このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
(いかだつこう)33°50'51.39"N133°23'2.75"E
別子観光センター「筏津荘」
写真中央の建物のすぐ裏に坑道があり内部を資料展示室としている
入場料 無料
本舗、余慶、筏津、積善とある別子の四鉱床のうちの筏津鉱床の坑道である。ルイ・ラロッコは、弟地(おとぢ)で本舗とは別の鉱床の露頭を発見し、
鉱床に沿って斜坑を掘り採鉱する重要性を「別子鉱山目諭見書」に書き記している。明治11年(1878年)に開抗して試し掘りに入り、明治18年(1886)に
採鉱場と湿式修銅所の建設に着手し、翌年に操業を開始した。最初は弟地坑と呼ばれていた。明治34年(1901)には休坑となった。
大正5年(1916)に採鉱を再開し、昭和4年(1929)には第二斜坑の開鑿を開始し、以後下部に向って進められた。昭和18年(1943)に
大立坑と筏津坑下部との間に採鉱通洞が貫通して、第四通銅と連絡することになった。昭和20年代に入っての下部開発は別子の産出銅の
増加に大きな役割を果たした。昭和48年(1973年)3月31日の筏津坑の終掘で、元禄4年(1691)の開坑以来、283年間に及ぶ別子銅山の歴史を閉じた。
案内板より
別子銅山の四つの鉱床のうちの一つである。1878年に掘り始め、弟地坑と呼ばれていた。
途中で掘るのを止めていたが、1918年に再び掘り始め、名前は筏津坑と呼ばれていた
現在の坑道の内部 真夏でも大変涼しい
この電車は通称「かご電」と呼ばれていて日浦−東平間を運行していたもの
私の嫁さんのおやじさんも乗った事があるらしい
日浦通洞 (標高765m)33°51'5.04"N133°21'4.48"E
明治14年(1881)東延斜坑底からここ日浦谷へ向けて開削をはじめ、明治44年に開通した多目的通洞である。全長は2.020m、東平の
第三通洞
ともつながり、
銅山峰の南北を結ぶ鉱石や物資輸送の動脈となった。更に、同時に併行して建設された端出場水力発電所用水路も併設された。
大正13年(1924)には筏津坑との間に索道が架設されて、筏津・余慶・積善坑の鉱石がここに運ばれ、鉱車に積み替えられて東平へ運び出されていた。
昭和13年(1938)には周りを金網で囲まれた籠電車が運転されるようになり、広く村民にも供用された。
坑道入り口の古い小屋の中にはなんと!ホンダスーパーカブが捨てられていた??
以前は橋の上を通行ができたのか…現在この坑道には近づく事が出来ない
端出場発電所導水路
左下・直径約1mの管はなんと!日浦通洞から
第3通洞
を抜け石ヶ山上の貯水池まで続いているのだ
導水路跡は対岸を下流に向って数百メートル下ったところで川を渡り大野谷取水口へと続いている
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