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海外旅行記2:チベット編(その3)

ラサとその周辺です

4.ラサ(拉薩)

 

4.1 ポタラ宮

ラサと云えばポタラ宮ポタラはサンスクリット語の「ポタラカ」で「観音菩薩が住む山」の意味である。まず写真1617にその昼間と夜間の写真を示した。綺麗ではあるが、一風変わった建物である。

   

昼と夜のポタラ宮

 私にはアンバランスな建築物としか見えなかったが、それが美しいのだと云う意見の人が専らであった。

向かって白い建物が白宮、真ん中の赤い建物が紅宮である。外から見ると大きい建物であったが、中に入ると部屋が細かく仕切られていて一部屋の大きさは意外に小さい。

紅宮134階の仏殿、御堂、霊廟、立体曼陀羅などに金をふんだんに使い、宝石をちりばめた仏像、仏具がやたらに沢山見られた。

建物の内部の撮影は禁止である。説明を聞いただけではそれをメモしても良く分からない。いずれにしても凄い。

でも、一回の見学だけでは各箇所の区別がつかず、細かい所の記憶は殆ど残らない。23回行かないと駄目だと思った。

それだけ、膨大な仏像、仏具があったと云うことでもある。ポタラ宮は寺、政庁および城の役目を果たしている。

ポタラ宮3,650mラサの町中から約100mの丘の上にあるのでゆっくりゆっくり登らねば息が切れてしまう。

途中に、チベット語で経文を掘った石板が道の脇に置いてあった。信者がご利益のために奉納したのだそうだ。上からはラサの町全体が見え、その景色は素晴らしい。

 

4.2 ジョカン(大昭寺)

写真ジョカンの正面であり、ジョカンジョカン寺とそれを取り囲むトゥルナン寺からなり、その間にはぐるりとマニ車がつり提げられてある。マニ車には経文が入っており、これを回すと経文を読んだことになりご利益があると云う。

ジョカンの正面

沢山のマニ車

  ジョカン寺の主殿とダライ・ラマの王座のある建物

ジョカン寺内は十数個の部屋に分かれ、その中に夫々仏像がある。兎にかく沢山の仏像である。ここも金がふんだんに使われている。




ジョカン前の広場では沢山の人が五体打地を行っていた。

チベット式お祈り方法である。

遠い所から五体投地を行いながら何カ月もかけて旅をし、ジョカンに参拝に来る人もあると云う。

ジョカンの周りはバルコルと云って、ここの道の両側には沢山の土産物屋が店を出していた。








 

4.3 セラ寺

ラサの中心から8kmほど離れた所にあり、山の麓である。ここは修業中の坊さんが中庭で毎日2時間ほど問答をすることで有名だ。


なんでも、その日に習ったことを坊さん同士が問題を出し合って復讐するのだそうだ。

例えば「・・・・・はどうか」、「それは・・・・・・こういうことだ」といった具合に問答し合っていると云う。


これはその様子を写したもので、身ぶり手真似が面白い。

周りで観光客が沢山見ているので余計力が入るらしい。













         右は問答修業を終わって僧房に帰る修行僧たちである。










 

4.4 デプン寺

この寺はジョカンから西北に12km程の所にあり、我々は丁度デプン寺ショトン祭(雪頓節)に遭遇した。

これは20×20m程のタンカ(仏画を刺繍したの織物)を寺から担ぎ出し山肌にかけてお祈りする行事である。朝の暗いうちから沢山の人が目的地の山肌に集まってくる。

当日はあいにくの雨、一時は酷い降りになって中止かと思われたが、待つこと久し、二時間ほどで雨が止んだので御開帳の運びとなった。




まず、タンカを寺の保管場所から山肌まで運ぶのが大変である。

大勢の僧侶達がそれを担いで山道を運ぶ光景は大きな白蛇がくねっているようであった。

タンカを山肌に懸けるには、先ず、山肌に縞模様の布をひき、この上に何本もの綱が結び付けられたタンカを上にいる僧侶達が調子を合わせてゆっくりと引き上げていく。


完全に引き上げられるまで30分位かかったであろうか。








開帳されたタンカ



写真100m位の所から完全に御開帳された時に撮ったものである。凄く大きく、また綺麗なものでもある。観衆は良く見える場所の取り合いに懸命だ。

我々ツアーのメンバーも夫々迷子にならないように良く見える場所を探して見学した。

さて、御開帳を見て帰る段になると大変である。山を下りてくる人が、水が支流から本流に流れて来るように、麓の道は人人の洪水である。

 

5.シガツェのタシルンポ寺

シガツェラサから西240km離れた所にあり、ここにはゲルク派開祖ツォンカパの高弟ゲンドゥン・トゥプ(ダライ・ラマ一世)1447年に創建したタシルンポ寺がある。広大な敷地に沢山の仏殿、僧房などが配置されている。

この全体の素晴らしさは歩いて見学しても分からない。写真は、ホテルの壁にタシルンポ寺の全景が分かる大きな絵があったのでそれを示したものである。

タシルンポ寺(絵画)

写真弥勒仏殿を正面から見たものである。黄色い部分は金である。建物は何だか窮屈そうである。実際、建物の敷地は十分に取られていない。


寺の敷地内には修業中の坊さんが沢山いた。

写真はその一例を示したものである。


真ん中にいるお爺さんは誰だとお思いますか。

坊さんの長老?いやいやそうではありません。

我々ツアーのメンバーの一人二宮さんです。

それでも彼は私より三つ年下でした。

髭を生やすと歳をとって見えるのでしょうか。

 

6.ギャンツェのパンコル・チョエデ(白居寺)

ギャンツェ市街の北西の山肌に建てられているのが白居寺である。これは1418ギャンツェ王とその町の僧侶が共同で建設したものである。

ここで見応えのあったのが独特の外観をもつ8階13層のパンコル・チョルテン(仏塔)である。

巨大な仏塔

  

経文の勉強と経文

内部は77室あって、仏像や仏画がある。門を入った正面の集会場内には老若混合の僧侶達が経文を勉強していた。

その経文を写真に示した。厚手の紙であろうか、これに白色であったか金色であったか忘れたがチベット語で経文が書かれている。

経文は一枚一枚ばらばらになっていて綴じられていない。これらは長細い大きな木箱に保管されている。我々が通常見る本の形になっていないのでその分量は相当なものである。




 仏塔の最上部からの展望は素晴らしい。

遠くに城塞、近くにギャンツェの町が見渡すことが出来る。

城壁はこの写真の反対側にまでおよんでいる。

城塞
20世紀に入って直ぐ、インド方面からヒマラヤ山脈を越えて来たイギリス軍の侵攻に会ってあっけなく占領され、ギャンツェイギリス軍の手に落ちた。







また、ここでは写真に示したような金色に輝くとびきり綺麗で派手な仏像が見学できた。

 

7.ヤムドク湖

写真35は標高4770mカンパ・ラ峠から見た標高4,440mヤムドク湖である。ここはラサの南西140kmの人里から離れた高地である。それでも峠には少なからぬ土産物店があり、また、写真36に見られるような沢山のタルチョが張られていた。卓球台も置いてあり、店を出している売り子が商売そっちのけにして遊んでいた。

我々観光客は、5,000mに近い高地でよく息が切れないものだと感心して見ていた。峠からの紺碧色の湖は綺麗であった。遠くに見えるヒマラヤ山塊も素晴らしかった。

 

カンパ・ラ峠からの展望

カンパ・ラ峠で見た沢山のタルチョ

8.ツェタン

8.1 ユムブ・ラカン

ユムブ・ラカンツェタンの郊外の小山の上にあって、この地を治めて初代の王となったニャティ・ツァンポBC1世紀頃建設したもので、チベットでは最初の宮殿である。
 何度も改修されて創建当時のものは残っていないと云う。宮殿は3階建てだが内部はこじんまりしている。

 中には仏像およびチベットの名だたる僧侶や王の像が安置されていた。

  

ユンブ・フカン全景(宮殿を麓から見たもの)                     (裏側から見たもの)

宮殿の後ろには沢山のタルチョがあり、壮観である。傍に行くと足の踏み場も無いくらいであった。

ここにも沢山のタルチョ

 

8.2タントク寺

この寺はツェタンの郊外にあって7世紀に建てられ、同時期に建てられたラサ大昭寺と共通点を持つと云う。ここでは真珠で創られたタンカが有名だ。大きさは11.5m四方位だろうか。珍しいものであった。なお撮影は禁止だった。

 

9.チベットを旅して

チベットのお寺についての感想を幾つか述べて見たい。

1. チベットのお寺には、その規模の大小に応じて修業中のお坊さんを含めたそれなりの人が必ずいるようだ。
   しかも、坊さん達の熱心な勉強ぶりを目にした。お寺には活気が溢れているように見受けられた。


   日本で、一般のお寺には一人の坊さんだけ、またはお寺を維持するのに必要な人しかいない。
   総じて活気がない。永平寺京都、奈良など名立たるよほど大きなお寺でないと修行僧はいない。


 2. 日本で一般のお寺の経営は大変で、幼稚園などの副業をして所が多く見受けられる。
    チベットではお寺に沢山の人がいるが、総じて信心深い人が多く、沢山の寄進があって経営に困らないのであろうか。


    中国が侵攻して来るまでは、坊さんが国家元首であったので経営には困らなかった筈だが、中国の自治領になってからは国の援助    はどうなっているのであろうか。こんな事が気になった。

 3. チベットにはお寺が沢山ある。今回の旅行で見たお寺は主だったもののほんの一部にすぎないが、その特徴は一つのお寺に仏像が    たくさん並べられていること、多くのお寺では入り口を入ると右の壁から、正面、左の壁に亘って仏像が数えられないほどずらりと並ん     でいること、その一体一体が大きいこと、しかもその多くは金箔できんきら金に仕上げられ燦然と輝いていることである。

    多分、日本の仏像で見かける金箔より厚いのではないだろうか。また、日本の仏像の顔の表情は優しい、慈悲深いものもあるが、多    くは厳粛な顔立ちしているのではないだろうか。それに対して、チベットの仏像の表情はユウモラスな感じを与えてくれる。


 4.   ラサポタラ宮殿立体曼陀羅(仏像が前後左右に並べられている)は金色に燦然と輝き素晴らしい。
    数々の仏殿に仏像が林のごとく安置されている。何故こんなに沢山の仏像を置かねばならないのかと思う。


    数多く仏像を寄進するとご利益もそれだけ大きく、多くなるのだろうかと思いたくなる。
    しかしこうした仏像は正にチベットのお宝である。とにかく、金は仏像だけではなく屋根などの建造物にもふんだんに使われている。

    
日本では一つのお寺に仏像が一体のあるいは数体置かれているにすぎず、しかも木造そのままのものが多い。
    たとえ金箔が施されていても、薄いもので剥げ落ちたりしているものが多い。


    こうしたチベット日本のお寺に見られる違いは、チベットは仏教王国で、正に信仰の大きさの差を表わすものなのだろうか。
    なお、ポタラ宮殿内の写真撮影禁止が残念であった。


 5.      お寺に入った時のもう一つの特徴は沢山のお燈明が焚かれていることである。
    内部は酷く煤けている。また、その燃料は羊脂である。その匂いの何とも言えない臭さは当分の間鼻から抜けなかった。


 6.   お寺には沢山の坊さん達がいる。しかしこれらの人の顔、手足やその人達が着ている衣は概して清潔であるとは言えない。
    五体投地をしている信心深い人々は全てが酷く汚れている。
    ガイドに彼らは風呂にどのくらいの頻度で入っているのか、衣の洗濯の頻度はどうかと聞いたら、数週間に一回か、一月に一回かなど    と答えていた。
    彼らは風呂に入るのであろうが、頻繁に入る習慣はなさそうである。    よっぽど汚れたら汚れを落とすくらいなのであろうか。
    日本人の清潔さとは比較にならないが、それにしてももう少し清潔にしたらとに思う。


 7. 汚い話をもう一つ。ポタラ宮殿内で公衆トイレに入った時のことである。ガイドにトイレを案内されて驚いた。
    思わず、こんな所で用を足さねばならないのかと聞いたくらいである。大と小の用を足す所の仕切りが一切無い。
    勿論、大、小の夫々の仕切りと云うようなものは無い。

    大きな部屋の真ん中に大の用を足す個所が縦に一列に並んでおり、大の便器と云っても下に穴があいているだけである。
    用を足す時は前の人の尻が丸見えである。この周りに小の用を足す所がある。
    全てオープンで、一目で丸見えである。それに清潔ではない。

   
    男女のトイレ間の仕切りもお粗末なものである。お互いに見ようと思えば見える。
    中国国内の公衆トイレポタラ宮殿内ほどではないにしても、何処に行っても汚い。
    トイレはその国の文化水準を表すと云うが、正にその通りと思った。

次に、中国政府の横暴さについて目についたことが多々あったので記そう。

 1. 第二次大戦後の中国国軍チベット侵攻の際、中国政府の指示に反抗した寺はことごとく破壊されたという。
    その数は当時のお寺の半数に及ぶという。

    勿論こうした話は現地のガイドが中国人なので聞かして貰えないし、質問しても答えてくれない。

チベット人は表面では中国政府の政策に服しているようだが、内面には複雑なものがあるのだろう。2008年にもチベットで問題が起   きている。古来、チベット人チベットが自分達の国であり、中国に干渉して貰いたくないと思っているのだろう。

第二次大戦後、チベット内には漢人が続々移住してきて、政治、経済は完全に漢人に牛耳られている。
   中国国軍も沢山いて、威張っており、その軍の施設の立派なこと、これでは温厚なチベット人達も心穏やかでないだろうと思う。
   チベット自治区とは名ばかり
である。


2. 町で、中国政府や軍の関係者が通過予定になっている道路は通行禁止になる。
   また、我々ツアーのバスが走っている時、後ろから数十台の軍の車が近づいて来た時、我々のバスは待避せねばならなかった。

青蔵鉄道での列車内でも、中国軍人たちと乗り合わせた時に彼らに寝台車と食堂車が専有されたこと、彼らの要求で列車が最高地の駅・唐古拉に臨時停車させられて彼らだけがホームに出て記念写真を撮っていたことなど、我々には信じられないことが罷り通っている。

これらは軍人の横暴と云うより政府機関の横暴と言えよう。

我々からは19世紀に戻った植民地における征服者の行動のように見えて仕方がない。現在、中国は軍事大国であり、経済力も消費人口の多さを背景にして世界での発言権は増している。

しかし、国内でやっていることは19世紀並みである。

上記は中国政府の横暴さのほんの一部である。しかし、考え方の異なる種々の民族を含んだ1314億の人口を持つ中国としては、民主的な政策を採ったら国内を纏めきれないのであろう。

贔屓目に見るならば、現在の独裁的、弾圧的な手段を取る政府の方針は止む得ない仕儀なのかも知れない。

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