このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
伊予三島市金砂町、中之川部落中央付近の広い畑の中に、巨大な石積みの「熊おす」の7人塚が築かれたまま、現在でもでんと座って立派に保存されています。
昔から、中之川だけにひそやかに、親から子へ子から孫へと伝えられて来た、もう一つの「熊おす]の話があります。
ある夏の午後、急に雨が降り出しました。この雨さえ降らなければ、村中が震撼するような、そして末代までも秘密にしなければならない様な事件が、起こらなかったのではないかと思います。
土佐から中之川峠を越えて、7人の落ち武者がやって来ました。雨を避けるためある家に立ち寄り、話をしているうちにお腹も空いて来たので、何か食べ物をと言う事になり、雨も次第にひどくなったので、その夜は村人の家に泊まる事になりました。
相手が武士ですから粗末にも出来ず、村人が寄り集まってご馳走を作り、お酒も振るまいました。夜が更けても酒盛りは一向に止みそうになく、お酒が過ぎてか、中の1人が刀を抜いて踊り出し、果ては村人に刀を突きつけたりしました。
村人達は明日になったら銭をせびられたり、殺すぞと言われたらと思うと、何だか空恐ろしくなり、早く休んで貰いたいと思っていました。村人の1人がこっそりと酒に毒を入れて勧めました。やがて7人とも泥のように眠ってしまいました。
翌日はからりと晴れて太陽が高くなっても、誰も起きて来ません。村人達は行って見ると、7人とも死んでいました。これは一大事と皆青くなりました。さてどうしたものか、このまま放っても置けないので、皆おどおどしながら相談をしました。相談の結果苦肉の策として、土佐方面から峠を越えてやって来た、7人の武上達が雨に合い、「熊おす」へ入って雨宿りをしていたら、座が落ちて、仕掛けに掛かって亡くなったと、言うことにして埋めました。 7人もの人達ですから、日が経つにつれて悪臭が漂い始め、皆恐ろしくなって誰も近寄らなくなりました。
何時の間にか年月が経って、辺りの木々も大木になりました。
その頃、夜になると可愛らしい男の子が現れて、そばを通る大人達に 「おっさん、相撲とらんか。相撲とらんか。」と言いました。「子供相手に相撲やか取っておれん。」と言っても、飛びついて来てころころと転がり、また起き上がっては飛びついて、ころころと転がる様子が面白くて可愛いいので、明け方まで遊んでしまいました。家に帰ると体が痛くて動けません。
こんな事が繰り返されていました。ある人は帰ってから煙草入れが無くなっているのに気付き、探しに行ったが見当たらず、空を見上げると大木の梢に煙草入れが掛かっていました。これは子供を転がしだのではなく、自分が投げられて体が痛いのだと気が付きました。
そんな時、村へ六部(ろくぶ)がやって来ました。村人がその話をするとそれでは「7人の武士の供養をしなさい。]と教えてくれました。そこで村中こぞって大きな石塚を積み、盛大に供養をしました。村人は後顧(こうこ)を憂いて、その事を一切口外しなくなりました。今でも石塚には小さな石に至るまで、梵字の跡がかすかに残っているそうです。
「熊おす」は、学校から良く見える場所にありますが、塚に登ったり、そばで遊んだりする子供は、誰も居ませんでした。
これは私が小さい頃、父が祖々父から聞いたと、昔話をせがむ私にしてくれた話です。藩政時代の頃の事でしょうから、自分達の村や家族は、自分達で守らなければならない。山深い小さな村では、この様な話があっても、決して不思議なことではなかった事でしょう。
尚この話は、北海道北見市の川口虎光さん97才(平成11年8月11日 死亡)にも聞きましたので、2人の話をまとめたものです。
註〔6部〕とは、「66部」の略。66部の法華経を書写して全国66か所の霊場を巡礼し、1部ずつ奉納する修行者。
経文をとなえて銭を乞い諸国をめぐる巡礼。
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嶺南のふるさと 中之川
熊おすの秘話
平成14年5月1日 記 石川美代子
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