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海外自転車旅行(シチリアーその2)
世界遺産を訪ねて
汽車でシラクーサへ
本来ならばサイクリング最後の日なのですが、私達はサボって汽車に乗ることにしました。この辺がいい加減な私達の楽しみ方です。
ヨーロッパでは大体どこでも自転車を列車に乗せられます。
シチリアでもそうでした。ホームの高さが日本と比べ低いために写真のように担ぎあげます。車掌が助けてくれるのも各国共通のようです。
これは助かっています。
いろいろな疑問
世界遺産の街々のサイクリングをしていて、いろいろな疑問を持ちました。
その中でも二つの疑問がありました
一つ目の疑問はローマ時代、シチリアはローマの穀倉地帯だったというのですが、現状のシチリアから はとても想像できない。
牧草地もあるのですがが、ほとんどの土地が写真のように灌木以外は岩だらけといかにも痩せた土地だから です。
シチリアの風景
「ハンニバルの象はどこから連れてきた?」一時歴史学者の間で大きなテーマになったことがあるそうです。 カルタゴ(今のチュニジア)からローマに遠征した時、ハンニバルが率いた象はどこの象かという問題で す。
ハンニバルの進路
結論は、現在砂漠になっていて象が成育できないチュニジアなのです。当時森林地帯だったのが、森林伐採 が 進んだため環境破壊により砂漠化したというのです。
シチリアも同じことなのでしょうか。
二つ目の疑問は、今シチリアはイタリアの中で、最も貧しいと言われている州なのですが、街々の街にあ る聖堂はあまりにも立派すぎるのです。 この資金はどこから出たのだろうか?
また1693年の大地震から復興した各都市の聖堂は実に見事なものでした。
一体どこからこの資金が出たのか、「シチリアは工業化に立ち後れ、今はイタリアの中でも、最も貧しい州に なっているが当時は豊かだった」ということを聞きました。
一方陣内秀信著淡交社発行「シチリア」の中で18世紀後半のシラクーサについて「当時の南イタリアの民衆 は貧しかった。
洗濯物も汚れていたし、集る女達の服装も汚く、あるいは半分裸同然で、みだらな感じさえあった」と解説して います。
1693年、18世紀後半と約100年の差がありますが、経済がそれほど変わることはないでしょう。となると、少 数の貴族が富を独占していたか、貧しくても信仰心の篤い民衆が基金したかのいずれかなんでしょうが。
それにしても、現在のシチリアとの差が大きすぎるため、理解するのに一苦労です。
一方このようなことを推測しながら旅行を続けるのも旅の一つの楽しみです。
シチリアの世界遺産を尋ねて
サイクリング旅行はシラクーサで終わり、その後はシチリアにある世界遺産を汽車、バス、時にはタクシーを使って訪ねました。
シチリアの世界遺産
この小さな島に、世界遺産が五つもあります
この中で、アル・ディ・ノート・後期バロック様式の街々はサイクリングで訪れました。(シチリアーその1)
その他のシラークーサ、ピアッツァ・アルメリーナ、アグリジェントをサイクリング行程の終点であるシラークーサから、大きなギリシャ 劇場が残っていて、今は観光地となっているタオルミーナに立ち寄り、ピアッツァ・アルメリーナとアグリジェントはタクシーを使って行き ました。
シラクーサとパンタリカ岸壁洞窟群
シラクーサは、ギリシャ時代にアテネと同じぐらい繁栄したと言われる。かの有名な天才数学者アルキメデスを生んだ町であり、太宰 治の小説「走るメロス」の舞台となった町でもあります。
紀元前13世紀から紀元前7世紀にかけてのシチリア先住民族の洞窟型墳墓が、イブレイ山地の峡谷の岩壁に、5000個以上残るパン タリカがありますが、ここは行きませんでした)
シラクーサにあるネアポリ考古学公園。
ギリシャ人が入植を始めたのが紀元前756年、その後発展を遂げペルシャ戦争ではアテネから援軍の要請を受けるほどだったそうで す。しかし、あまりにも巨大化したため反感を招き、アテネ軍は250隻、4万人の兵を送り込んできた。(紀元前415−413)
しかし、シラクーサに破れ、7千ものアテネ兵が閉じ込められたという場所です。
ネアポリ考古学公園 ディオニソスの耳
右はネアポリ考古学公園の中の天国の石切場、その中でもひときわ大きいディオニュシオスの耳と言われている石切場跡です。
ギリシャ劇場
ギリシャ劇場では 今でも2年に一度ギリシャ劇が開催され、音響効果抜群で拡声器なしでも音が聞こえるとの事。(確認してくるべきだっ たと後悔)
中に移動式トイレがあった。当時どうしていたのだろうか。私なりの結論(奴隷に便器を持たせていたのでは)」
街の中心部にある、石造りの神殿では最古だといわれているギリシャ神殿の跡
ごく普通の路地、但しこの路地は古代ギリシャ時代の都市計画に基づいて作られた道路です。
当然建物は造り直されているものの2500年前の区画がそのまま使われているというのは信じられない話。
陣内秀信著 淡交社発行「シチリア」でこのことを知ったが、現地には何も目印はなかった。名所史跡が多い中で特に取り上げることでも ないのかもしれない。
6月は結婚式シーズンなのだろうか、多くの結婚式に出合った。
花嫁と花嫁の父が、ドゥオモ(大聖堂)の前で記念写真を撮っていたが男性のみならず参列する女性も黒装束、何となくマフィアを思いださ せる雰囲気だった。
ピアッツァ・アルメリーナ
ローマ時代3世紀の終わりから4世紀の始めにかけて建てられた、夏の別荘、中世の時代に、後ろの山で土砂崩れが起こったため、何 世紀も土の中に埋もれていた。
屋敷のモザイクの床は、そのため保存状態がよいことで知られている。
写真左は有名な10人の”ビキニ”の少女のモザイク。 右は40もの部屋の一つ、オルフェの間で 音楽を聴く今であったと想定されてい る部屋。
当時ローマから馬車で何日かかってきたのだろうか。
また多数の奴隷を引き連れてきたのだろう。別荘地として使うのには数ヶ月は住まなくてはなどと考えてしまう。
アグリジェント神殿の谷
紀元前480年、シラクーサの協力を得てカルタゴ軍を破り、その賠償金により神殿を建設するも、紀元前406年カルタゴの逆襲により 神殿は破壊される。
その後カルタゴの支配が続き、第一次、第二次ポエニ戦争によりローマの支配下になる。
写真左はアグリジェント神殿の谷の中の一つの神殿、コンコルディア神殿で古代ギリシャ神殿の中で唯一、異教徒(キリスト教)の教会行 事に使用された。
そのため古代ギリシャ神殿の中でも最も保存の良い状態の一つとして残っている
写真右は城壁の一部、カルタゴとの戦いの跡か、焼けた跡が見受けられる。広大な敷地にこれら遺跡が残っている。
当時、映画で見るようなギリシャの服を着てギリシャ人達がここを散策していたのだろうが、なかなか想像出来ない
ジュピター神殿の人像柱
紀元前480年ー470年以降に建造されたが未完のうちにカルタゴにより襲撃され、その後地震で崩壊がれきの山になった。
写真は7.75mの人像柱、神殿を支える柱の一部だったと考えられている。屋外にあるのはコピーでオリジナルは考古学博物館に保管され ているが建家が大きいせいか、屋外の方が大きく感じました
タオルミーナ
以上で世界遺産の旅は終わり、引き続いて観光地タオルミーナと州都パレルモを訪れました。
ホテルからのイオニア海 タオルミーナのギリシャ劇場
写真右 背景にイオニア海とエトナ山という絶好の場所に建設されたタオルミーナのギリシャ劇場で、シラクーサ最盛時、時の僭主デ ィオニュシオスによってギリシャ化された都市。
今回私たちが訪れた3箇所のギリシャ劇場に共通しているのは景観が抜群の地で あることでした。
パラッツォーロ・アクレイデこそは内陸にあるため、海こそないのですが小高い山の頂上に位置していました。
ギリシャ人は常に自然の中での生き方を考えていたのだと思われます。
ギリシャ神殿は、壁がない。それがキリスト教に使われると柱と柱の間に壁を作り室内空間をを重視するようになるそうです。
先に紹介した、ピアッツァ・アルメリーナの10人の”ビキニ”の少女のモザイクでも見れるようにローマ時代も自然の美を愛でることは 継続していたようです。
それがいつの間にか隠すようになりました。愛の感情を公の場で表現するようになったのはかなり年代が経った後のことです。
映画グランブルーのロケ地(観光地タオルミーナのホテル
)
グラン・ブルーという映画をご覧になった方はいませんか。イルカに魅せられた潜水夫の物語で、非常に幻 想的な映画でした。
公開後、ハイティーンの若者達の絶大な支持を集め、映画館前は長蛇の列。上映前と終わりには、割れんば かりの拍手が映画館を埋めるような狂騒となった。
フランス国内の観客動員数は1000万人、パリでは187週連続上映という記録を打ちたてた。彼らは「Grand Bleu Generation」と呼ばれ、社会現象にまでなった。
映画の撮影に使われたホテルのレストランです。あいにくランチは休みでした。」
パレルモ
現在の州都であす。シチリアの歴史は、ギリシャ・ローマ・ゲルマン大移動・ビザンツ帝国・イスラム・バ イキングと我々が高校時代に世界史で習った出来事が次々と出てくる。
ギリシャ人が入植を開始したのが紀元前756年、その後アルキメデスを生み本国ギリシャの都市以上に繁 栄したシラクーサがローマに破れたのが紀元前212年。それまでギリシャ時代が500年以上も続いたことに なる。
その後ローマ時代も500年以上続き、ヴァンダル族がシチリアを併合したのが紀元後468年、東ゴート族、ビ ザンツ帝国、イスラムの支配を経て1072年ノルマン人が パレルモを征服する。
ノルマン人というのはバイキングのノルマン人である。ブリタニアと西フランク王国の一部をノルマンディ公国と して領有し、2.3男以下の騎士達が、征服者、傭兵としヨーロッパ各地に出かけた。
特にイスラム、ビザンツ、神聖ローマなどの支配が入り交じり政情が不安定な南イタリアは格好な移住先で、ノルマン人の勢力が増大し南イタリアとシチリアを合わせた両シチリア公国が誕生した。
当時パレルモには世界中の科学者や文学者が招聘され、モロッコの地理学者が献上した書にはコロンブ スより3世紀も早く「地球は丸く均一に海水に覆われている」との記述がある
世界史の参考書の中に「第5回十字軍(1219-21)はアッコンからイスラム側の軍事的、経済的拠点のエジプト に向かったが、カイロに達する前に敗北したその後親イスラム的な皇帝フェデリーコ2世とアイユーブ朝の外 交折衝により一時イェルサレムは返還される」とありました。
この中の皇帝フェデリーコ2世はシチリア王で教皇から神聖ローマ皇帝に加冠され、ヨーロッパ史の表舞 台に立っている。
彼の死後は、教皇庁シチリア王位をまずイギリスに次ぎにフランス国王の弟アンジュー伯シャルルに転売 。更にスペイン王国が誕生すると、グラナダの対イスラム戦の費用は シチリアの増税でまかな われ、16世紀以降オスマントルコの前哨基地とされギリシャ人難民を受け入れ、パレルモ始め各都市は要 塞化され大がかりな都市計画が断行されイエズス会とともにバロック芸術がもたらされた。
大司教が建設したパレルモ大聖堂 パレルモ大聖堂に対し王がパレルモ郊外に建設したモンレア−レの大聖堂
写真左はスペイン領時代のバロック都市計画の基に作られた二つの大通りの交差点にある。
クアットロ・カンテイ(十字路の意味)十字路に面した四つの建物はその角を均等に弧を描くように丸く切り取られ、隔壁面には3段づつの 装飾が施されている。」
写真右はフィレンッツェのある屋敷のために制作されたものを移築したもので、アラブ色濃いパレルモにルネッサンス建築が並ぶことに なった。
写真はゴッドファーザー第三部に出てくるオペラハウス マッシモ劇場です。 1897年ヴェルデイの「ファルスタッフ」上演により幕を開 け、当 時はパリのオペラ座に次ぐ2番目の大きさを誇った。
この頃のシチリアは1860年イタリアに併合されるが王国の統治に島民の不安が募り、各都市でストライキが頻発。世紀末より出稼ぎ移民 の増大とある。オペラハウスの資金は一体どこから出たのだろうか。
写真左は自転車に乗る前だったら気付かなかったであろうレンタル自転車の広告です。外国の都市では結構見うけられます」
写真右は始めなんだか判りませんでした。マグロのフライです。マグロを胴割にするんですね。
旅の感想
自動車の運転が出来ないので、自転車旅行をしていますが、改めて振り返ってみるとシチリアでは自転車旅行のメリットがなかったよう です。
その大きな理由は、見所が点と点で途中の線上にはほとんどなかったのです。このような状況ではレンタカーの方が良いですね。
これも経験してみないと分らないことです。
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