このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  「完全乗車」決意の日までのあしあと

JR四国・キハ65+58の普通列車(本文とは無関係)

 私がはじめて泊りがけの旅をしたのは、高校1年の夏。青春18きっぷを使ってのひとり旅で、当時住んでいた千葉県松戸市の自宅からはるか山陰方面へ鈍行列車の旅をした。赤いディーゼル機関車が引く、古い旧型客車に揺られ、鳥取砂丘や出雲大社などを訪れて歩いた。車窓から見る美しい山陰の海がとても印象的な旅だった。鉄道ファンとしての活動は小学生高学年のあたりから始まっていたが、それまでは泊りがけの旅をしてみようという冒険心はなかった。親が厳しかったせいもある。ところが、この山陰ひとり旅をきっかけに、火がついたようにあちこち出かけるようになった高校時代はクラブに所属していなく、また自ら探さなくてもアルバイトが舞いこんできて、旅をする時間とカネがあった。アルバイトとは中学時代に習っていた学習塾で、実はそこでは私は同学年で常にトップか2〜3位くらいの成績を誇っていて、そこの塾長が「高校に入ったらここで中学生の学習指導(要は先生)をして欲しい」と頼まれたのだ。高校生なので時給は400円くらいだったけど、「チリも積もれば山となる」で夏休み・冬休み・春休みごとに旅に出るお金にはなった。高校2年の夏には東北地方周遊の10日間もの長期ひとり旅をし、3年では北海道を旅した。旅人となるデビューは遅めだったけど、あとは本当にトントン拍子である。

 高校はM大学の付属なので、受験なしですんなりM大学に入学。大学に入ってからはもっと旅をするようになったが、バイクやクルマに目覚めたせいで、鉄道での旅はそれほど多くはなくなった。旅上手にはなっていったけど。大学2年にはなんと原付バイクで北海道を周遊、延べ2000キロを走り抜き、20日間中10泊も野宿をするというけっこうな冒険旅行(というか青春旅行かな)をやり遂げた。

 ただしバイク・クルマの旅は夏から秋までがシーズンである。日本は山がちな国で峠を越える道路が凍結するからである。これではバイクの遠出は無理だし、クルマでも初心者には無理に近いものがある。平野が多いように見える東海道を西に行くのでさえ、はやくも小田原の先で箱根峠が存在する。よって秋が終わると高校時代のように鉄道での旅になった。冬の北海道にひとりで行き、現地に着いたらユースホステルで知り合った人たちと一緒に行動したり、青春18で九州に行ったり、あちこち出かけた。あと、初めての海外旅行もしている。韓国への旅。当時(1989年)は韓国へ行くのでさえ、ビザが必要であった。世界中の主要各国へほとんどビザ不要となった現在とは隔世の感がある。たった10年前なのだけど。この後世界情勢や日本の外交姿勢が大きく変わったということであろう。

 大学卒業、就職。ところが会社を1年でやめてしまい、その後すぐに「日本一周」の旅に出た。これは就職した時点ですでに決めていたことで、計画を忠実に実行しただけなのだが。せいぜい4〜5日あるいは10日までの旅ではなく、一度思い切った長期の旅をしてみたい、機動性に富むクルマで日本の隅っこを訪問したいという思いがあったのだ。1991年3月から10月まで、走行日数111日、走行キロ27000キロに及ぶ非常に長い旅をした。約8ケ月なのに111日なのは6月から9月までは長野県の農家で高原野菜を作るアルバイトをしていたからである。日本一周終了後は、「もっと地理の知識を深めて旅を楽しくしたい」という思いでH大学の通信教育課程に学士入学、警備員をしながら地理学徒となって3年余りを過ごした。

北海道・留萌本線 増毛駅(本文とは無関係)

 非常に長い前置きとなったが、実はこれからが本題。H大学に入って4年目のある日、ふとした思いつきで大型時刻表の鉄道地図にこれまで乗車した国鉄線〜JR線の路線と区間を塗りつぶしていった。これまであちこち行ってきたが、のくらい乗ったのだろうかと考えたのだ。それまでは本気で「全部乗ってやろう」とは全く考えていなかったのだ。「JR全線乗車」はほとんど全ての鉄道ファンが憧れる「偉業」あるいは「のひとつであり、私も漠然とそういう夢は描いていた。しかし、高校以来50回以上も1泊以上の旅をし、バイク・クルマで巡る旅も多かったけど鉄道利用も相当なものがある。これはひょっとしてかなり乗っているのではないかと。旅の記録は旅をする際に必ずつけている旅行ノートに書いてあるので、記憶に頼らずに確実な乗車記録がわかり、地図を塗りつぶした。

 すると、当時1994年6月頃の時点ですでに190線区余りを起点から終点まで完全に乗車(以下これを踏破と書く)しており、未踏破路線は以下の61線区、計4089.2キロメートルであることが判明した

 合計で61線区、4089.2キロメートル。〔注:高山本線は上の欄では東海と西日本に分けてありますが、合計では1線にしてあるため、上の欄を足した62線区ではなく、61線区。〕私が本気で完全踏破を目指し、踏破だけが目的の気合の入った旅を始めたのはこれ以降である。延べ4000キロ余りとは、当時のJR線総営業キロ約19000キロの21パーセントとなり、すでに5分の4は乗ってあと5分の1だけということになる。しかし、この5分の1がけっこうやっかいな路線のオンパレード。通りぬけのできない、行き止まり路線とか、JR西日本の中国地方の路線とかJR九州の路線のように場所的に遠くて交通事情も悪く長い休みをとらないと乗りに行きずらいという理由などである。ここはとにかく気合でやりきるしかない。いざ決意!である。

 また、JR全線踏破を目指すには、その趣味人の間でいろいろなルールが存在している。代表的なルールには

  1. 起点から終点(逆でも可)まで、その路線内の全ての駅に停車する列車に乗車して踏破する。これは新幹線と石勝線をのぞいて普通列車(各駅停車)での旅ということになる。長い路線では乗り継ぎである。
  2. 路線内を日の出から日没の間までに乗車する。車窓を見なくてはいけないということ。中には「居眠りしたら即引き返してやり直す」という厳しいルールを自分に課してやっている人もいるとか。
  3. 往復乗車して、車体の左右どちらの車窓も見る。
  4. 踏破を他人に証明するべく、起点・終点駅で駅名標の入った人物写真を撮る
  5. その路線を代表する列車に乗る。特急街道の路線では、もっとも本数の多い特急列車もしくは一番速い(もしくは豪華)な列車、あるいはさまざまな形式が混じって走る路線なら、その中で最も代表的な形式で運行する列車ということ。SLの走っている山口線では、当然そのSL列車で…となる。

…などである。趣味を極めるにはそれぞれそのルールに従って極めると、あとで他人に公開・自慢するときに胸を張れる利点がある。私もこの時点までに乗ってしまった路線はあらためてルールに沿って乗ろうとまでは思わなかったけど、これ以降は(1)と(2)は完全適用、(5)も一部適用することにした。あと、私独自のルールも作った。

…という独自ルールである。書いただけでは難解であるが、どういうことかというと例えば仙台と山形を結ぶ仙山線の列車は必ず「仙台発山形行き」「山形発仙台行き」で運行されている。(注:この他に仙台付近の区間列車もある)しかし、仙山線の正式区間は、仙台〜羽前千歳間である。羽前千歳とは山形から奥羽本線を下って2つ北の小さな駅で、基本的に各駅停車しか停車しない。こんな所で仙山線の列車の運行を打ち切っては中途半端なので、仙山線列車はすべてここから(ここまで)2駅間奥羽本線に乗り入れて山形まで(から)運行している。(図を参照)鉄道ファン以外の乗客はほ

とんど仙山線は「仙台〜山形間」だと思っているであろうこんな路線は実はかなり多い。ローカル線でなく、本線でもけっこうあり、特急などはそういう分岐・合流駅を無視するかのように通過している場合もかなりある。私はその地味な分岐・合流駅に敬意を表して、どんな場合でも必ず一度は下車して付近を観察することにした。もともと普通列車に乗らなくてはいけないので、降りることは容易である。しかし、この中途半端な駅で下車すると次の列車まで2〜3時間もなかったりで非効率的なスケジュールになることもままあった。

 さて、そんなこんなでいざ決意!その日から時刻表をめくって踏破のための旅をする計画にはまってゆくこととなった。

本編はここまで。

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