このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

オランダ自転車旅行を前に

オランダ自転車旅行の前に、オランダの歴史をにわか勉強。高校時代の世界史の勉強と違って、物語として楽しんだ。その中から主なものを紹介します。

○オランダ東インド会社(VOC)(1602-1798)

2世紀にわたり、胡椒の取引により莫大な利益を上げ世界経済の覇者となるが18世紀後半になると経営が傾く。この時オランダ政府は異常ともいえるほどの資金注入を行ったが救済出来なかった。

いろいろな原因が取りざたされている。巨大化しすぎた結果、コントロールを失った。資本不足とふくれあがった短期債務・・・というが、産業革命により時代が変わり、会社の使命が終わったのでは無いかと思う。

何か今の日本でも同じようなことが起こりそうに思える。

 

○戦争の経験

17、18世紀日本では徳川幕府、実に平和な時代だった。それから現在まで、敗戦の経験は日本では第二次世界大戦の一回だけ。

対してオランダは、スペイン、イギリス、フランス、ドイツ4も経験している。陸続きである大陸の中の小国に対して、日本は海で隔たれ島国の違いがあったのだが、これからのグローバルな時代、地勢的な差は大きなものではなくなるのだろう。

オランダから学ぶことが多いように思う。

 

○ナールデンの大虐殺

16世紀、ネーデルランド一帯が新教化した。これに対しスペイン・フェリペ2アルバ公を派遣し弾圧を加える。アルバ公の軍隊がナールデン(アムステルダムの近く)を包囲。

市民達は城門を閉ざし抵抗の構えを見せたが、スペイン側は狡猾だった。我々に他意はない、決して市民を殺さないと言い送ってきた。

不用意に城門を開き、スペイン軍を入れた。スペイン兵による大虐殺が始まり、一人残らず殺してしまった。

大虐殺の翌年、ライデン市で同じようなことが起こったがライデン市民は一年間の飢餓籠城に耐え、最後には命綱とも言うべき水門を自ら破壊しスペイン軍を退却させた。

堺屋太一の「歴史からの発想」の中に「この国(日本)をつぶさに調べれば、この国の人々の体験からほとんど欠落しているものが三つあることに気付く。

それは、「本格的な籠城戦、計画的な皆殺し、そして人民の武装抵抗、つまり、ゲリラ戦である」とドイツ人の歴史研究者が指摘しているとの一節があり、

日本のような同質民族内での支配権争奪戦の場合には、支配する対象つまり一般人民を残さねばならない。これを皆殺しにしたのでは、年貢収入が入らず支配権の振るいようがないからだ。それ故、彼らに対する統治をやりやすくするためには、怨みをかわないことが勝利者にも大切だ。なるべく殺さないほうがよいのである」

この対照的な戦争観に気付いたのはシシリーの自転車旅行の時であった。街が山の頂上にあるのだ。毎日の農耕作業に谷間まで往復しなければならない。

「何故こんな非効率」と一瞬疑問が生じたが、すぐ「皆殺し」のほうが怖いことに気付いた。

日本には「山間の村」があるがヨーロッパにはないのだろう。

 

○アムステルダムからバタヴィアへ

アムステルダムからバタヴィア(現在のジャカルタ)への航路は、ケープタウンを回ると、普通考えられる陸沿いの航路ではなくポルトガル船による略奪、貿易風による逆風を避け、さらに偏西風の追風を受け一路東に向かう。目印はただ一つ、南インド洋の南緯3750分・東経7730(インド半島の先端)にあるアムステルダム島である

この島を見逃すとオーストラリアまで流されてしまう。そんな環境の中VOC4800回の航路の中で、こんなことは4回しかなかったという。

緯度だけの測定技術で良くできたものだと感心。

 

○ウイリアムアダムス(三浦按信)

1598627日、ロッテルダムから極東を目指す5隻の船団が出発。喜望峰周りではなく、マゼラン海峡経由太平洋を横断して極東へ行く新航路の開発が目的。

1599年4月1日マゼラン海峡に到着した時には、人も船も疲れ切っていて寒さと飢えで多くの人が死んだ。

マゼラン海峡をでて暴風に遭い、1隻はチリ海岸に接岸スペイン人に投降。1隻はオランダに戻る。1隻はモルッカ諸島のチモール島でポルトガル船に拿捕され多くが殺される。

残る2隻が日本に向かう(1599年1127)そのうちの1隻が1600419豊後湾に漂着。ウイリアムアダムスが乗っていた船であった。

           マゼランが世界一周をしたのが1519-1522年とはいえ、ともかくスケールが大きい話である

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