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先ずは私がチベットに行くことになったきっかけについて述べたい。 チベットは海抜3,650mの高地にあるラサを都とする中国内の自治区一つで、広大な土地を占めている。チベット人はここを中心に四川省、青海省、甘粛省などにも多く住んでいる。昔、吐蕃と言われた時代はモンゴルに接する所まで勢力圏を伸ばし、当時の唐でさえも皇帝の娘を吐蕃に輿入れせざるを得ないほど強力な国であった。 こうしたチベットはご存じのように密教の本場である。私は密教の本を多少読んでおり、特に曼荼羅に興味があった。 日本にある曼荼羅は胎蔵界、金剛界ともに高野山で、立体曼陀羅は京都の東寺と高野山の大塔で見ただけで、是非本場の曼陀羅を見たかった。 また、2006年4月、バルカン3国に旅行した時に、“チベットは綺麗な所で、新しい発見が出来る所でもあるので是非行ったら良いですよ”との同行者の勧めもあった。 折から、青蔵鉄道は西寧—ゴムルド間の海抜2,000m前後の814kmは既に1979年に営業運転していたが、ゴムルドーラサ間海抜4,000〜5000mの高地を走る列車が2006年7月1日に営業運転するとのことであった。 これは良い機会だ、是非西寧からラサまでの海抜5,000mに及ぶ高地を走る青蔵鉄道の列車に乗って崑崙山塊の旅をして見たいと思った。それで急遽2006年8月にチベットに行くようになった次第である。 チベットに行くに当たり、チベットとはどういう所かを知っておいた方が旅行に行っても楽しい。そこで、先ずはチベットの歴史を急遽勉強した。以下にチベットの簡単な歴史と現在の状況を述べよう。
1.歴史 1.1創世紀 チベットにも日本の天孫降臨と似たお話がある。それはチベット西南部、ネパール国境近くにあるスメル山を中心に世界が誕生し、ここから生物が発生していったと云う話である。 スメル山はエヴェレスト山脈にある現在のカイラス山(6656m)と言われている。この山は四角錐状の形をしており、各面が東西南北に向いた砂礫層からなる独立峰で、今でも聖山とされている。 チベット人の起源に対して面白い言い伝えがある。それは「ある時、観音菩薩によって化現された一匹の猿がガンポ山(現在の古都ツェタンの背後にある)で瞑想していると、そこに一匹の羅刹女が来て猿を誘惑し、結婚を迫った。拒否すると、最後には万の生き物を殺して、千の生き物を食べると脅して結婚を迫った。猿は観音菩薩に相談して羅刹女と結婚した。こうして出来た子供の末裔がチベット人の起源と言われている。」と云う話である。どこの国にも創世紀の面白い話があるものだ。 初代の王はインドから来たと云う。インドの王家に異形の赤ん坊が生まれ、箱に入れられてガンガー河に捨てられてそれを農夫が拾った。その子は長じてガンガー河を遡り、チベットに向かったと言う。 チベットに着いた子は放牧していた牧夫に「何処から来たか」と尋ねられと天を指した。牧夫は「天から来た天子である。我々の王にしよう。」と言って王に推戴した。これが初代の王ニャーティ・ツェンポである。 1.2 吐蕃王ソンツェンガムポ ニャーティ・ツェンポから27代目の王の時、ツェタンにあるユムブ・ラカン宮の屋上に空から観音菩薩の修法を記した複数の聖典と金の塔が降りてきた。それとともに「汝より5代目にこれらの意味を知る王が現れるであろう。」と云う声がした。27代目より数えて5代目の時に、菩薩はチベットを教化すべき時と考え、体から3本の光線を放った。 即ち、 右目からの光:ネパールに向かい、ネパール王妃の腹に入った。 左目からの光:中国に向かい、中国の王妃の腹に入った。 心臓からの光:チベットに向かい、ナムリソンツェン王の妃の腹に入った。 ナムリソンツェン王の妃から生まれた男の子は13歳で即位してソンツェンガムポ王(581~649)になった。この王は実在した人物であるが、神話めいた話も多くある。王は臣下に次のことを禁じた。即ち、 悪行として、 身体を使ったもの:殺生、盗み、邪悪な性欲。 言語を使ったもの:嘘、二枚舌、悪罵、言葉を飾ること。 心を使ったもの:貪り、怒り、邪悪な考え。 また、自分の頭上から分身を送り出し、インドから栴檀の木で作られた観音菩薩像を取り出して本尊とした。 現在、この本尊はラサのポタラ宮の最高所にある聖観音堂に祀られている。王はその後ネパールのティツウン王女、中国の文成公主の二人の妻を迎えた。この二人の王女は実在した人物で、夫々の国から由緒ある釈迦牟尼像をチベットにもたらした。 ソンツェンガムポ王時代の吐蕃は、当時の中国・唐の皇帝が姫の文成公主を吐蕃王に輿入れしなければならないほど強力な国家であったことを物語っている。 こうした古代チベットの説話から、チベット国家の成立が仏教伝来に密接に関係していることが窺える。こうしたことは日本も同じで、仏教を国家の政治に利用している。
1.3 仏教の発展と衰退
9世紀にランダルマ王が現れ、仏教を弾圧した。ランダルマ王の死とともに古代国家は崩壊し、仏教も衰退した。 1.4 宗派の成立 10〜11世紀のリンチェンサンポの時代なると仏教は復興し始める。復興した仏教は後伝仏教と云われている。これに対して、ダルマ以前の仏教は前伝仏教と呼ばれている。両者の違いは下記のような密教部分にあると云う。 前伝仏教:禅に似た悟りを説く 1239年にチベットはモンゴル軍に侵攻されて属国化された。その際、チベットを代表する聖者を差し出すよう要求された。 1.5 ツォンカパ
理趣経にはこのような事が記載されている。日本では、この経は一般の人には読ませたくなく、一定の修行を積んだ人でないと読んではいけないとされている。 しかし、本屋には売っており、誰でも読むことが出来る。 1904年、イギリスがチベットに侵攻してラサ条約を結び、イギリスはチベットとの通商で優先権を持つようになった。 1910年清朝軍はイギリスのチベット干渉に対抗してラサに進駐した。この時、ダライ・ラマ十三世はインドに亡命した。 同年、インド北部のシムラでチベット、イギリス、中国の三者がチベット独立に関する会議が行われたが、中国はチベットの独立を承認しなかった。しかし、この時から1949年までチベットは事実上独立状態であった。 1949年、中国共産党軍はチベット解放を宣言し、翌年、この名の下にチベットに侵攻し、数々の僧院を焼き払い、東チベットを占領した。 ダライ・ラマ十四世はまだ幼く、中国軍に屈した。中国はチベットに17カ条からなる協約を突きつけた。この協約はダライ・ラマの至高性や伝統文化の尊重をうたっていたが、ついぞ守られることはなかった。 1959年、中国軍はダライ・ラマを中国に拉致しようとしてノルブリンカ離宮を取り囲んだが、ダライ・ラマはかろうじて脱出してインドに亡命した。 中国はダライ・ラマ十四世の後にパンチェン・ラマ十世をチベット代表にした。 1960〜1970年の中国文化大革命の時パンチェン・ラマ十世は投獄され、他の僧侶は投獄または還俗を余儀なくされた。この時、チベット内の多くの僧院や仏像が破壊された。 この破壊の跡は一般観光で見せてくれない。1965年、中国はチベットを自治区として成立させた。 パンチェン・ラマ十世は1989年にシガツェのタシルンポ寺で死去した。中国による謀殺説もある。 パンチェン・ラマ十一世はダライ・ラマ十四世によって公表されたが中国はこれを認めず、パンチェン・ラマ十一世を中国に拉致し、同時に関係者を処罰した。 1995年、中国は新しくパンチェン・ラマ十一世を金瓶儀礼(一種のくじ引き)で定めた。 1989年、ダライ・ラマ十四世は中国に対する一貫した非暴力の姿勢を評価されてノーベル平和賞が授与された。 少し長くなったが以上がチベットの歴史の概観である。以下、チベット旅行記を紹介したい。
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