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海外旅行記(6) 

ベトナム:1 歴史


          2010 7月 月岡 淑郎

                     はじめに

ベトナムハロン湾は多くの奇岩があることで、中国桂林と並び称される景勝地と云われている。こうしたことから是非一度は行って見たいと思っていた。しかし、ハロン湾に行くだけの目的ではなかなか行く気になれないでいた。
一方、既に旅行した国々が百カ国ほどになり、旅行したいと思っている国々が少なくなってきたことと、アメリカ軍に徹底的に破壊されながらもアメリカ軍を撤退に追い込んだ国が今どうなっているかも知りたくなってきた。
こうした理由で
20091112月に急遽ベトナムに行くことになった。

所で、ベトナムとはどんな国であろうか。そこで、歴史を中心ににわか勉強をしたので以下に簡単に述べてみたい。

 

1)           ベトナムの民族

ベトナムは多様な民族で構成されており、多数民族はキン族(ベト族)で現在ではホン川流域地方、中部海岸平野、メコンデルタ地帯などを中心にベトナム全域に居住している。これらと同じ地域には中国系ベトナム人(華人)が、中部海岸平野やメコンデルタ地域にはチャム族やクメール人が住んでいる。これらの平野から離れた地域には全人口の10%を占める多くの少数民族が住んでいる。現在、53のクメール系、中国系、タイ系、マレー系、ビルマ系などの少数民族がいる。

2)           古代〜中世の国家成立

北部はホン川(紅河)流域を中心とした平地で古来種々の文化が発展しており、中国支配の時期が長く続いた。10世紀になって呉権が中国の支配を脱して呉朝を興し、その後、丁朝、前黎朝と続き、前黎朝の始祖の時代にはベトナム中部のチャンパ王国との戦に勝ち、チャンパ王国に朝貢させるようになった。

チャンパ王国はベトナム中部のフエ地方に192年に興り、15世紀まで続いた。チャンバ王国の遺跡は現在幾つか残っており、その一つのミーソン遺跡(ホイアンの南西約40km)はチャンパ王国の聖地であった所として有名である。

さて、北部では前黎朝の後に、1010年、李朝が起こり、ハノイに都を定めた。仏教や科挙制度を導入し、ハノイには文朝(孔子廟)を建て科挙試験合格者を称えた。1049年には仏教寺院一柱寺を建立した。その後、1225年には陳朝が興り、この時代にハロン湾で元の襲来を阻止したことは有名である。日本と違って神風無しの頭脳的な戦略で元軍を破ったという。陳朝の後、胡朝の時代に、一時期中国の支配を受けるが、1418年、黎氏によって中国軍は排除された。黎氏は1428年、チャンパ王国を完全に支配し、ベトナム全土を支配した。しかし、その後無能な王が続いたため、16世紀になって北部は鄭氏、南部は阮氏が実権を取り、両氏は200年に亘って対立した。阮氏は南進を続けコーチシナ、カンボジアの一部を併合した。

  3) 近世の状況

18世紀後半に阮朝の圧政から内乱が起ったが、やがてもとの阮朝(阮映)の支配に戻った。この時、フランスの援助を受けたため、フランスの影響力を許すことになった。

次の明命帝の時、カトリックの布教禁止や西欧諸国の排除を行った。1862年、フランスはこれに反対し、ベトナムを攻撃し、結果的にメコンデルタの一部の割譲とカトリックの布教を認めさせた。この後、フランスベトナム全土の直接支配を目指し、1882年にハノイを占領、フエ政府は形骸化した。ここに、ベトナムフランスの植民地となった。

  4) ホー・チミンと抗仏・抗日運動

1925年、ホー・チミンは中国広州で青年革命同志会を組織した。1940年、フランスドイツに負けると、日本が北ベトナムに進駐した。このため、ベトナムフランスと日本の二重支配を受けることになった。この状況下で、ベトナム内ではベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、抗仏,抗日が始まった。1945年9月2日、ホー・チミンはベトナム民主共和国主席になり、独立を宣言した。

  5) 第2次世界大戦後のベトナム

2次大戦終了後、抗仏軍はハノイ、フエを占領した。阮朝は完全に崩壊した。ボツダム宣言では北部は中国が、南部はイギリス日本の武装解除を行うことになっていたが、実質的にはフランスイギリスの支援でベトナムの再侵略が始まった。

 1946年2月、北緯15度線以南はフランスの勢力下に入った。しかし、これからが長い南北戦争の始まりとなった。同年11月にはベトナム全土でフランス軍の攻撃が始まった(第一次インドシナ戦争)。ベトナム軍は1946年の総選挙でホー・チミンが圧倒的な支持を受け、ホー氏の下ベトナム全土で抗仏戦争が始まった。開戦当初はフランス軍が優勢であったが、本国では経済破綻を起こして戦争続行が不可能になったのでベトナム軍に休戦を提案した。しかし、ベトナム軍はこれを拒否した。一方、フランス軍は山岳戦で大損害を蒙っていた。また、1950年には中国、ソ連ベトナムを承認した。アメリカフランスの傀儡政権であるバオダイ帝(1949年即位)のベトナム国を承認した。

こうした状況下で、ベトナム軍は反撃に転じ、消耗戦に導いた。フランスは完全にアメリカに依存するようになり、1954年のディエンビエンフー戦ではフランス軍は負け、完全に劣勢となった。同年5月、ジュネーブ会議で北緯15度線を境にして、

:ホー・チミンが支配するベトナム民主共和国領

:アメリカが後押ししているジェム政権領

とした。

しかし、南部では「南ベトナム解放民族戦線」がバオダイ帝から政権を引き継いだゴ・ディン・ジェム国家元首(1955年大統領になる)政権に抵抗し、1960年、第2次インドシナ戦争が始まった。アメリカはジェム政権を見捨て、新政権を立て、ベトナムの拠点と思はれる北部爆撃を行った。親アメリカのベトナム王室は政権争いと恐怖政治で、民衆は完全に政府から離れていった。ベトナム民主共和国軍と南ベトナム解放民族戦線の攻撃は全土で始まり、アメリカもハノイ大空襲を行い、もはや収集できない状態になってきた。

ホー・チミンは1969年9月2日に死亡した。享年79歳であった。

  6) ベトナム戦終了・ベトナム社会主義共和国誕生

1973年、パリ協定でアメリカ軍の撤兵が決まったが、依然としてアメリカの親アメリカ政権への援助と介入が続いた。これに対し、ベトナム軍は反抗に転じ、メコンデルタ地区や各地を攻略した。1975年4月30日にはサイゴンが陥落した。ミン大統領のベトナム共和国は消滅した。これによって、インドシナ戦争(ベトナム戦争)は終了した。1976年には統一国会が開かれ、ベトナム社会主義共和国が誕生した。

  7) 中国との抗争

一方、1970年頃より下記に理由で中国との関係が悪化した。

 中国アメリカとの接近。このため、ベトナムソ連との関係を深める。

 国境紛争。南沙諸島と西南沙諸島の領有権。

 カンボジア紛争。中国はポル・ポト政権を、ベトナムはヘン・サムリン政権に味方。

 ベトナムが国内の華僑を圧迫した。南部の資本主義的工場経営を禁止したことにより華僑や南ベトナム人の財産が脅かされ、国外脱出者が増えた。

こうしたことが原因となって、1979年、中国はベトナム北部に侵攻した。

ベトナムフランス、日本、アメリカ、中国との間の関係は、憲法の前文を修正することによって、修復された。

1989年、ベトナムカンボジアから撤退、中国とは1991年に国交正常化した。アメリカとは1995年に国交正常化した。日本とは1973年に大使級外交関係を樹立している。

 

以下は小生がベトナム旅行した際、単なる名所見物だけではなく、心に留った事柄、また、小生が海外旅行した個所の記憶を留め置くための意味も含めて纏めたものである。

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