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海外旅行記(5)

メキシコ(1)               2010年7月2日  月岡 淑郎

 

はじめに

小学生の頃、「海は広いな大きいな、行って見たいなよその国・・・・」と云う唱歌を歌っていた記憶がある。勿論、戦前の頃の話である。当時、一般の人が外国に行くのは到底無理な相談であったが、子供心ながら歌詞でも云っているように「一度は行って見たいな」と云う願望を持っていた。

それが社会人になって間もなく英国留学の機会が訪れた。

その時、真っ先に上記の歌を思い出したことを記憶している。その後、在職中の海外行きは主要都市が中心で、勿論、観光などは論外である。

また、我々の現役時代は休暇を取って海外観光旅行をするなども論外であった。

海外観光に行き始めたのは60歳を過ぎて第2の会社人生が始まってからである。この時代になると、社内の事情と云うより国内事情が変わってきており、社内日程をやりくりして海外旅行が多少出来る雰囲気になっていた。

この頃の海外の観光旅行は1~2回/年の頻度、70歳近くで会社を辞めてからは頻度が多くなり、元気なうちによその国を沢山見ておこうという気持ちになり、5回/年位の頻度で行くようになっただろうか。元来、旅行は好きで、脚力は同年次の人より強い方だと自負している。

行く先は「これまでに行ったことのない国」が原則である。

必然的に、アジア、東ヨーロッパ、アフリカ、中近東、中央アジアと、それに、南米、中米などの国々になってくる。アメリカ、カナダ、西ヨロッパなどは想定外である。

一方、いろいろな国に行き始めると、ただ行っただけでは暫く経つと直ぐに忘れてしまう。そこで、その国の歴史を前もって調べてから行くと、より記憶に残り、旅行も一層面白くなる。

そこで、その国の歴史の要約をボケ防止の意味も含めてA4、10頁程度に纏めてから行くようになった。

最近ではその国の歴史の勉強が追いつかず、旅行から帰って来て調べることも少なくない。

また、主な写真をA4の写真紙に文章を入れて纏めた写真集も作っている。こんなことをしていると、我が身が老いていくのも忘れてしまう。

本編は、後に中米旅行に行く切っ掛けとなったメキシコ先住民族が残した遺跡の見聞記である。

メキシコには何となくユカタン半島にあるマヤ遺跡を見たい気持ちになり、2003年10~11月にかけてふらっと出かけた。こう云う訳で、メキシコの一部を見聞したにすぎない。

また、メキシコ先住民族の滅亡の歴史には欠かせない人物として、スペイン人・コルステ16世紀の行状についても少し触れておいた。

 

1.   メキシコシティ

 

 国立宮殿大蔵省2階の回廊の壁に書かれているフレスコ画

国立宮殿


国立宮殿は、先住民族アステカ帝国の居城となっていた所に建てられたものである。

この宮殿は17世紀に征服当時の建物を大改築して出来たものである。宮殿内の大蔵省2階の回廊の壁一面には膨大なフレスコ画が描かれている。

これはディエゴ・リベラが絵で見るメキシコの歴史として描いたもので、宮殿の見所と云って良い。

この絵からスペイン人の先住民族征服の状況が良く解る。

  

アステカ帝国の繁栄

即ち、写真は、夫々スペイン人が侵入する前のアステカ帝国における商業の繁栄状況と宮殿付近における貴族の風俗を表したものである。

人物の後ろに見えるのは神殿や宮殿で、その周りには広大な一般住宅が表されている。これらはいずれもアステカ帝国の繁栄状況を表したものである。

奴隷売買の様子

これは、スペイン人の奴隷商人が奴隷の売り買いをしている様子で、その背景にはアステカ人の奴隷が労働を強制されている状況が表されている。写真が斜めから撮られているため見苦しい点はご容赦願いたい。

この絵から次のように感じ取れないだろうか。

即ち、平和で豊かな国であったアステカ帝国は、スペイン人の侵入によって彼らの生活は一変し、自由は奪われ、奴隷となって売り買いされる身分になったのである。

この絵は1930年代に画かれたものと思われる。この当時になってもメキシコ国内に先住民族の血をひく人達が多くいる中で、また歴史的な事実とは言うものの、よくもこうした絵がかけたもので、また画かした者がいるものだと思うと考え複雑である。

中米の国々の政治は白色人種に牛耳られている場合が多いにしても、純粋なスペイン系メキシコ人の無神経さに腹が立ってくる。

註1)1886~1957年、メキシコの画家。多くの壁画を描いたことで知られている。

 

 太陽の石(アステカ・カレンダー)

メキシコシティの国立人類博物館には、この地に栄えたテオティワカン、マヤ、アステカなどの各遺跡から発掘された特に重要なものを選りすぐって展示してある。

この中に“太陽の石”と呼ばれるアステカ人が使ったカレンダーがある。これは15世紀に造られたものだと云う。このカレンダーからは1年が365日であることを読むことが出来、260日を1サイクルとした占星術の暦も読み取ることが出来ると云う。

この歴に従って農耕作業をし、祭事も行ったと云う。彼らは太陽、月の運行状況を観測した結果からカレンダーを発明したのだと云う。彼らは相当高度な文明を待っていたことになる。

後でも述べるが、ユカタン半島チチェン・イツァーマヤ遺跡には既に6世紀に建設されていた天文台が見られる。

太陽の石

これは、そのカレンダーを示したものである。ガイドがこれの使い方を説明したが、そう簡単には理解出来なかった。小生、これの複製品を買ってきて壁に懸けて楽しんでいる。

 

 グァダルーペ寺院

グァダルーペ寺院はメキシコシティの中心から外れた所にある。

この寺院が出来た経緯を少し述べよう。16世紀、スペインによるアステカ帝国征服から10年ほどたった時の12月の話である。

テベヤックの丘2)を行く一人の先住民ディエゴの前に褐色の肌をした聖母が出現し「この地に私の教会堂を建てるよう司祭に伝えよ」と云った。ディエゴは直ぐに司祭の下に走ってそのことを伝えたが、一笑に付された。

ディエゴは何日かして再びテベヤックの丘に来た時また聖母が現れ、今度は聖母に会った証拠として色鮮やかなバラの花を与え、「これを司祭に見せて教会を建てるよう告げよ」と云った。バラを司祭に見せると金色に光ると共に褐色の肌の聖母が現れた。

司祭はこの奇跡を基に寺院を建立したという。司祭は新大陸にも守護聖母が現れたと大いに喜んだという。

このような伝説を持つ寺院である。

  

グァダルーペ寺院

左は、1709年に建てられたグァダルーペ寺院であるが、地盤沈下で傾いたために、1976年に右のようなモダンな寺院を建てた。

ここで注目すべきことは、スペイン人が他国を征服する時の常とう手段が、第一に王様や上級貴族を処刑すること、第二に一般人をキリスト教化することであった。

キリスト教化は被征服民族を懐柔する最も効果的な手段で、そのために黒人の聖母マリア出現の演出をしたものと思われる。

もう一つ面白いのは、最初に建てた寺院の傾斜の原因は、もと湖の水を抜いた後完全に地が固まらないうちに寺院を建てたしまらない行為にある。

更に、この湖3)の水を抜いた理由が面白い。それは、コレステ率いるメキシコ軍がアステカ帝国を占領した時、アステカ帝国の支配者に金の提出を命じたが、彼らは「金は無い」という。

コレステは執拗に金の隠し場所を問いただしたが、彼らはそれに対しても頑強に「金は隠していない」と否定した。

コレステは湖の中に隠したのであろうと考え、彼らを処罰した後、湖の水を抜いて探したという。

しかし金は見つからず、水を抜いた時の水路がソチミルコと云う運河になったと云う。スペイン人の金獲得に対する執念が覗える。

ソチミルコ運河

この運河は現在観光地として賑っている。従って、現在のメキシコシティには運河だけが残り、湖はない。

メキシコシティ2,000mの高地にあるので湖の水も抜き易かったのかも知れない.

 

2) 旧グアダルーペ寺院が建てられた場所と云われる。 

3) 現在のメキシコシティはスペイン人が侵入する前は、宮殿壁画に見られるような湖であった

 

メキシコ国立自治大学中央図書館

この大学はメキシコシティ南西部にあって、広大な敷地を持っている。ラテンアメリカ随一の大学と云う。

大学の見所は中央図書館の東西南北の外壁のモザイク画である。その代表的な南面の外壁を示したもので、スペイン人の植民地時代のアステカ帝国圧政の様子を表している。

スペイン人はアステカ帝国を滅ぼして、スペイン人のメキシコを建国したことに大きな誇りを持っているのであろうか。こういうことをする発想が凄い。

スペイン人は残忍なやり方でアステカ帝国を植民地化し、その植民地時代の圧政に対して反省する発想は全く無いらしい。この建物の前には広大なキャンバスがある。

 

2.   テオティワカン遺跡

 

この遺跡はメキシコシティの北約50kmの所にあって、メキシコ最大の遺跡である。

BC2世紀頃建設され、太陽のピラミッドと月のピラミッドを有する巨大なピラミッド都市を建設したことに特徴がある。4~7世紀に繁栄の頂点に達し、20万人以上の人口を擁したという

これは当時のコンスタンチノーブルの人口に匹敵する。しかし、こうした都市を建設したテオティワカン人は8世紀頃、忽然といなくなり、滅亡したとされている。その原因は今も解明されていない。

現在、凡そ2?3kmの範囲の遺跡として見ることが出来る。
中でも底辺が130×150m、高さ42mの月のピラミッド一辺が226m四方、高さ65mの太陽のピラミッドはエジプトのピラミッドの大きさには及ばないものの、石を積み上げたその規模には圧倒される。 

月のピラミッド

太陽のピラミッド

両者共に宗教儀礼の目的で造ったものである。登るときは良いが下る時は大変で、上から見た勾配は凄く急に見え、転んだら下まで落ちてしまうのではないかと思われるほどであった。

遺跡の全景

月のピラミッドの上から遺跡全体を展望したもので、その景観は素晴らしく、時間の経つのも忘れてしまう。

真ん中を通っている広い道は死者の道と呼ばれ、死者が神殿に祭られる時に運ばれた道であろう。私が月のピラミッドに登った時、急に雲行きが怪しくなって夕立が来そうになったので急いでピラミッドを降りたが、標高2,000m以上の高地のためか空が一転して掻き曇った時の景色は凄かった。

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