このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
大学の発祥 |
古地図で訪ねる大学の始め
大学の発祥地を古地図と発祥碑で訪ねてみます。
東京大学医学部
お玉ヶ池種痘所跡 碑 岩本町2-7 -11 加島ビル壁面 | 碑文から 江戸最初のお玉ヶ池種痘所跡のあった所 お玉ヶ池史蹟保存会 お玉ヶ池種痘所 お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほど の広さであったのが安政のころには 小さなものになり現在はそのあとか たもなく史蹟としてお玉稲荷が祀っ てあるだけです 一時は池のほとりに 梁川星巌の玉池吟社 市川寛斎の江湖詩社 大窪詩仏の詩聖堂 東條一堂の瑶池塾 佐久間象山の象山書院 剣士千葉周作の道場玄武館 磯又右衛門の柔道道場 永坂石埭宅 清元太左衛門宅など 文武の華が咲きほこりました この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨 の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘 所があったところで東京大学医学部 発祥の地です 同学部は昭和33年 に迎えた創立百年の記念に昭和36年 文化の日お玉ヶ池種痘所記念 碑と同時にこゝに元標を立てられま した お玉ヶ池史蹟保存会 お玉ヶ池種痘所跡 神田お玉ヶ池松枝町続元正眼 寺前勘定奉行川路聖謨屋敷内 東京大学医学部 |
5千分一東京図 明治始めの地図 本郷区本郷元富士町近傍 |
お玉ヶ池種痘所記念お玉ヶ池種痘所の記念に
一八五八年・安政五年五月七日 江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつてこの近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷和泉橘通へ移つた。この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを立てて記念とする。 一九六一年十一月三日 昭和三十六年文化の日。 東京大學醫學部
所在地 東京都千代田区岩本町2丁目5−9沿革
安政5年 (1858) 5月 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立された。
11月 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続した。
安政6年 (1859) 9月 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転した。
万延元年 (1860) 10月 幕府直轄の種痘所となった。
文久元年 (1861) 10月 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった。
文久3年 (1863) 2月 西洋医学所は、医学所と改称された。
明治元年 (1868) 7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになった。
明治2年 (1869) 2月 大病院は、医学校兼病院と改称された。
12月 医学校兼病院は、大学東校と改称された。
明治4年 (1871) 7月 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称された。
明治5年 (1872) 8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。
明治7年 (1874) 5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称された。
明治9年 (1876) 11月 東京医学校は、本郷に移転した。
明治10年 (1877) 4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なった。
明治19年 (1886) 3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置された。
明治30年 (1897) 6月 帝国大学は、東京帝国大学となった。
大正6年 (1917) 8月 文部省医師開業試験附属永楽病院が、本学に移管され東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院となった。
大正8年 (1919) 4月 学部制が敷かれ、医科大学は医学部となった。
昭和22年 (1947) 10月 東京帝国大学は、東京大学となった。
本郷 東京大学医学部
東京大学工学部 へ
トップページ 旧道行脚 沖縄もくじ |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |