このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
競馬場 |
古地図で巡る消えた競馬場
地図で見る競馬場は白色部分が多くその楕円形の形からすぐ識別することができる。自然の地形を写した地図の中にかなり大きな人工物である競馬場があると、なぜか興味を引かれてしまうものである。現在はなくなってしまった競馬場を古い地図から探して紹介したいと思います。 |
川崎競馬場
大正14年発行 2万5千分の1 川崎 |
京浜競馬倶楽部は明治39年9月に板垣退助を中心に設立され、翌年の明治40年7月に川崎競馬場で競馬が開催された。明治43年には他の3団体と合併し、東京競馬倶楽部が設立され目黒競馬場へ移っている。廃止された川崎競馬場はその後、富士紡績川崎工場となった。地図は残念ながら競馬場時代のものは無く、紡績工場の時のものである。 | |
川崎歴史ガイドより 大正の始め、競馬場の跡地に東洋一の紡績工場を建て、川崎の工業都市化を決定づけた富士紡績。女工2000人。沖縄出身者も多く、沖縄芸能が川崎に根付いた。戦後、跡地は再び競馬場に。 |
板橋競馬場
明治43年発行 1万分の1 王子 |
板橋競馬場は東京ジョッケー倶楽部が明治40年(1907年)認可を受け運営した。明治43年目黒競馬場へ他の競馬場と共に統合されている。当時馬券は一枚十円で庶民には手が届きにくい高価なものであった。 | |
写真上は競馬場東南部に当たる氷川図書館前のものである。道路右側が競馬場跡。写真右は豊島病院。豊島病院は競馬場の敷地内の一角に出来ている。 |
千住競馬場
明治43年発行 1万分の1 三河島 |
千住競馬場 千住仲組の緑町ではいわゆるヤミの草競馬が行われていた。明治39年(1906年)馬券を発売する競馬を開催したが千住警察署長は馬券は賭博にあたると発売を禁止する措置をとり、レースを中止させてしまった。以後明治41年(1908年)正式に馬券発売は禁止となった。 | |
地図では輪士會競走場となっており自転車倶楽部の競走場であるが競馬はここで開催されいたのではないかと想像している。場所は千住神社(古地図では氷川社)の西側の千住緑町三丁目に相当する。 写真上は千住緑町三丁目 写真右は千住神社 |
池上競馬場
大正14年発行 2万5千分の1 川崎 |
池上競馬場跡付近 (徳持小学校前) | 池上競馬場は明治39年〜明治43年にかけて東京競馬会が運営していた。。明治43年には、東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、日本競馬会(目黒)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)の4団体が合併し東京競馬倶楽部が設立され本拠地は目黒競馬場となり池上競馬場は廃止された。 |
上の地図は大正14年のものであるが競馬場の痕跡がまだ残っている。池上線は当時文字通り池上止まりとなっている。池上本門寺は駅の北側に位置している。この地図を初めて見た時多摩川の流路の変遷で出来た池か沼の跡かと勝手に想像していたがまるで違っていた。競馬場であったとは驚きである。 | 池上本門寺 |
三田育種場興農競馬場
参謀本部陸軍部測量局 5千分の1 東京府武蔵国芝区芝公園公園地近傍 |
東京都港区芝3丁目付近 | 港区芝3丁目は薩摩藩上屋敷があった場所である。明治10年その跡地に三田勧業局育種場が設置された。その開設を祝う競馬がここで行われた。明治12年には一周1200mの正式な競馬場が完成した。その翌年には興農競馬会社が設立された。春秋2回の定期的な競馬が開催された。明治23年まで存続した。 |
江戸切絵図で当地をみてみると、松平修理大夫と書かれ○に十字の紋所がしっかりと描かれている。島津家は公式な文章では、松平薩摩守とか松平修理大夫と記している。日本電気本社ビル前には薩摩屋敷跡の碑が建てられている。 | 日本電気本社ビル前 |
上野不忍池競馬場
参謀本部陸軍部測量局 5千分の1 東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍 東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍 |
上野不忍池競馬場は明治17年に戸山学校競馬場が移転して来たものである。交通不便な戸山から移り集客アップをねらったが明治25年経営難のため、解散している。 左の写真 不忍池の周回コース 白い柵が見えている。 左下の写真 現在の弁天堂前 下の写真 不忍池競馬場馬見所 | |
戸山学校競馬場
明治13年11月発行 2万分の1 迅速測図
東京府武蔵国南豊島郡大久保村
戸山学校競馬場は明治12年(1879年)から明治17年まで存続した。戸山学校に競馬場が設置されたのは前米大統領グランド将軍の来日歓迎行事として競馬を開催するためであった。この競馬大会には明治天皇も行幸し、盛大におこなわれた。 この時、運営会社の共同競馬会が設立され、近代的競馬規則も定められた。 | |
上図は古地図にピンクの現在の地図を重ね会わせたものである。これから見ると、競馬場は現在の早大理工学部の敷地と重なるようである。右の写真は現在の戸山公園東側の入り口。この付近奥が北側の直線部分の走路に当たるのであろうか。 |
招魂社競馬場
参謀本部陸軍部測量局 明治20年出版 5千分の1 「東京中部」 |
靖国神社参道 | 招魂社競馬場は明治3年(1870)から明治31年(1898)まで招魂社の境内の馬場で奉納競馬として春秋の例大祭に競馬が行われた。これが、日本人による国内初の洋式競馬である。招魂社とは現在の靖国神社のことである。競馬場は参道の両脇に柵を巡らしその端を結ぶ楕円形の一周900m(500間)のコースであった。この競馬は当初兵部省の主催で実施されていたが明治5年に兵部省が廃止されるとその後を引き継いだ陸軍省が実施している。競馬場としては明治34年に廃止された。 |
靖国神社 |
吹上御苑の競馬場
参謀本部陸軍部測量局 5千分の1 東京府武蔵国麹町区代官町及一番町近傍 東京府武蔵国麹町区皇城及永田町近傍 |
半蔵濠 | 皇居内の吹上御苑の競馬は明治8年(1875)から明治17年(1884)まで続けられた。明治天皇はかなりの競馬好きだったと思われ、よく競馬の観戦を楽しんだようである。競技としての西洋式競馬は当時社交の場であり、近代化を急ぐ明治期の屋外の鹿鳴館として機能したようである。そんな背景もあり皇居内に競馬場が設けられたのであろうか。競馬場も不平等条約改正に一役買ったと思うと面白くなってしまう。当時外国人中心の根岸競馬を除くと競馬は賭の対象ではなく、もっぱら観戦が主であった。 |
半蔵門 |
目黒競馬場跡
昭和6年発行 2万5千分の1 東京西南部 | |
競馬場外周の曲線部 写真中央 | 目黒競馬場跡には競馬場外周の曲線部分が現在でも残っている。上の地図の赤いラインの部分が外周跡の名残である。。目黒競馬場は1907年(明治40年)12月日本競馬会により開設されている。1932年(昭和7年)には第一回日本ダービーが開催されている。1933年(昭和8年)には府中の東京競馬場へ移転している。競馬場北側の交差点名やバス停に元競馬場の名があり、馬のモニメントがある記念碑が設置されている。他に競馬場の名残としてはコース中央あたりを横切る南北を通る「元競馬場通り」がある。 |
競馬場名残の交差点名 | 記念碑 |
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