このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日立太田市指定文化財集中曝涼
常陸太田市は、旧水府村、金砂郷町、里美村を合併し、大きな市となりました。市は、市の行事として、市内の文化財を10月第三土、日に集中して虫干し(曝涼)することを初め、今年が三回目だそうです。
今まで、見られなかった幾つかの文化財を見ることが出来る良い機会ですので出かけました。常陸太田は、よかっぺ!茨城の 「西山荘の梅」 や「常陸太田の里」(別途、記載)をご参照ください。
まずは、重文になっている旧太田中学校講堂です。
明治37年に施工されました。設計者は駒杵勤治で、茨城県で設計技師として活躍。旧土浦中学校本館(重文)、旧県立商業学校本館(登録文化財)などを設計しています。
外観も良く手入れされている為か、素晴しいものでした。
校庭(テニス練習場)越しの講堂 講堂外観
明治時代には、茨城県と言っても、県南は小藩が多く、大きな町は少なく、県北は、水戸と常陸太田が大きな町だったのです。この一帯は、静神社の辺りが倭文の里といわれていたように古代から織物の里でもあり、輸出品としての絹で潤ったのでしょう。
水戸についで中学校が造られた所の一つです。
内部の正面 入口側
横山大観 木村武山
中では、写真などの展示もあり、横山大観の掛け軸なども展示されていました。
佐竹の菩提寺でもあった正宗(しょうじゅう)寺に向かいます。
ここは、城の北側に位置する馬場八幡宮からさらに北に向かった丘陵地の南面した丘の麓にあります。
正宗寺前の風景
元は、923年増井寺が創立され、前九年の役で、源義家が朝敵調伏の祈願をし勝楽寺となり、佐竹氏7代の貞義が夢想国師を呼んで新たに開山し正宗寺となりました。室町時代には、4万石に当たる寺領を有したと言われています。
寺は、家光から100石の朱印状を貰い、水戸藩からも庇護されていたようです。しかし、1838年に焼失、翌年、庫裏は造ったが本堂は明治3年に造られました。しかし、古くなり、昭和63年に建て直したものです。
山門 本道への参道
明治の廃仏毀釈の混乱などで、多くの文物が流出してしまったのは惜しいことです。室町時代、足利氏と深いつながりがあったことを示す文などの展示もありました。
秋田に移る前の佐竹氏の墓なども残っていますが、今、最も有名なのは、「助さん」こと佐々宗淳の墓ではないでしょうか?
佐竹氏の墓石
助さんの墓
、旧水府村に入り、山田川を渡り、旧金砂郷町役場を過ぎて北上すると西光寺があります。
普段なら、全く気がつかず見逃してしまうでしょう。ここには、重文の薬師如来像があります。これは平安後期のものだそうです。
仁王門は今にも壊れそうなたたずまいですがここの仁王像は、室町期もので元は中々のものだったのでしょう。これらは修復され、薬師如来像は本堂の中に安置されていますが、本堂と言っても小さなものです。
西光寺仁王門 仁王像
本堂? 薬師如来像(重文)
修復の写真などがあり、本堂の中に入って傍で見ることも出来ます。
さて、ここからさらに北上していくと金砂郷の「そば街道」です。拡幅がされていない所が多い道を進むと、西金砂郷神社への道の反対側の丘の上に菊連寺があります。
ここには、千手観音立像(鎌倉時代)と不動明王像、多聞天像(いずれも平安期)が有りました。また、堂内には、焼け焦げた像があり、これは平安末期の佐竹氏が源頼朝に攻められたいわゆる金砂合戦で焼けたものだそうです。
菊連寺入り口 宝物殿の千手観音ほか
焼けた千手観音 本堂
なぜ、これらがここにあるかと言うと、明治の廃仏毀釈で、金砂大権現として神仏混交であった寺から仏像が滅却されたのですが、付近の住民がこれを惜しんで山から運んでこの寺に持ってきたとのこと。
元は、四天王などとして、一式揃っていたのでしょう。ここでは、若い僧が、色々と説明してくれました。
この辺りの風景 正に田園風景
ここまで回って、4時近くになり時間となりました。常陸太田市の色々なところは、これでほぼ、見ることが出来ました。
常陸太田市の北は、袋田の滝で有名な大子町で、ここは毎年の「りんご狩り」で色々な所に行っており、今年、行けばここもほぼ見終わることになります。
こちらについては、過去の記事も含めて記載していきます。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |