このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

猿若町

浅草 猿若町


現在 浅草6丁目

明治44年の猿若町
江戸時代の猿若町の出入り口は南、北と南東の三カ所のみで木戸が設けられていた。町内は芝居小屋や芝居茶屋だけでなく役者の住宅もあった。ほかに、料理屋、土産物屋、大道具、小道具屋などがあった。

江都名所之内猿若街図
天保12年(1841)老中水野忠邦の天保の改革で江戸市中にあった芝居小屋は風紀を乱すからと猿若町という閉鎖された空間一カ所に集められ遊郭のように閉じこめられてしまった。猿若町の名は江戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎に由来しているという。猿若町は一丁目から三丁目まであり、一丁目には中村座、二丁目には市村座そして三丁目には守田座があった。これがいわゆる江戸三座である。このうち守田座は休座が多く控え櫓の河原崎座が代って興行していた。猿若町に移転時も河原崎座が公演している。
明治5年(1873)になると守田座が新富町に移り、他の二座も明治25年までに鳥越町、下谷ニ長町へと移っており芝居町としての役目を終えてしまった。芝居町の時代もわずか30年ほどであった。

浅草猿若町市村座一郭模型

江戸猿若町市村座跡の碑

浅草猿若町碑

猿若町跡の通り
芝居町が有った頃の唯一の名残
芝居関係の小道具を扱う会社がある

江戸猿若町守田座跡の碑

消えた地名は電柱にその名を残している。

町名は消えてしまったが猿若の名称は町会名にその名を残している。
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