このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

江戸の馬場 

古地図で巡る江戸の馬場

 江戸の町には市中のあちらこちらに馬場が設けられている。切り絵図をみると緑色で識別されている。今は当時の面影は全くなくビルや住宅になっている。武士の馬術の練習場であった馬場跡を紹介してみます。

桜の馬場


桜の馬場は御茶ノ水馬場ともいい、馬場の左右に桜もみじの大木があったと言う。江戸末の切絵図では江川太郎左エ門掛鉄砲鋳場となっている。1875(明治8)年に設立されたお茶の水女子大学の前身である東京女子師範学校があった。現在は東京医科歯科大学になっている。

中央奥の木の茂っている辺り

東京医科歯科大学構内

尾張殿馬場


現在は防衛省となっている尾張徳川家の上屋敷の西側にこの尾張殿馬場はあった。馬場のあった辺りは外苑東通りとなっているようである。尾張徳川家屋敷跡は戦前は陸軍士官学校、戦後は市ヶ谷駐屯地が置かれていた。三島由紀夫が自決した場所としても知られている。

右側が馬場跡

道路(外苑東通)となっている馬場跡

溜池馬場


溜池馬場はその名の通り溜池にあった馬場でアメリカ大使館の北側の三会堂ビルディング辺りのあった馬場である。溜池は江戸時代の始め作られた外堀兼用の上水源であった。玉川上水が出来ると上水としての役割も終わり、埋め立てが進んだ。元禄の頃から町屋や武家屋敷が建てられ、馬場も置かれた。

左側が馬場跡

右側が馬場跡

北方馬場


北方馬場は御成門の前にあった馬場である。現在の御成門は本来あった場所から南の東京プリンスホテルの北側に移されている。御成門とは将軍が増上寺に参詣する時に利用した門であることからいわれている。

御成門

御成門中辺り

御用明地騎射馬場 三番町馬場


江戸時代には火除地や御用明地騎射馬場として使用されていた。また三番町にあったことから、三番町馬場とも呼ばれていた現在は参道になっている周囲は明治4年から34年まで競馬が行われていた。

靖国神社参道

靖国神社

朝鮮馬場


朝鮮馬場を調べると馬場先門の中にあった馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから朝鮮馬場の名があるという。しかし嘉永・慶応の江戸切絵図(上図)では北の丸の南側に存在している。移されてここにあるのであろうか。

代官町

科学技術館前

騎射調練馬場


射調練馬場は麹町の御用地にあった馬場で1856(安政03)年剣道の防具に土器(かわらけ)をつけて互いに打割るほうろく調煉が実施された馬場で「ほうろく調練場」とも言われた。

右側がほうろく調練場跡

半蔵門前

乗込馬場


俗称「加賀屋敷跡」と呼ばれた武家地にあった馬場で乗込馬場という名称が正しいのか不明であるが他にないのでここではこれを採用していある。現在ここは日銀の市ヶ谷加賀町アパートになっている。

東方向

西方向

榛馬場


本所の亀沢町にあった馬場でそこを囲む土手に大きな榛があったので「榛馬場」と呼ばれていた。ここは明治の始めまであったそうである。馬場の広さは東西約185m南北約22mであった。また傍らにあった榛稲荷神社は今でも残されている。

馬場跡
榛稲荷神社

堀田原馬場


江戸の頃、勧進大相撲が行われた蔵前八幡の西側の浅草堀田原にこの馬場はあった。切り絵図では八幡宮となっている、現在の蔵前神社の裏手に当たる場所である。北側には切り絵図にある榧寺がある。現在の住所で言うと蔵前3−15及び19、寿3−5付近が相当すると思う。

堀田原馬場跡付近

蔵前神社

小石川馬場


小石川馬場は白山通り沿いにあった馬場で 享保江戸大火(290年前) 1717年の「小石川馬場の火事」で火元にもなった場所である。
馬場東側の周りの当時から残っている道から判断すると白山1−7と1−8が相当すると思われるが西側から見ると白山1−5と1−6の付近のようにも思われる。しかし全体の形から見ると白山1−7と1−8が良いのではと思う。
右側が白山1−5と左側が1−8

小日向馬場

小日向馬場は新宿区西五軒町にあった馬場で南側には牛込総鎮守の赤城神社がある。この辺りの道は切り絵図とあまり変わりなく該当の場所は直ぐに見つけることができる。西五軒町の東側の細長い区画がそれに相当する。

小日向馬場跡付近

赤城神社

初音馬場 馬喰町馬場


江戸切絵図 日本橋北内神田両国浜町明細絵図

初音馬場は明治始めまでは残っていたが現在は問屋街の一角となりここに馬場があった事を思わすものは何もない。ここは初音馬場とか馬喰町馬場と呼ばれ馬喰町三丁目にあった。関ヶ原の戦いの時、ここで馬揃えをして戦勝を祈ったという。江戸最古の馬場である。初音馬場の名の由来は近くに初音稲荷があった事からという。
浅草橋寄りには郡代屋敷があり、関東一円や東海方面の天領のもめ事をここで取り扱った。浅草橋には浅草御門があり、奥州街道や日光道中方面の守りを固めていた。ここは江戸城三十六見附の一つである浅草見附であった。初音馬場跡付近

采女ヶ原馬場

江戸切絵図 京橋南築地鉄砲洲絵図

采女ヶ原馬場は伊予今治藩主松平采女正定基の屋敷があったことが由来である。屋敷は享保九年(1724)の大火で麹町に移りその跡地が馬場、火除地となった。馬場が出来てここは盛り場の様になったが夜は寂しい場所だったという。明治から昭和の初めまではここは釆女町であった。
東側の築地川に架かる橋は采女橋という。今は川は無く首都高速道路となっている采女ヶ原馬場跡付近

十番馬場


江戸切絵図 東都麻布之絵図

享保14年(1729 )芝にあった馬場が一の橋に移転し十番馬場ができた。仙台駒の市も開かれ馬方の宿や茶屋ができ、また麻布山善福寺の門前町として発展し大いにこの付近は賑わった。明治になると十番馬場は廃止された。
十番馬場のあった場所は現在東麻布となっており、麻布十番は一の橋西側の地名となっている。切絵図では馬場東側の道に「此辺十番ト云」と表記されている。
十番馬場跡付近
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