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常陸太田の里
常陸太田市は県北で最も古い町です。ここは、秋田に移封された佐竹氏の居城があったところです。(最後の11年位は、水戸を居城にしました)
何といっても、佐竹氏は平安末期に蝦夷征伐に行った八幡太郎義家の弟の義光を祖とする日本で最も古い源氏の家柄であり、しかも、鎌倉、足利、戦国の世を生き抜き、秋田に移封されて後、明治まで続いた大名家で他にはない家柄と言っていいでしょう。
この佐竹氏が、秋田に移されるまでの約500年以上、何回かの存亡の危機を乗り越えついに常陸一国に版図を広げるまでになったのです。(水戸藩の版図は、佐竹の半分位です)
茨城と言えば水戸徳川家と思うのが一般的ですが、県北の歴史、特に居城のあった常陸太田市には佐竹の影響が色濃く残っています。
水戸藩は特に太田地区の経営に腐心し、2代光圀が隠居所として西山荘をおき、佐竹寄りの寺社の勢力を削ぎ、水道を作って民心を集めるなどの施策を行っています。
小生の育った故郷は少し南の那珂川のほとりですが、ここにも戸村城のほか幾つかの城跡があり、周辺の豪族達の盛衰の跡を示しています。
佐竹について書けば、きりがありません。今回は常陸大田に向かって歩いた記録を中心に書いて見ました。
水郡線で太田方面へ
以前は、大甕から常陸太田まで、日立電鉄線で30分もあれば行けたのですが、今は水戸を回って、水郡線に乗り常陸太田行きの支線を回らなければなりません。
額田駅 排水機場
額田駅で水郡線を降り、林の中を下っていくと、大きな排水機場がありました。
堤防から常陸太田方面を望む(右は排水機場の水門)
多くの支流が流れこむ久慈川は上流にダムが無く、小さな支流の水を洪水時には水門で堰き止め、排水機場を設けて排水をします。
久慈川の沈下橋
堤防を少し歩くと、沈下橋があります。この辺は以前「利家とまつ」などのロケにも使われて有名になりました。そのせいか、渡る車も増え、今では車両通行が制限されています。
この付近は、治水が大変であったようで、少し上流には水戸藩が久慈川に堰を設け洪水を防ぐために設けた辰ノ口堰があります。
対岸に渡ると暴れ川の面影を残す三日月湖も残っており、今は釣堀になっています。
三日月湖
ここから堤防を少し下ると枕石寺に出ます。
枕石寺
親鸞聖人が常陸の国に来て、雪の夜、ここの豪族に宿を頼んだ所、断られて、石を枕にして寝たところだそうです。茨城には親鸞聖人の旧跡が多くありますが県北は多くありません。
親鸞聖人は笠間(西念寺)に20年近く住み、ここを布教の中心地としていたということです。
水戸藩は、光圀の寺社統合廃止、佐竹寄りの寺社勢力の削除、斉昭の寺社改革、天狗党の政争、明治の廃仏毀釈とあまりにも変革が多く、昔の面影が残る有名な寺は少ないのです。
特に、天狗党の政争で、数千名とも言われる犠牲者が出て、有能な人材が無くなった所へ、明治になり尊皇派の天狗党側の勢力が復活し、廃仏毀釈が徹底的に行われたことが、これに大きな影響を与えています。
譜代の牧野氏支配の笠間藩などには、笠間稲荷、西念寺など立派な寺社が残っています。
常陸太田近くの水田地帯
枕石寺から常陸太田方面は山田川と久慈川の間の堆積地で広い水田が広がっています。この一帯が佐竹の穀倉地帯であったのでしょう。
ここを進んで、坂を上ると源氏川南の台地で、佐竹時代に栄えた佐竹寺と徳川光圀が建立した久昌寺(旧跡)などがあります。
佐竹寺
佐竹寺は太田城の鬼門よけとして佐竹の厚い庇護を受け、大きな寺領を有していましたが徳川になってその殆どが没収されて衰え、明治になると廃仏毀釈で中頃まで無住の寺であったそうです。現在残っている本堂は16世紀に佐竹によって建立され、重要文化財となっています。また、坂東三十三番観音霊場第二十二番札所でもあります。
ここから、山道を行くと山寺水道の跡に出ます。ここは光圀の時代、甲斐の国から水利に長けた永田勘衛門(円水)を招き、水不足に悩むこの周辺に2kmに及ぶ水道を作ったものです。永田円水は、二代に渡り、先に出た辰ノ口堰、那珂川の小場江堰などもつくり水戸藩の治水に大いに貢献した人物で、少し先の久昌寺(跡)の近くに墓がありました。
山寺水道の跡
久昌寺(跡)には今は全く何もありませんが、光圀の生母が日蓮宗徒であったことから建てられた菩提寺ですが、廃仏毀釈によって取り壊され、現在はその末寺に再建されています。
久昌寺(跡)(中央に小さく見えるのが右の碑)(左の山陰に永田円水の墓がある)
少し前後しますが、太田には他にも幾つか佐竹時代の寺があります。
水戸徳川家の墓のある瑞龍山の少し奥に国見山と言う山がありますが、そこの麓に段山寺という禅寺があります。
今回は、西山荘、瑞龍山、段山寺、久昌寺までは、歩けないので省略しましたが、春になって梅を見ながら行ってみました。(後述)
常陸太田の長い歴史は、十分な知識も無いので省略します。
ここから、山道を少し登り、岡の先端にいくと林の中に、「雪村の碑」があります。
雪村は、室町時代、雪舟と並ぶ画家で、段山寺あたりに住んでいたといわれ、彼が作ったという雪村うちわは太田の名物となっています。さらに丘の先端部分に行くと 「山寺晩鐘の碑」があります。これは、九代藩主の斉昭が近江八景などになぞらえて水戸八景を作り、水戸の仙波湖を出て八景全部を回ると約110kmで、若い侍たちに鍛錬と下々の様子を知るために回って歩くことを奨励したと言われます。
雪村の碑 山寺晩鐘
この丘を下ると、源氏川のほとりに出ます。源氏川にはこんな橋も残っています。
源氏川の古い橋
源氏川の東側の丘の一帯が、太田城のあった一角です。
現在の街並は、空爆も無かったので明治から大正時代の古い面影が残っています。
古い町並み
右の写真の白壁の店で食事をしました。聞けば昔は銀行であったとの事です。
少し、西にいき、狭い横道に入っていくと、水戸八景のひとつ「太田落雁の碑」があります。
見下ろす里川周辺の風景は、素晴しかったでしょうが、今は、住宅地となってしまいました。
太田落雁の碑
佐竹の城跡は、太田小学校辺りから今は無くなってしまったJTの煙草工場辺りだったようです。さらに奥にいくと、若宮八幡宮があります。
太田城址付近 若宮八幡宮
佐竹は祖先が、八幡太郎義家の弟でもあり武家としても八幡信仰に厚く、水戸にも八幡宮を、秋田にも八幡宮を造っています。従って佐竹時代は、至る所に八幡宮があったらしいのですが、光圀の時代、小さな寺や神社は廃止(淫祠を毀すと歴史書に書かれています)し、鹿島神社や吉田神社としたり、僧侶は還俗させるなどしました。
ここはさすがに、佐竹が移っても廃することなく残されました。 そして、この辺の神社の恒例の祭りである浜出神事も戦前までは行われていました。
この裏山一帯は、今はぶどう(巨峰)の産地となっています。
再び、源氏川沿いに川をさかのぼると、佐竹の菩提寺である正宗寺(しょうじゅうじ)と読みます)に出ます。14世紀中頃に創建された臨済宗の寺で、水戸藩になっても寺領を安堵されて栄えていましたが、天保年間、大火により殆どが消失してしまいました。
佐竹氏の墓所や、水戸黄門で有名な助さんの墓もあります。
正宗寺
ここまで歩いたら疲れたので、ちょうど、バス停もあり、バスが来たので常陸太田駅まで乗りそこから、線路を渡って常陸太田市の保養施設で入湯して水戸経由で帰宅しました。
再び常陸太田へ
今回、いかなかった所を車で回りました。前回は晩秋、今回は新春です。
瑞龍山(水戸徳川家の墓所。朱舜水の墓もある)
里川に沿って349号線を北に向かい、国見山の方に入る山道の奥に瑞龍山があります。
ここは、現在は管理人がいないとか?の理由で公開されていません。わら屋根の待合所があり、門は固くしまっています。
さらにここから下って沢田に沿って細い山道を行くと、耕山寺に出ます。ここは曹洞宗の寺ですが、やはり、徳川時代に衰退してしまいました。しかし、敷地を見ると多くの伽藍があったことが想像されます。
耕山寺
再び、狭い沢道を戻り、太田の市外を抜けて、有名な西山荘へいきました。
西山荘への入り口
梅祭りと言うので入ってみると梅が満開でした。しかし、昔はこの辺は田圃で、ご隠居の世話をする家臣の屋敷があった所です。
西山荘の梅については、別稿の 「西山荘の梅」 をご覧下さい。(太字をクリックするとジャンプします)
奥が西山荘ですが屋根の葺き替え工事中です。期末予算消化優先で梅祭りなど関係無いお役所仕事の典型的な例ですね?!
西山荘全景
展示室の黄門様(部屋の大きさは3畳) この紋所が目に入らぬか!!
西山荘を出て市街地の方に戻る途中から横道を行くと、久昌寺への道です。
ここは、廃仏毀釈で無くなってしまった寺を、ここにあった末寺に再建しものですが、今度は絶対に焼けないようにとコンクリート造りです。
久昌寺(日蓮宗)
(追記)
常陸太田市街に入る手前の田圃の中、349号線の横に都都逸坊扇歌の碑があります。初代都都逸坊扇歌は常陸太田市(当時、磯部村)の出身です。
この土地は、今は耕地整理で平坦な田圃が広がっていますが、歌碑に彼が作った歌が載っていますが、昔は用水路などが入り組んだ典型的な日本の田園風景であったと思われます。
扇歌の像
磯部たんぼの
ばらばら松は
風も吹かぬに
気がもめる
扇歌の歌碑
その略歴を調べると次のようなものです。(Wikipedia)
七歳で痘瘡を患らった時に、治療医である父親が、医書の真偽を確かめようと痘瘡の病人には大毒といわれる鰹を与え半失明となり17歳で「よしこの庵山歌」の名で門付の三味線を弾くようになる。
文政7年頃に江戸に出て、音曲噺で有名な落語家の初代船遊亭扇橋に弟子入りし、都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍した。 その芸は、都々逸をはじめとした唄・三味線だけでなく、「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていた。 やがて、江戸で一番の人気芸人となり、八丁四方では寄席の入りが悪くなるという意味で、仲間うちから「八丁あらし」とあだ名された。天保時代には上方にも出向き活躍。
世相を風刺した唄も沢山作ったが、晩年にはそれが幕府・大名批判とされ江戸を追放される。
もう一つ彼の歌。
諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
後記
平成の大合併で 常陸太田市は、金砂郷町、水府村、里美村を合併し、里川沿いに大子町から福島県につながる大きな市になりました。
これで県北は、海側(「岩城街道」(6号)が日立市、高萩市、北茨城市)
中央が常陸太田市,大子町(「棚倉街道」(349号)
那珂川側が那珂市、常陸大宮市、(「南郷街道」(118号)
となり、海、川に沿って行政区が並んだことになります。
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