物が生み出される町」と云う意味である。建物にある多くの白枠の窓が印象的である。玄関に相当する個所は頑丈な木の扉になっており、壁になっている石積みは分厚く、防御の機能も備えている。現在、イエメンは地下資源に恵まれず、中東では貧乏国と言われている。

7.2 シバームの摩天楼

写真シバームの町の近くの丘に上がって、左手からの西日に映えている摩天楼群を写したものである。右手前に少し見えるのが新市街の一部である。

ここは「砂漠のマンハッタン」とも呼ばれており、高さ30m前後の500棟ほどのビルが密集している。周りは日干し粘土の城壁で囲まれている。
この町の起源はDC3世紀頃に遡り、8世紀頃からこうした建物が作られ始めた。建物の壁の厚さは1m位あろうか、外壁は日干し粘土そのままでは数年しか持たないので頻繁に粘土で塗り直している。
漆喰で塗り固めると十数年は持つと云う。現在見られるものは古いもので築400年位である。築150〜200年位のものが多いと云う。いずれにしても補修は常に行われていると云う。摩天楼群の向うはナツメヤシの林になっている。

 

8.沈黙の塔

沈黙の塔とはイランの中央部、ヤズドと云う町の郊外にある鳥葬場であり、写真にそれを示した。小高い丘の上にあって、泥を塗った石壁で円形に囲まれている。遠くからは一見城のようである。

石壁の内部は写真10で見られるように可なり広くなっている。真ん中に直径数mの窪みがあり、「これは何ですか」と聞くと、「鳥葬は鳥が食べ易いように遺体を穴の周りに張り付け状に建て、日数が立って骨だけになったらその穴の中に入れる」と云う返事であった。
穴は骨を入れる「骨箱」ではなく「骨穴」であった。何だか背筋がぞーとする話である。でも、鳥葬をする人達はそれによって亡くなった人が鳥と共の空に舞い上がり、天国に行くと信じているのである。

遺体を入れる穴

ヤズドにはこうした鳥葬場が男性用と女性用と向かい合って造られている。さすがに、1930年頃になると当時の王様によって禁止されたと云う。
インドに行った時に、未だ一部では鳥葬の風習があると聞いたが見てはいない。なお、写真10の左手の建物は水場である。下には水脈があって、ここから水を汲み上げている。

 

9.その他

イスラム教・シーア派の聖地になっているイラン北西部の町マシュハドハラメ・モタッハル広場と云う所がある。この内部の敷地は広大で黄金のドームを持つエマーム・レザー聖墓、青いドームを持つモスク各種博物館、神学校などがあり、その数々の建造物は全て美しいタイルで覆われており壮観である。
女性見学者はこの広場に入るのにチャドを纏わねばならない。不信心者はエマーム・レザー廟に入れないことは言うまでもない。
また、内部には迷子案内所がある。対象は子供ではなく、専ら大人である。これはガイドの跡について行かないと必ず迷子になってしまうほど紛らわしい建造物が多く、錯綜しているためである。我々のグループでもガイドのもとを離れた人2名が迷子になって大騒ぎをした。
内部は撮影禁止なので外周のタイルで装飾された壁状の建物を写真11,12に示した。これからも内部の建物の大きさが想像出来よう。

ハラメ・モタッハル広場

広場のタイル壁

この宗教施設に要する費用は膨大なものと考えられる。また、絶えず補修をしているらしく、その経費も相当なものである。これだけの経費を経済活性化に向けたら民衆の暮らしはもっと楽になるであろうに。   

その他のタイル壁の美しい建造物の例を下記に示します。(追加で月岡さんに送ってもらいました)

イラン ゴムのハズラテ・マアスーメ聖廟

ウズベクスタン サマルカンドのアク・サライ(白い宮殿)

 

10.町中で

建造物の堅い話が続いたので最後に三枚の女性の写真を紹介しよう。近くで写真を撮るときは相手に撮影許可を求めるのが礼儀である。
殆どの人はOKと云ってくれる。どうも写真を撮って貰うのに興味があるらしい。デジカメなので、撮影した後に直ぐに写真を再生して見せると大変喜んでくれる。

写真15イエメンの田舎の町ワディ・ダハールにある宮殿の前で写したものである。手に刺青をしている。一週間ぐらい経つと消えていくと云う。彼女らにとってこれがお洒落なのである。

写真16イランアブヤーネ村の町かどで写した子供の写真である。右の女の子が持っているのは何だと思いますか。これは民芸品の売り物なのです。彼女らはこうした小さい時から商売しているのです。十代の子供にもなるとその商売の仕方は相当したたかになります。値段の交渉は1/3から始めるのが常識のようで、最後は半値ぐらいに落ち着くようにする。これでもまだ交渉の仕方が甘いと云う人もいる

        

写真17イランの北東の部の町マシャドで出会った新婚夫婦との写真である。少し無粋かと思ったが奇麗な色白の女性だったので、女性だけの写真を撮るだけでは勿体ないと思って「一緒に撮らして貰って良いか」と聞いたら喜んで直ぐに「OK」とのこと。勿論旦那も一緒である。
旅をしているといろいろ面白いことがある。日本ではこのようなことは到底できない。

 

11.中東と中央アジアのイスラム建築を見て

キリスト教圏での思い出に残る建造物と云えばお寺(教会)、城郭、宮殿、館などが思い当たるであろう。
イスラム圏もそれと同様であるが、城郭は西洋でも見かける町全体を城壁で囲っているものが殆どで、単独の城はあまり見かけない。
城壁の内部にはモスク、一般家屋は勿論、スーク(商店街)、製造業など民衆の生活に必要なものが全て入っている。一般民衆と一蓮托生とでも云うのであろうか。  

イエメン パジャワの都市(町そのものが城砦)

次に、イスラム圏では建設しては破壊され、所謂、Built And DestroyDestroy And Buildの繰り返しの建造物が多いように感じられた。それと云うのも、イスラム圏では7世紀にイスラム国家創建後各イスラム王朝の争い、十字軍の侵入、モンゴル軍の侵入、チィムール軍による制覇、オスマン・トルコによる制覇、サファヴィー朝によるイラン国家創建などで数多くの戦火に見舞われ、その都度、時には完膚なきまでに破壊されたりしているためと考えられる。
かって、ホレズム王国の中にあったヒヴァ(現在はウズべキスタン領)の町のように、BC2000~3000年からの歴史を持ち、1014世紀ごろ大いに栄えた。しかし、交通の要所でもあったため、時代の波にもまれて破壊されながらも再建が繰り返され或いは修復が繰り返された。現在のヒヴァは大昔の繁栄を連想させるのに十分な町で、2重の城壁に囲まれた素晴らしい見応えになっている。街中に入ると千年も昔に戻ったような感じがする。町全体が世界遺産にもなっている。また、キズ・カラのように大昔の城郭がそのまま残りながらも、時代の交通要所から外れていたために忘れられた存在になっている建物もある。

レバノン パールベックのローマ時代の都市跡

 現在見られる多くのイスラム建造物の大きな特色は何と言っても16世紀頃から使用された化粧タイルの利用であろう。
これはシルクロードを経て中国から伝わった技術であろうが、西洋の建造物にはあまり見られない現象と思う。タイルの利用によって建造物は素晴らしい美しさを発揮し、または荘厳とも、時には華美とも妖艶とも感じ取られるようになっている。
一方、タイルが用いられるようになってからの建造物は、人為的に破壊された場合はともかく、タイルの劣化が殆ど無いので保存状態は良くなり、今日我々の前にその美しさを現しているのである。とにかく、イスラム建築に見られるタイルは美しい。

 訪問してはいないが、イラクバグダードの町は8世紀に建設され、宮殿を中心に同心円状になっている綺麗な町だと云う。勿論、今は相当破壊されていると思うが、一度行ってみたいものである。

こうしたイスラム圏の優れた建造物出現の裏にはイスラム圏15世紀末迄、経済面でも、各種技術面においても世界のトップレベルにあったことを見逃すことが出来ない。ムガール帝国のある君主はヴァスコ・ダ・ガマ胡椒と交換するために持ってきた商品の貧弱さに呆れて、「交換したいならば次からは金を持って来い」と云った逸話があるほどである。

 

12.余談

イスラム圏で体験した面白い話をいくつか披露したい。

 礼拝は?

 イスラム圏の都市では「金曜日のモスク」を頻繁に見かける。このモスクはイスラム教の信仰行為の一つに「一週に一度金曜日には必ずモスクに行ってお祈りをしなさい」とのことから建設されたものである。しかし今は「全ての人は実行していない」とのことである。
また、「ムスリムの信仰行為の一つである一日5回のメッカに向かって行うお祈りは実行しているのか」と聞いたら、「ケース バイ ケースで、時間があったらお祈りをするし、お祈りが出来ない状態の仕事に携さわっていたらしない」との答えであった。
こうしたお祈りに対しては可なり自由度があるらしい。なお、我々が泊ったホテルの部屋にもお祈り用の小さい絨毯が備え付けられていた。

 貴方の国で「出来ちゃった結婚の例があるのか」

と聞いたら、「OH NO、そんなことをしたら街に住めなくなるし、そういう発想も無い」とのことである。
従って婚約していても婚前同衾などは有り得ない。結婚は親の取り決めで大体決まるそうである。「チャドを被っている娘さんの顔を確かめることは出来でしょう。そういう時はどうするのか」と聞いたら、「親の取り決めたことに大きな不満は無いが、自分の思いと違っている場合もある」と云う。

とにかく、イスラムの教えに反したことをしたら、周りから相手にされなくなり生きていけないらしい。
倫理観は相当厳しい。いや、現代の欧米風がおかしいのかもしれない。

 イスラム圏での女性は顔を隠す程度の差はあれ、多くの女性はチャド或いはスカーフで覆われている。

しかし、町中のお店では日本では到底見かけることのできない女性用のすごく華美な衣装が売られている。「これはどういう女性が、どういう時に着るのか」と聞いたら、「普通の女性が家で着る」のだそうだ。
旦那や家族の中では「OK」で、「外出時、他人の前では駄目」と云うことである。外で着飾れない鬱憤が家の中に持ち込まれているのだろうか。

 本編の冒頭でイスラム圏では掻っ払い、掏りなどはいないような記述したが、

そうした少数のはぐれ者はスークやスーパーマーケットのような人混みの多い所では世界の国々と同様、例外なしに存在する
前回の旅行でも一人の女性がスーパーマーケットでポケットに入れておいたデジカメが掏られた。ガイドは人混みの多い所では掏りに注意するようにとしつこく注意している。
しかし、特に日本女性は買い物になると我を忘れて商品の選択に夢中になるらしい。それが掏りの狙い目ともなるのであろう。
因みに、世界中で何処の国が最もすりが多いと思いますか? 私はイタリヤとフランスだと思いますが。

 

イスラム教とは

イスラム教610年にムハンマド大天使ガブリエルの啓示を受け、それから22年間に亘って受けた啓示を逐次身の周りの親類縁者から部族のものに話をして、それが支持されて広まっていったものである。
ムハンマドは神の言葉を人に伝える使徒であると同時に預言者である。神と直接的な繋がりを持っている。その神の啓示を文章にまとめたものがコーランである。コーランキリスト教、ユダヤ教などと類似性を持っているが、神に関する記述ではなく、神の言葉そのものなのである。
また、コーランは憲法であり、人間生活に浸透していかねばならないものである。ムスリム達(イスラム教を信奉する人々)はコーランに従うことが義務なのである。
イスラム法には信仰行為、儀礼、社会行為、商業契約、婚姻、相続、など公私を問わず規制されている。
こうした点がキリスト教、仏教などと大きく異なるところである。また、イスラム教の信仰行為には①信仰告白、②礼拝、③喜捨、④断食、⑤巡礼がある。
他にジハード(聖戦)を認めている。これは6の信仰行為とも言われている。このジハードには次の2つがある。

大ジハード内面の悪と人生を通じて戦うこと。

小ジハード:法的な戦争で、対象はイスラム領土と接する不信者でなければならない。

これからすると、現在のアメリカイラクやアフガニスタンへの侵入イスラム法に照らし合わせると小ジハードに相当するものと解釈し、厳格なムスリム集団が戦争の手段はともかくとして小ジハードを行使しているのではないだろうか。

 

近年、殆どのイスラム諸国は西洋式近代化と世俗国家へと移行している。しかし例外として、婚姻などの家族法は従来通り残っている。
これまで、ウラマーイスラム教法学者)達は上流知識者層社会を引っ張ってきたが、近代化によりこれまでの権威を剥奪されたため社会の安定性は損なわれた。
この西洋式近代化と、社会の安定性を担ってきたウラマーの社会への寄与の問題が今日解決しなければならない課題として残されている。

なお、最近の中東で起こっている米国式解放戦争は、非ムスリム達には理解できてもムスリム達には受け入れられない。
もう少し深いレベルで見るならば、イスラム社会の内在的危機はイスラム政府が西洋化、世俗化してきていることである。
敬虔なムスリム達はこの西洋化、世俗化の正当性について批判的であり、政府とムスリム達のギャップがイスラム社会の大きな課題である。

最後に、記述には偏見や間違いもあると思うがご容赦願いたい。また、何かお気付きになりました点があれば御指摘頂ければ幸いである

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