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沖縄の馬場

琉球競馬

 琉球競馬とは近代競馬とは異なり速さだけではなく、馬の姿勢の美しさを競うものであったと言う。小型の沖縄在来馬を用いて直線走路を2頭が競う方式であった。右前脚と右後脚、左前脚と左後脚を同時に動かす「側対歩」で移動しながら速さと美しさを競ったのであった。スケートで例えるとスピードスケートとフィギャーの違いであろうか。そんな琉球競馬が行われた馬場跡が現在はどの様になっているか紹介したい思う。馬場の雰囲気を残しているものは今帰仁村越地の仲原馬場ぐらいで大半は道路や公園になったりして、直線の広場だけがわずかに面影を留めている所もあるが、宅地や畑、原野となり痕跡がまったく無い馬場跡も多いのである。

那覇潟原馬場

潮渡川の南側の潟原(カタバル、干潟のこと)で走路は南北に延びていた。潟原入り口には潟原市場(マチグァ)があった。近世には旧暦5月4日の那覇ハリーの後に競馬が開催された。王府の「年中礼式(ねんちゅうれいしき)」には、正月下旬に那覇の潟原(かたばる)と識名馬場において諸人の馬乗りが行われると記されている。明治22年にはこの潟原で那覇、島尻連合運動会実施されている。明治後期になると紀元節2月11日の競馬や5月17日の波の上宮例祭で競馬が行われていた。各地の大会で勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原で年に一回行われた全県大会に出場していた。大正7年前後潟原の競馬は幕を閉じ、平良真地へ移っている。現在ここは若松卸問屋街の一画となり、当時を思わすものは何も残っていない。

那覇市松山付近  潟原馬場
赤のラインは戦前あった道  グーグルマップより

琉球貿易図屏風部分 潟原馬場 

昭和始め頃の那覇潟原

親見世之前馬場

親見世之前は往古の馬場であったと言う。この通りは薩摩の在番奉行所があった事から仮屋ヌ前通りと呼ばれた。時代を下ると仮屋は県庁と変わり、通りも県庁前通りとなった。奉行所の前は「道ぬ美らさや仮屋ぬ前(ミチぬチュらさやカイヤぬメー)」と唄われ、那覇四町(なはユマチ)の大綱引もこの通りで行われた。

旧 仮屋ヌ前通り

薩摩藩在番奉行所跡 (仮屋) 那覇市西1-2-16

見世の前 山形屋(昭和始め)  那覇市東町23-1
親見世
琉球王国時代の那覇の役所跡。 15世紀半ばの朝鮮国の書物『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』の中に「琉球国図(りゅうきゅうこくず)」が記されており、その中の「国庫(こっこ)」は親見世を指すとされ、創設はそれ以前と考えられている。もとは、首里王府が海外貿易で得た貨物を販売する「御店(おみせ)」だったとされる。1609年の島津侵攻の際に、降伏会議はここで開かれた。楼門(ろうもん)造りの門前の通りは、港に続く東・西両村を分ける道であり、門前の横には大市(ウフマチ)(市場)が広がる那覇の中心地であった。 1638年に上位機関の那覇里主所(なはさとぬしじょ)が設置されると、もっぱら那覇四町(なはユマチ)(東村(ひがしむら)・西村(にしむら)・泉崎村(いずみざきむら)・若狭町村(わかさまちむら))の民政を担当した。琉球処分時には大屋子(うふやく)、筆者(ひっしゃ)など10数人が常勤していた。1876年に熊本鎮台沖縄分遣隊営所(くまもとちんだいおきなわぶんけんたいえいじょ)となり、1884年(明治17)から1915年(大正4)まで那覇警察署、その後は山形屋(やまがたや)百貨店となった。    解説文より 

古波蔵馬場

馬場は城岳小学校前にあり、通りは「城岳馬場通り」という。18世紀後半作成の「琉球惣絵図」に載っており、王朝時代に開場している。ガジュマル脇にある馬の石像は実物大であると説明があるが信じられない位小さい物である。当時の在来馬は現在の馬に比べると小さかったのは分かるが本当にこの大きさであったのだろうか。これに人が乗れるのか疑ってしまう。
 解説文
「この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が近隣の国場村や与儀村と馬摸合を組織して月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原(カタバル、干潟のこと)で年に一回行われた全県大会に出場していました。
 馬場(ンマウィー)は幅10㍍前後、長さ200㍍ほどで、両側には大人3人でもかかえきれないほど大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました。この馬のオブジェは、当時の写真を元に実物大で造られています。また、歩道の大きなガジュマルは、この場所で数十年という長い年月にわたって地域の人達に愛され育てられてきたものなので、那覇市の景観資源として保全されています」
        1994年3月   那覇市

 
早足(足組す)とは、競馬といっても馬をとばすのではなく『脚組す』といって早足(一方の脚は常に地につく走法)で勝負させた。中間速で、走りの美しさを競った。
馬摸合は乗馬奨励のために組織され、一定の金額を出し合い集まったお金を順番に受け取る金銭互助組織である。

綾門大道馬場

守礼門から西側に向かって下る道路を「綾門大道」という。守礼門は別名「上の綾門(アヤジョウ)」といい、これに対して「下の綾門」と呼ばれる中山門が約500m先にあった。「綾門大道」は琉球王国第一の道とされ、かつてはこの通り沿いに王家の別邸などが並んでいた。また、国をあげて行われる大きな祝時には、綾門大綱(アイジョウウンナ)と呼ばれる綱ひき行事が行われた場所であった。かつての綾門大道沿いには市場が設けられ、朝夕多くの人々が行き交い、賑わいをみせていた。この綾門大道では旧暦の1月15日に綾門競馬がおこなわれた。琉球の競馬ではンマハラセー(馬走らせ)といい、速く走るのではなく、走る姿勢や、足並みの美しさを二頭で競う競馬であったが綾門競馬ではそれとは違う、速さと勇気を競う競馬があった。明治初め頃までは、存在していた中山門から、守禮の門までを十数頭が集団で走り抜ける競馬で、こちらは純粋に速さを競う競馬であり、ブリュンマ(群馬)と呼ばれた。この綾門競馬も明治39年で打ち切られ平良真地へ舞台を移している。 
 
綾門大道沿いにある玉陵(たまうどぅん)

那覇市の解説より
 玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442㎡。 沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。
 昭和47年5月15日に玉陵墓室石牆(たまうどぅん ぼしつ せきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定されました。また、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

平良真地

首里から浦添に向かう宿道を「大名界隈歴史マップ」の看板のある四つ角で北西に方角を変え、やや曲がった道を進むと急に広い東西の直線の道に出会う。テーラ馬場(ウマイー)と呼ばれる平良真地である。ここは王府直轄の馬場で全長2.55町(約278m) 幅10間(約18m)の大きさがある。平良真地は1695年尚貞王によって開場されている。馬場の南側には琉球八社の一つである、末吉宮がある。昭和初期の平良真地では中頭と島尻の代表馬による大競馬が開かれていた。また、10月20日の沖縄神社祭の奉納競馬や全県大会の舞台ともなっていた。

解説文より
馬の調教及び競馬場跡。
 琉球・沖縄における競馬は、「馬勝負(ンマスーブ)」・「馬揃い(ンマズリー)」といい、前後の足を同時に、左右交互に繰り出すのを特徴とした(「側対歩(アシクマスン)」)。また、馬具の華やかさ、乗り手の凛々しさなどが勝負の対象となった。
平良真地は、「平良馬追い(テーランマイー)」ともいい、識名真地(シチナマージ)(馬場)とともに琉球王国の二大馬場であった。1695年、首里の北、西原間切平村(良にしはらまぎりたいらむら)(現那覇市首里平良町)の西に地を定め、設置された。長さは約300mにも及ぶ直線で、幅は約15m程あったという。馬場のほぼ中央には、国王が競馬を見物する「御桟敷(ウサンシチ)」があり、東端には、馬を水浴びさせる「馬浴せ小堀(ンマアミセクムイ)」があった。また、馬場の両側は松並木であった。  平良真地は、1897年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)以降は、ほとんど使われなくなったが、1924年(大正13)、首里城に沖縄神社が置かれて以来、10月20日の神社例祭日に奉納競馬が行われた。この日は、沖縄本島中・南部から馬愛好家が守礼門側の記念運動場(現首里城レストセンター一帯)に集まり、色とりどりの馬具で飾り立てた馬に、勇ましい若者が乗り、200頭余りが2列に並んで、平良真地まで行進した。その行列は、例祭の一大イベントで、壮観であったという。また、馬場では、午前10時頃から午後4時頃まで競馬が行われ、多くの見物客が訪れたという。  1941年(昭和16)の日米開戦の影響により、平良真地での競馬は中止となり、周囲の松も、陣地壕構築のため切り倒され、馬場は掘り起こされて畑となった。沖縄戦後、一帯は住宅地となったが、幅広く、まっすぐに延びた道路が、往時の姿をとどめている。
 

松崎馬場

 
 龍譚通りにある中城御殿跡前の龍譚池の東側に解説文のある石柱が建てられている。その脇の南北の道が浦添に至る西海道である。松崎馬場跡は沖縄県立芸術大学敷地の西側になる。
上記の四角い緑の図が松崎馬場跡の位置ですが個人的な推定図です。                         グーグルマップより


首里城と龍潭池

西海道
 解説文より

 首里城から浦添(うらそえ)方面に至る街道の一部及び広場の名称。龍潭(りゅうたん)に突き出した一帯には松が植えられ、そこから松崎と名付けられた。
 1801年に、この地(現沖縄県立芸術大学敷地)に「国学(こくがく)」(琉球王国の最高学府)が置かれた際、松崎前の条路に木々が植えられ、この一帯が整備された。中国から冊封使(さっぷうし)が来琉した際には、この地で「重陽宴(ちょうようえん)」が開かれ、爬龍船競漕(はりゅうせんきょうそう)見物のため桟敷席(さじきせき)が設けられた。
 1989年(平成元)に「国学」及び「首里孔子廟(こうしびょう)」(1837年設置)の石垣が確認され、県の指定文化財(史跡)となった。

崎山馬場

「崎山馬場」は王家御用の馬場で、東西約200m延びる道路では馬術訓練などが行われていた。 東側をウマウィーヌカラジ(馬追の頭)、西側をウマウィーヌチビ(馬追の尻)と呼んでいた。現在の崎山町公民館がある一帯は、国王が馬術訓練の様子や崎山村の綱引きを見物する際に御桟敷(ウサンシチ)が設けられた。崎山村、赤田村、鳥小堀(トゥンジュムイ)村(現在の首里鳥堀町)は、首里三箇(しゅりさんか)と呼ばれ、王府時代から庶民の町として栄えた。特に廃藩置県(1879年)以降は、泡盛作りが盛んに行われ、県下にその名を轟かせました。馬場の脇には泡盛蔵元の瑞泉酒造がある。崎山ではこの馬場を利用して綱引きを行っていた。

崎山馬場跡

崎山馬場跡

解説文
崎山馬場御桟敷跡(さきやまばばウサンシチあと)

崎山は首里八景の中で「崎山竹籬(さきやまちくり)」と題して詠まれ、竹に囲まれた家々のたたずまいに、ひなびた村も趣がうかがえました。
 村の中には王家御用の馬場「崎山馬場」が東西に延び、馬術訓練が行なわれました。その様子をご覧になるため、王様がお出ましになる時、この辺りが御桟敷(ウサンシチ)となりました
 歴史散歩の道 ”ヒジガービラまーい”
那覇市教育委員会 平成6年(1994年)3月設置
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