このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

酔古ざつがく

沖縄のむかしみち (祟元寺橋から渡地まで)

今の長虹堤

 大正10年発行の2万5千分の1の地形図

A
 上の写真は旧安里橋から続く道である(自販機のうしろ)。祟元寺橋は手前の道の右側にある。長虹堤跡の道。突き当たりが祟元寺橋。
 B現在の長虹堤を歩いてみる。ここがかつて海中道路であったとは信じられないほど何も残っていない、ごく普通の道路である。
唯一名残りを見せるものが民話「七ツ墓」に登場する岩礁。旧ダイナハの横に今もビルの陰になりながら残されている。
C「七ツ墓」の前を通り過ぎると道は久茂地川に行き当たる。川には旧美栄橋が架かっていたが現美栄橋は北東側に移動している。この場所にはモノレールの美栄橋駅が出来ている。現在残されている長虹堤はここまでである。ここから先のイビガマまでは道筋は変わり全く残されていない。
 D  この道筋のほとんどは失われており、古地図と同じ道を歩けないのでポイントで紹介したいと思います。①の地点は美栄橋で久茂地川の上空にはモノレールが通り昔とはかなり様変わりしています。本来の美栄橋があった場所は現在の橋より那覇港側で、旧道の突き当たりの所に当たります。
E  写真は松山の玉キ米屋駐車場で美栄橋からここまでは長虹堤の一部で一直線に延びていた。またここには「イベガマ」があったという。「イベ」とは御嶽のなかの最も神聖な場を指していた。長虹堤の工事にかかわり亡くなった阿波根祝女(アハゴンノロ)を祀ったとされている。道はここで南に直角に曲がり国道58号線を縫うように走っている。

長虹堤絵図


球陽八景 長虹秋霽(周煌 琉球国志略)

葛飾北斎の琉球八景 長虹秋霽
昔、那覇は浮島と呼ばれていた。15世紀半ばの第一尚氏の尚金福により首里と那覇を結ぶ長虹堤といわれる海中道路が造られた。これは那覇東村にある冊封使の宿泊施設である天使館と首里を結ぶ道(宿道)の一部で崇元寺橋(当時は安里橋)から松山のイベガマまでの道である。約1キロ程の距離があった。
旧版地図から見ると安里橋(現崇元寺橋西側)から旧美栄橋までの道筋は大体残っているようである。もっとも往時の「堤」の面影は全く無い。その先の松山のイベガマまでの道は戦後の区画整理により全く失われている。
安里橋は現在の橋より西側にあったといわれ、茶甚マンションの西側の路地が安里橋からの延長線上の道筋と重なるように思われる。ここより先は十貫瀬の通りを抜け沖映通りを渡り、沖映通りによりできた三角形の土地の南側を通って久茂地川に突き当たる。この場所には旧美栄橋が架かっていた。旧久茂地町にあった「イベガマ」は松山の玉キ米屋ビル裏の駐車場にあったといわれている。 現在の道筋から長虹堤の姿を想像させるものは何も無いのでせめて当時描かれた絵でその姿を垣間見てほしい。左図は中国人の描いた長虹堤である。そして右図は浮世絵師で有名な葛飾北斎が描いた物である。どちらもほとんど同じ構図なので琉球に行った事が無い北斎が左図を参考に描いたようである。江戸期には琉球からの使節がたびたび江戸まで行っており、江戸の人々の琉球への関心は高かったようである。

長虹堤から続く古道

大正10年発行の2万5千分の1の地形図
Fこの付近は久米村の孔子廟のあったところで商工会議所となり孔子像が建てられている。この部分の昔の道は戦後の河川改修で久茂地川の流れの下になり消えてしまっている。この先の泉崎交差点からは 久米大門下天妃宮天使館親見世 と続くのであるがここでも道筋は無くなっている。
G
HGの左は北側親見世方向を撮ったもので、在番奉行所の仮屋や昆布座のあった道に相当するが道筋は少しずれている感じがする。地図Gの位置あたりに思案橋があったのかと想像している。右図は渡地あたりに相当する。明治初年のころは遊所があったとされるがその痕跡は全く無い。ここから対岸には渡し船があったという。
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