このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


▼駄知線の経路
土岐市(ときし)
神明口(しんめいぐち)
土岐口(ときぐち)
下石(おろし)
山神(山神)
駄知(だち)
東駄知(ひがしだち)
東濃鉄道駄知線の概要

【概要】
東濃鉄道駄知(だち)線とは、岐阜県土岐市の北部に位置するJR中央西線土岐市駅から、土岐市内を 「し」の字型に縦断し、同市東部の東駄知駅までを結んでいた10.4kmの鉄道です。途中、5つの駅が設け られていました。

 明治末期からの鉄道敷設ブームの中で、中央線ルートから外れてしまった現在の土岐市南部地域の実力 者を中心にして、この地域に鉄道を敷設する機運が高まり駄知鉄道が設立されました。1922年(大正11年) に土岐郡(当時)中部地域を縦断する鉄道として開業し、沿線で生産される陶磁器製品やその原料となる 陶土の輸送、及び沿線住民の足として活躍しました。沿線全域で陶磁器生産及び陶土産出が盛んなため、 各駅で貨物業務が行われていました。

 1944年(昭和19年)、近隣の交通事業者と合併し東濃鉄道が設立。駄知鉄道は東濃鉄道駄知線となりまし た。戦後の燃料費高騰をきっかけに、1950年(昭和25年)の全線電化による設備の近代化を実現しました。 当時はそれができるほど経営体力のある鉄道だったのです。地域の発展や沿線に高校が開校するなど、こ の頃から10年間ほどが駄知線の黄金時代でした。

 しかし、自動車社会の到来とともに周辺道路網も整備され、ライフスタイルにも変化が見られるように なった頃から、貨物取扱量の著しい減少と乗客数も頭打ちになりました。1970年代に入ると末端区間の廃 止が提案されるようになり、鉄道経営も深刻な事態となりました。
 駄知線にとって致命傷になったのは1972年(昭和47年)7月の集中豪雨による土岐川鉄橋流失でした。こ れが原因で電車の運行は全面運休に追い込まれました。地元では流出した鉄橋の復旧と運行再開を求める 声が相次ぎましたが、復旧費用が膨大なため東濃鉄道単独で再開するのが難しくなったため、バス代行運 転の甲斐も無く、2年間の運休期間が終わる1974年(昭和49年)にお別れ運行も無く寂しく廃止されてしま った鉄道です。

【現在】
 廃止から既に四半世紀が経過し、駄知線の面影はかなり失われてしまいましたが、線路跡の大部分は土 岐市に払い下げられ、サイクリングロードとして整備されました。しかし、旧下石駅は郵便局が建ち、旧 駄知駅は現在も東濃鉄道のバスターミナルとして地域交通の拠点となっており、地域のシンボル的存在に なっています。

 また、駄知町には「西駅」(駄知駅の通称)と「東駅」(東駄知駅の通称)という通称地名が現存するなど、 駄知線の遺産は沿線各地に点在しています。駄知線の代替となったバスは、東濃鉄道によって現在も土岐 市内の基幹路線として、駄知線の走っていた経路に沿って運行されており、地元住民の通勤・通学の足と して利用されています。

 駄知線を運営していた東濃鉄道は、鉄道路線がすべて無くなったにも関わらず、現在も社名変更してい ません。東濃鉄道は広島県の鞆鉄道などと並んで「鉄道路線を持たない鉄道会社」として知られています。 「東濃鉄道」の社名こそ、駄知線究極の遺産かもしれません。

駄知線の歴史
出来事
1892年(明治25年)6月、鉄道敷設法公布され、このなかで中央線敷設が定められる。
中馬街道(名古屋−瀬戸−鶴里−曽木)や下街道(名古屋−多治見−土岐津−瑞浪)の誘致運動と共に東濃南部陶磁器生産地域縦断ルート(名古屋−瀬戸−笠原−下石−駄知−明智−大井<現在の恵那市>)の誘致運動が駄知町を中心に行われる。
1894年(明治27年)5月、下街道筋の案に決定し、路線が確定する。
1902年(明治35年)12月、中央線名古屋−中津(現・中津川)開通と同時に土岐津駅設置。
1910年(明治43年)軽便鉄道法公布により、東濃地方にも軽便鉄道熱巻き起こる。
1911年(明治44年)9月、駄知電気鉄道が第1期(駄知〜瑞浪)、第2期(瑞浪〜明智) の鉄道敷設計画のうち、土岐郡駄知町から中央線に最も近い土岐郡瑞浪村(現・岐阜県瑞浪市)の瑞浪駅を 起点とした、瑞浪村−駄知町間の特許申請するが、建設予算見積が過少のため却下される。
1916年(大正5年)5月、駄知軽便鉄道が瑞浪村−駄知町間の免許申請するが、後 に起点を土岐郡泉町(現・土岐市泉町)の中央線土岐津駅に変更する。
1917年(大正6年)7月、駄知軽便鉄道、泉町−駄知町間の免許申請する。
1918年(大正7年)8月、上記区間の鉄道敷設が認可される。
1919年(大正8年)4月、駄知鉄道株式会社設立。初代社長は籠橋留次郎。
1920年(大正9年)1月、駄知鉄道敷設工事開始。
1922年(大正11年)1月、新土岐津−下石間(4.7km)開業。
10月、下石−山神間(2.8km)開業。
1923年(大正12年)1月、山神−駄知間(1.6km)開業。
1924年(大正13年)9月、駄知−東駄知間(1.3km)開業。(=全線開通)
1928年(昭和3年)3月、中央線土岐津駅乗り入れ開始。新土岐津駅廃止。
それまでは、中央線土岐津駅から西へ約200m離れた地点にあり、旅客は乗り換えの際、徒歩連絡を必要とした。
1929年(昭和4年)ガソリン動力併用開始。4月、土岐津駅−土岐口駅間に神明口駅開業。
1932年(昭和7年)5月、時の鉄道大臣、床次竹二郎に駄知鉄道を国有鉄道に買収して もらうように陳情。
1944年(昭和19年)3月、戦時下の陸上交通事業調整法に基づく行政指導によって、笠原鉄道(新多治見−笠原)やこの地域のバス会社と合併し、新会社「東濃鉄道」の一翼となり、東濃鉄道駄知線となる。
1950年(昭和25年)7月、全線電化(1500V)され、スピードアップ達成。運転回数増加。
1956年(昭和31年)8月5日、駄知線土岐口〜下石間で、上り貨物列車と通過証をもらわなかった下り東駄知行普通電車が正面衝突。39名負傷。
1960年代陶磁器製品、原料輸送がトラックに移り、貨物輸送量が激減。
1966年(昭和41年)旅客輸送量のピーク。翌年から減少傾向になる。
1970年(昭和45年)3月、多治見市下沢町−土岐市下石町までの道路改修工事完成。それまで1時間を要した、多治見−(下石経由)−駄知間が30分程度になり、これ以後、多治見直通のバスシフトが本格化。
1971年(昭和46年)経営難から東濃鉄道が名鉄グループ傘下に入る。
1972年(昭和47年)5月、東濃鉄道が年間2000万円(当時)の赤字を出していた、 駄知−東駄知(1.2km)の廃止を申請。7月、集中豪雨により、土岐川鉄橋流失。不通となり休止届け申請。2年間の休止認められ、土岐市−東駄知間でバス代行始まる。
1974年(昭和49年)7月、2年間の休止期間中での復活を断念。駄知線全線(土岐市−東駄知)の廃止を申請する。10月21日付で廃止許可される。

東濃鉄道駄知線の乗車券
 廃線後30年も経つと乗車券収集も困難の度合いが高まってきます。各地の展示物や過去にYahoo!オークションに出品されたものからピックアップしました。ちなみに、Yahoo!オークションでは平均して3000〜5000円程度で取引されています。
【駄知線の乗車券】
駄知線最盛期の乗車券末期の乗車券

【国鉄線との連絡輸送】

中央線多治見駅までの乗車券土岐市・多治見経由の太多線美濃太田駅までの通学定期券


参考文献
『駄知鉄道史』(野田正穂・原田勝正・青木栄一著、日本経済評論社、1983年<昭和58年>刊)、 解題「駄知鉄道史」。
『土岐津町誌』(土岐津町誌編纂委員会、1997年<平成9年>)、下巻第3節鉄道834〜843頁。
『東濃新報』昭和47年5月19日分。
『ふるさと泉・産業文化編』土岐市立泉公民館、1989年<平成元年>。

駄知線資料室メインへもどる

広隆堂Homepageへもどる

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください